2014年 10月 17日
塩野七生のエッセイ |
2014年10月17日(金)
「わたしは、若者には興味がない。わたし自身があの年齢に、良い意味でも悪い意味でも若者らしいことを十二分にやったから、今他人の彼らがなにをしようと、それは彼らの勝手と思う。わたしは、今のわたしを十二分に生きることしか、興味がないのです」
これはイタリアの著名な映画監督フェデリコ・フェッツリーニの言葉だそうだが、歴史小説家の塩野七生がエッセイ『男たちへ』(文春文庫)のなかで紹介している。このエッセイは副題に「フツウの男をフツウでない男にするための54章」となっていてなかなか面白い本である。
普通、こうした処世術じみた読みものは底が浅くて全然ためにならず面白くないと相場が決まっているものだが、この塩野氏が語る話は”ズバリ!”と言ってのけ、キレが良く、しかも含蓄をふくむ文章で綴られており、ついつい読み進んでしまう。
このなかの第43章に「男が上手に年をとるために」というのがある。
戦術1:まず、自分の年齢を、いつも頭の中に刻みこんでおくこと。
戦術2:そして、自分の年齢と、共存共栄の方法を考え、実行する。
戦術3:強いて、若づくりをしないこと。
戦術4:居なおること。つまり、自然体であること。
戦術5:一か所、どこかに派手な色を使うこと。
戦術6:恋をすること。
戦術7:優しくあること。
戦術8:清潔であること。
戦術9:疲労を見せるのを、怖れないこと。
戦術10:セックスは、九十歳になっても可能だと思うこと。
戦術番外:利口ぶった女の書く、男性論なんぞは読まないこと。
ここで「疲労を見せるのを、怖れないこと」とあるが、
無理に元気をよそおう男がいるが、あれも上手に年をとっていない証拠である。疲労の原因がどのようなことにあるかわからないほど、われわれ女は馬鹿ではない。それがすばらしいことをした後の疲労ならば、許すだけでなく、疲れをいやすことに全力を投入するだろう。
他の章でこんなのもあった。つい”あるある”と思いながら笑ってしまったが・・・
つまり、着こなしに気をつかうことなど、男にとっては遊びにすぎない。こうなると、男たちの間にあらわれてくる差は、この遊びが上手であるか下手であるかのちがいだけ、ということになる。そして「遊び」とは、真剣でないほうが上手くいくという逆説的性格をもつものである。
日本に帰国中に、ある男性向きの雑誌のインタヴューで、どういう男が好きか、とたずねられた。私の答えは、タキシードの似合う男、というものだった。そして、その理由として、こうつけ加えたのである。
「ジーパンの似合う男が必ずしもタキシードも似合うとはかぎらないが、タキシードの似合う男は、絶対にジーパンも似合うからです」
遊びは、ヴァリエーションを愉しめるところにしか存在しない。つまり、選択の自由が愉しめるところにしか、存在しないのである。ジーパン・オンリーを自負する男たちは、自分自身でも気づかない間に、束縛からの解放であったはずのジーパンが、「遊び」でなく「真剣」なことになるという落とし穴に、落ちこんでしまっているのだ。「真剣」にジーパンをはいている男など「真剣」に背広を着ている男とまったく同じに、こっけいそのものではないか。
このエッセイは1983年から88年にかけて雑誌『花椿』に連載された。
塩野七生(1937~)はローマ在住の女性歴史作家。
庄司薫、古井由吉は日比谷高校時代の同級生。学習院大を卒業したあと、イタリアでの生活が長く、イタリアを中心に、古代から近世に至る歴史小説を多数執筆している。
代表作の『ローマ人の物語』(1992~2006年新潮社全15巻/2002~2011年新潮文庫全43巻)は、古代ローマの興亡を、14年かけ毎年1巻を上梓した大長編。
この中から、今、文庫本第27巻「すべての道はローマに通ず」を手にしている。
あっ、そうそう男として気になるこんなことも書いてあった。「成功する男について」・・・
ここでいう「成功者とは、社会的地位の上下とあまり関係ないかもしれない。なぜなら、社会的地位ならばひどく高い男たちの中にでも、もうどうしようもないほど程度の低い男たちもいて、あんなのにまでは関わってはいられないと思うからである。やはり、ある程度の質は保証された「品」についての話でないと、男性論も香りを失う。
成功する男とは、まず第一に、身体全体からえもいわれぬ明るさを漂わせる男だ。~
静かな立居振舞いの中にも、なにか明るい雰囲気を漂わせている、そんなたぐいの明るさなのである。明るい、という表現でははっきりしないならば、イタリア語のセレーノという言葉に助けを求めるしかないのだが、SERENOというこの表現は、なかなか味わい深いのだ。
<静かに晴れた、澄みきった、のどかな、晴朗な>
おだやかな晴天、という場合にも、セレーノな空、というのだ。この他にも、晴れ晴れした顔、という場合にもセレーノを使うし、落ちついた、とか、客観的な、とか言いたい場合にも使われる。
例えば、平穏無事な生活も、セレーノな生活、となるし、客観的な判断も、セレーノな判断、というわけだ。
こう並べてくると、だいたいのことはわかってもらえると思う。
そして第二は、暗黒面にばかり眼がいく人、ではない男。
なにもかも暗く見てしまう性質の人は、周囲の者に耐えがたい思いをさせないではおかないものである。黒澤明監督の『羅生門』の終りのほうで、印象深い台詞があった。真実とは、所詮、その人が真実と思いたいものにすぎないのではないか、という一句である。
この考え方を応用すれば、人生の暗黒面ばかり眼がいく人は、人生というものを暗く思いたいからにすぎない、と言えないであろうか。
そして第三に、自らの仕事に九十パーセントの満足と、十パーセントの不満をもっている男。そして、第四に、ごくごく普通の常識を尊重すること。
なぜ普通人の常識は尊重しなければならないかということだが、それは、人には誰にも、存在理由をもつ権利があるからである。そして、しばしば、普通人が自らの存在理由を見出すのは、世間並の常識の中でしかないのだ。もしも、人生の成功者になりたければ、どんなに平凡な人間にも、五分の魂があることを忘れるわけにはいかない。
これは、人間性というものをあたたかく見る、ということでもある。真にヒューマンな人のまわりには、灯をしたうかのように、人は自然に集まってくるものである。
「わたしは、若者には興味がない。わたし自身があの年齢に、良い意味でも悪い意味でも若者らしいことを十二分にやったから、今他人の彼らがなにをしようと、それは彼らの勝手と思う。わたしは、今のわたしを十二分に生きることしか、興味がないのです」
これはイタリアの著名な映画監督フェデリコ・フェッツリーニの言葉だそうだが、歴史小説家の塩野七生がエッセイ『男たちへ』(文春文庫)のなかで紹介している。このエッセイは副題に「フツウの男をフツウでない男にするための54章」となっていてなかなか面白い本である。
普通、こうした処世術じみた読みものは底が浅くて全然ためにならず面白くないと相場が決まっているものだが、この塩野氏が語る話は”ズバリ!”と言ってのけ、キレが良く、しかも含蓄をふくむ文章で綴られており、ついつい読み進んでしまう。
このなかの第43章に「男が上手に年をとるために」というのがある。
戦術1:まず、自分の年齢を、いつも頭の中に刻みこんでおくこと。
戦術2:そして、自分の年齢と、共存共栄の方法を考え、実行する。
戦術3:強いて、若づくりをしないこと。
戦術4:居なおること。つまり、自然体であること。
戦術5:一か所、どこかに派手な色を使うこと。
戦術6:恋をすること。
戦術7:優しくあること。
戦術8:清潔であること。
戦術9:疲労を見せるのを、怖れないこと。
戦術10:セックスは、九十歳になっても可能だと思うこと。
戦術番外:利口ぶった女の書く、男性論なんぞは読まないこと。
ここで「疲労を見せるのを、怖れないこと」とあるが、
無理に元気をよそおう男がいるが、あれも上手に年をとっていない証拠である。疲労の原因がどのようなことにあるかわからないほど、われわれ女は馬鹿ではない。それがすばらしいことをした後の疲労ならば、許すだけでなく、疲れをいやすことに全力を投入するだろう。
他の章でこんなのもあった。つい”あるある”と思いながら笑ってしまったが・・・
つまり、着こなしに気をつかうことなど、男にとっては遊びにすぎない。こうなると、男たちの間にあらわれてくる差は、この遊びが上手であるか下手であるかのちがいだけ、ということになる。そして「遊び」とは、真剣でないほうが上手くいくという逆説的性格をもつものである。
日本に帰国中に、ある男性向きの雑誌のインタヴューで、どういう男が好きか、とたずねられた。私の答えは、タキシードの似合う男、というものだった。そして、その理由として、こうつけ加えたのである。
「ジーパンの似合う男が必ずしもタキシードも似合うとはかぎらないが、タキシードの似合う男は、絶対にジーパンも似合うからです」
遊びは、ヴァリエーションを愉しめるところにしか存在しない。つまり、選択の自由が愉しめるところにしか、存在しないのである。ジーパン・オンリーを自負する男たちは、自分自身でも気づかない間に、束縛からの解放であったはずのジーパンが、「遊び」でなく「真剣」なことになるという落とし穴に、落ちこんでしまっているのだ。「真剣」にジーパンをはいている男など「真剣」に背広を着ている男とまったく同じに、こっけいそのものではないか。
このエッセイは1983年から88年にかけて雑誌『花椿』に連載された。
塩野七生(1937~)はローマ在住の女性歴史作家。
庄司薫、古井由吉は日比谷高校時代の同級生。学習院大を卒業したあと、イタリアでの生活が長く、イタリアを中心に、古代から近世に至る歴史小説を多数執筆している。
代表作の『ローマ人の物語』(1992~2006年新潮社全15巻/2002~2011年新潮文庫全43巻)は、古代ローマの興亡を、14年かけ毎年1巻を上梓した大長編。
この中から、今、文庫本第27巻「すべての道はローマに通ず」を手にしている。
あっ、そうそう男として気になるこんなことも書いてあった。「成功する男について」・・・
ここでいう「成功者とは、社会的地位の上下とあまり関係ないかもしれない。なぜなら、社会的地位ならばひどく高い男たちの中にでも、もうどうしようもないほど程度の低い男たちもいて、あんなのにまでは関わってはいられないと思うからである。やはり、ある程度の質は保証された「品」についての話でないと、男性論も香りを失う。
成功する男とは、まず第一に、身体全体からえもいわれぬ明るさを漂わせる男だ。~
静かな立居振舞いの中にも、なにか明るい雰囲気を漂わせている、そんなたぐいの明るさなのである。明るい、という表現でははっきりしないならば、イタリア語のセレーノという言葉に助けを求めるしかないのだが、SERENOというこの表現は、なかなか味わい深いのだ。
<静かに晴れた、澄みきった、のどかな、晴朗な>
おだやかな晴天、という場合にも、セレーノな空、というのだ。この他にも、晴れ晴れした顔、という場合にもセレーノを使うし、落ちついた、とか、客観的な、とか言いたい場合にも使われる。
例えば、平穏無事な生活も、セレーノな生活、となるし、客観的な判断も、セレーノな判断、というわけだ。
こう並べてくると、だいたいのことはわかってもらえると思う。
そして第二は、暗黒面にばかり眼がいく人、ではない男。
なにもかも暗く見てしまう性質の人は、周囲の者に耐えがたい思いをさせないではおかないものである。黒澤明監督の『羅生門』の終りのほうで、印象深い台詞があった。真実とは、所詮、その人が真実と思いたいものにすぎないのではないか、という一句である。
この考え方を応用すれば、人生の暗黒面ばかり眼がいく人は、人生というものを暗く思いたいからにすぎない、と言えないであろうか。
そして第三に、自らの仕事に九十パーセントの満足と、十パーセントの不満をもっている男。そして、第四に、ごくごく普通の常識を尊重すること。
なぜ普通人の常識は尊重しなければならないかということだが、それは、人には誰にも、存在理由をもつ権利があるからである。そして、しばしば、普通人が自らの存在理由を見出すのは、世間並の常識の中でしかないのだ。もしも、人生の成功者になりたければ、どんなに平凡な人間にも、五分の魂があることを忘れるわけにはいかない。
これは、人間性というものをあたたかく見る、ということでもある。真にヒューマンな人のまわりには、灯をしたうかのように、人は自然に集まってくるものである。
by kirakuossan
| 2014-10-17 09:33
| 文芸
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