2014年 07月 06日
ネイガウスと3人の弟子たち その4 |
2014年7月6日(日)
人間関係において肌が合うとか、ウマが合わない、といったことはよくあることだ。ゲンリフ・ネイガウスとエミール・ギレリスとの師弟関係はそのような卑近なたとえだけで簡単には片づけられないものがあったように思われる。二人の最初の出会いは、1932年冬、ギレリスが16歳、ネイガウス44歳の時である。このあたりの経緯についてはグリゴーリ・ガルドン著『エミール・ギレリス』(森松皓子訳/音楽之友社刊)に詳しく記されている。
ギレリスの存在を、この国の音楽界の中心であるモスクワで示す必要があった。モスクワでのこのような”仮縫い”(試験的登場)は不可避で必須であった。モスクワの教授たちは、レインバリドの願いを断らなかった。彼女は自分のメモに次のように書いている。「1933年冬、全ソ・コンクールの数ヵ月前に、私はエミールを連れてモスクワに向った。彼の演奏を聴いてもらった。才能への評価は控えめであった。そしてコンクールのみが、初めて真の意味で十六歳のピアニストの才能を開花させた」。
「彼の演奏を聴いてもらった」とはそもそも何を意味するのだろう?誰が聞いたのか?
答えをいおう。ギレリスの演奏を聴いたのはネイガウスであった。このことが「演奏を聴いてもらった」の意味するところである。好むと好まざるとにかかわらず、考慮に入れざるをえないのは、レインバリドがネイガウスの名前を隠したということである。
ここで問いたいのはレインバリドが、ネイガウスへの最高の善意を込めて意識的に、彼の先見性のなさ、つまり彼がギレリスの力量を”当て”なかったことへの批判を避けているのか、ということである。
すでにアルトゥール・ルービンシュタインやバロフスキーなどの当代超一流のピアニスト達が絶賛しているにもかかわらず、このような予想外の批評を下したのはどういう意味なのか?
その真意は、ルービンシュタインがギレリスを初めて聴いた時の素直な印象から発せられた言葉の中に含まれている。
何と、そこには少年がいた。ふさふさした赤黄色の髪をもち、頬にそばかすのある少年がえんそうした・・・。私はそのときの感想を伝達することができない。いえるのは、いつの日か彼がアメリカにやって来たときには、私は鞄をまとめて、去った方がよいだろうと思ったことである。
思うに、ネイガウスは決して”先見性”がなかったのではない。ギレリスのその想像を絶する才能を感じとって、芸術家のもつ本能ともいえるだろう、”恐怖”と”嫉妬”、それに直情的に”排斥”の念が働いたに違いない。
しかし、1933年5月、それらのことがものの見事に払いのけられ、栄冠を勝ち得たギレリスはコンクールを境に突如としてモスクワに知れ渡ることとなる。そのコンクールでの様子の一部始終をこの著書では生々しく迫力をもって記されている。ある一人の審査員の供述である。
”小僧”が演奏を始めると、コンクールのあいだ誰もが弾いていたピアノが、別の、遥かに立派なピアノに換えられたような印象を与えた。若者の指の下で音楽はそれほど素晴らしく響き始めた。若いピアニストは、自分という磁石でホール全体を引きつけ魅惑した・・・。
彼がプログラム最後の、モーツァルトのオペラ<フィガロの結婚>のテーマによるリストの「幻想曲」を演奏し終えたときには、私たちの前にいるのは、ピアニストのなかで最高のピアニストであり、ピアノ・コンクールの唯一の先頭ランナーであるということが明白になった。プログラムの終了後、ホールをいっぱいにした聴衆だけではなく、審査員全員も―あらかじめそうしないようにと申し合わせていたにもかかわらず―立ち上って、いっせいに、長い間、若いピアニストに拍手を送ったのであった。まだ十七歳にもなっていないこの若者こそは、エミール・ギレリスであった。
コンクールからちょうど2年後に、このコンクールでの最後のプログラムであったリストの「幻想曲」を録音した。当時の様子が再び呼び起こされるほどの熱演である。
リスト:
モーツァルトの「フィガロの結婚」の主題による幻想曲
エミール・ギレリス(pf)
1935年
つづく・・・
人間関係において肌が合うとか、ウマが合わない、といったことはよくあることだ。ゲンリフ・ネイガウスとエミール・ギレリスとの師弟関係はそのような卑近なたとえだけで簡単には片づけられないものがあったように思われる。二人の最初の出会いは、1932年冬、ギレリスが16歳、ネイガウス44歳の時である。このあたりの経緯についてはグリゴーリ・ガルドン著『エミール・ギレリス』(森松皓子訳/音楽之友社刊)に詳しく記されている。
ギレリスの存在を、この国の音楽界の中心であるモスクワで示す必要があった。モスクワでのこのような”仮縫い”(試験的登場)は不可避で必須であった。モスクワの教授たちは、レインバリドの願いを断らなかった。彼女は自分のメモに次のように書いている。「1933年冬、全ソ・コンクールの数ヵ月前に、私はエミールを連れてモスクワに向った。彼の演奏を聴いてもらった。才能への評価は控えめであった。そしてコンクールのみが、初めて真の意味で十六歳のピアニストの才能を開花させた」。
「彼の演奏を聴いてもらった」とはそもそも何を意味するのだろう?誰が聞いたのか?
答えをいおう。ギレリスの演奏を聴いたのはネイガウスであった。このことが「演奏を聴いてもらった」の意味するところである。好むと好まざるとにかかわらず、考慮に入れざるをえないのは、レインバリドがネイガウスの名前を隠したということである。
ここで問いたいのはレインバリドが、ネイガウスへの最高の善意を込めて意識的に、彼の先見性のなさ、つまり彼がギレリスの力量を”当て”なかったことへの批判を避けているのか、ということである。
すでにアルトゥール・ルービンシュタインやバロフスキーなどの当代超一流のピアニスト達が絶賛しているにもかかわらず、このような予想外の批評を下したのはどういう意味なのか?
その真意は、ルービンシュタインがギレリスを初めて聴いた時の素直な印象から発せられた言葉の中に含まれている。
何と、そこには少年がいた。ふさふさした赤黄色の髪をもち、頬にそばかすのある少年がえんそうした・・・。私はそのときの感想を伝達することができない。いえるのは、いつの日か彼がアメリカにやって来たときには、私は鞄をまとめて、去った方がよいだろうと思ったことである。
思うに、ネイガウスは決して”先見性”がなかったのではない。ギレリスのその想像を絶する才能を感じとって、芸術家のもつ本能ともいえるだろう、”恐怖”と”嫉妬”、それに直情的に”排斥”の念が働いたに違いない。
”小僧”が演奏を始めると、コンクールのあいだ誰もが弾いていたピアノが、別の、遥かに立派なピアノに換えられたような印象を与えた。若者の指の下で音楽はそれほど素晴らしく響き始めた。若いピアニストは、自分という磁石でホール全体を引きつけ魅惑した・・・。
彼がプログラム最後の、モーツァルトのオペラ<フィガロの結婚>のテーマによるリストの「幻想曲」を演奏し終えたときには、私たちの前にいるのは、ピアニストのなかで最高のピアニストであり、ピアノ・コンクールの唯一の先頭ランナーであるということが明白になった。プログラムの終了後、ホールをいっぱいにした聴衆だけではなく、審査員全員も―あらかじめそうしないようにと申し合わせていたにもかかわらず―立ち上って、いっせいに、長い間、若いピアニストに拍手を送ったのであった。まだ十七歳にもなっていないこの若者こそは、エミール・ギレリスであった。
コンクールからちょうど2年後に、このコンクールでの最後のプログラムであったリストの「幻想曲」を録音した。当時の様子が再び呼び起こされるほどの熱演である。
リスト:
モーツァルトの「フィガロの結婚」の主題による幻想曲
エミール・ギレリス(pf)
1935年
つづく・・・
by kirakuossan
| 2014-07-06 08:58
| クラシック
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