2014年 03月 03日
クラシック音楽に思うこと |
2014年3月3日(月)
僕のクラシック音楽好きを、人は「高尚な趣味ですなあ」と言う。クラシック音楽は全く高尚でも何でもないのだが、人はそういう風に感じているのか、皆そう言う。その裏には皮肉が込められていることも多いが。(なんともの好きな...)
「高尚」とはどういう意味かは別としても、ただクラシック音楽は万人すべてが好むものではないのは事実である。だからこそクラシック音楽ファンの存在する価値があり、居場所がある。
クラシック音楽が、全ての人に愛され、吉野家で牛丼を食っていても、イオンで買い物をしていても、いつどこででもベートーヴェンの「英雄」が休むことなく流れ聞こえてきたら、これはもうとてもじゃないがついて行けない。
一人密かに、聴きたいときに、ゆっくりとリラックスして自分だけの世界に立ち入る処にクラシック音楽の魅力があり、悦びがある。このホントの味を知り、体感すれば、たいがいの人間であったらのめり込んで行くはずである。だからクラシック音楽に興味のない人は、いつかのときにそういったものに接するチャンスがなかったか、もう一歩進んで自分の耳で確かめてみようという気持がなかっただけだと思う。幸い自分は、小学校高学年のころ、音楽の時間でビゼーの「カルメン」や「アルルの女」を耳にしてクラシックに目覚めた。家では、ナショナルの黒い格子戸模様のラジオの黄色いダイヤルをラジオ第二放送に合わせては、雑音にまみれながらよく聴いたものだ。親も兄弟も誰一人興味を示さなかったが、不思議と自分だけは違った。
やがて中学、高校へと進むと、当時のオープンリールの録音機を買ってもらい、隔刊雑誌FMファンを片手に、録音マニアに変身したものだ。それがやがてカセットテープに変り、いよいよFM放送の虜になってしまった。吉田秀和の「名曲の楽しみ」をはじめ、楽しみによく聴いたのは「来日演奏家」の生放送の演奏であった。いつも一番に思い出すのは、ザンデルリンクがドレスデン国立管弦楽団を率いて来日し演奏した、あの荘厳なブラームスの交響曲第1番である。この音楽に痺れ、その後の、アバドのウィーン・フィル、ムラヴィンスキーとレニングラードフィルの実演に接し、いよいよ自分の「クラシック音楽への探究」が生涯続くことになる。社会人になり、暫らくは頻繁に演奏会に出向き、レコードも買いあさった。そしていつの間にかクラシック音楽とすこし距離を置き、遠のいた時間もあったが、また、今から15~6年前に突如として、蘇り、もうあとはほとんど狂人に近いほど、日夜クラシック音楽に埋没しているのである。
読書(音楽)ということは、人間の想像したもっとも価値の高い快楽の一つだと思う。快楽などというと怒られるかもしれないが、私にとってはそれが実感であって、たとえば演劇、映画から酒、たばこ、美食などを禁じられるより、読書(音楽)を禁じられるほうがはるかに苦痛であり、おそらく耐えられないだろうと思う。といっても、私の読書(音楽)は無系統で乱脈で、まったくもう(妾)読(聴)というにひとしいが、学者になるわけでないから、好きなものを読む(聴く)という自由だけ確保してゆくつもりである。
山本周五郎がエッセイ「無限の快楽」―書物と人生 でこう語っているが、そっくりそのまま読書を、「音楽」に置き換えれば、自分の心境となる。ただ願わくば、「酒」だけは残しておいて欲しいのだが。
マーラーの第7番「夜の歌」を気張って聴いている。でもこの音楽だけは、とりとめもなく、ただダラダラとつづく印象で、まったく好きになれない。マーラーの交響曲で、これだけはどうも苦手である。この22日に、ゲヴァントハウスとシャイーがこのシンフォニーを演奏するが、それまでには少しでも聴きどころを掴んでおかなくてはと、思ってはいるのだが・・・
僕のクラシック音楽好きを、人は「高尚な趣味ですなあ」と言う。クラシック音楽は全く高尚でも何でもないのだが、人はそういう風に感じているのか、皆そう言う。その裏には皮肉が込められていることも多いが。(なんともの好きな...)
「高尚」とはどういう意味かは別としても、ただクラシック音楽は万人すべてが好むものではないのは事実である。だからこそクラシック音楽ファンの存在する価値があり、居場所がある。
クラシック音楽が、全ての人に愛され、吉野家で牛丼を食っていても、イオンで買い物をしていても、いつどこででもベートーヴェンの「英雄」が休むことなく流れ聞こえてきたら、これはもうとてもじゃないがついて行けない。
一人密かに、聴きたいときに、ゆっくりとリラックスして自分だけの世界に立ち入る処にクラシック音楽の魅力があり、悦びがある。このホントの味を知り、体感すれば、たいがいの人間であったらのめり込んで行くはずである。だからクラシック音楽に興味のない人は、いつかのときにそういったものに接するチャンスがなかったか、もう一歩進んで自分の耳で確かめてみようという気持がなかっただけだと思う。幸い自分は、小学校高学年のころ、音楽の時間でビゼーの「カルメン」や「アルルの女」を耳にしてクラシックに目覚めた。家では、ナショナルの黒い格子戸模様のラジオの黄色いダイヤルをラジオ第二放送に合わせては、雑音にまみれながらよく聴いたものだ。親も兄弟も誰一人興味を示さなかったが、不思議と自分だけは違った。
やがて中学、高校へと進むと、当時のオープンリールの録音機を買ってもらい、隔刊雑誌FMファンを片手に、録音マニアに変身したものだ。それがやがてカセットテープに変り、いよいよFM放送の虜になってしまった。吉田秀和の「名曲の楽しみ」をはじめ、楽しみによく聴いたのは「来日演奏家」の生放送の演奏であった。いつも一番に思い出すのは、ザンデルリンクがドレスデン国立管弦楽団を率いて来日し演奏した、あの荘厳なブラームスの交響曲第1番である。この音楽に痺れ、その後の、アバドのウィーン・フィル、ムラヴィンスキーとレニングラードフィルの実演に接し、いよいよ自分の「クラシック音楽への探究」が生涯続くことになる。社会人になり、暫らくは頻繁に演奏会に出向き、レコードも買いあさった。そしていつの間にかクラシック音楽とすこし距離を置き、遠のいた時間もあったが、また、今から15~6年前に突如として、蘇り、もうあとはほとんど狂人に近いほど、日夜クラシック音楽に埋没しているのである。
読書(音楽)ということは、人間の想像したもっとも価値の高い快楽の一つだと思う。快楽などというと怒られるかもしれないが、私にとってはそれが実感であって、たとえば演劇、映画から酒、たばこ、美食などを禁じられるより、読書(音楽)を禁じられるほうがはるかに苦痛であり、おそらく耐えられないだろうと思う。といっても、私の読書(音楽)は無系統で乱脈で、まったくもう(妾)読(聴)というにひとしいが、学者になるわけでないから、好きなものを読む(聴く)という自由だけ確保してゆくつもりである。
山本周五郎がエッセイ「無限の快楽」―書物と人生 でこう語っているが、そっくりそのまま読書を、「音楽」に置き換えれば、自分の心境となる。ただ願わくば、「酒」だけは残しておいて欲しいのだが。
マーラーの第7番「夜の歌」を気張って聴いている。でもこの音楽だけは、とりとめもなく、ただダラダラとつづく印象で、まったく好きになれない。マーラーの交響曲で、これだけはどうも苦手である。この22日に、ゲヴァントハウスとシャイーがこのシンフォニーを演奏するが、それまでには少しでも聴きどころを掴んでおかなくてはと、思ってはいるのだが・・・
by kirakuossan
| 2014-03-03 10:43
| 偶感
|
Trackback