2014年 02月 28日
感心と感動との間には百里の距離がある。 |
2014年2月28日(金)
男前ということ以外に何の取柄もない人があるように、名文というだけで何の栄養素もない糟粕文もある。
志賀直哉の小説は名文であると早くから決まっていて、私も一向に異存はないけれども、あれはすなわち名文なのであって、お義理にも良い文章と讃えるわけにはいかない。あの名文は要するに技術であり細工であり藝である。熟練した角兵衛獅子が余裕たっぷりに見せてくれる手練手管のようなものである。
これは文芸評論家で、自称書誌学者であった谷沢永一氏の言葉である。実に妙を得た表現である。「男前ということ以外・・・」と、辛辣な言葉で始まるが、辛辣さはこの人の専売特許であって、最初何をしている人かよくわからなかった。3年ほど前に亡くなられたが、専門は近代日本文学の学者だったことをその時知った。でもどちらかといえば、その専門外で幅広く活躍したという印象のほうが強い。著書『悪魔の思想』では、日本を貶めた進歩的文化人として大内兵衛、大江健三郎、加藤周一、久野収、向坂逸郎・・・など12名を実名で挙げ、具体例を指し示して批判した、のは有名で、とくに大江健三郎を嫌い、氏のことを「国内と国外で発言をきっちり使い分ける卑屈な男」といって憚らない。若いときは共産党員であったが、学生時分に転向し、皇室を重んじる保守の論客の一人となるなど、あの丸顔の温厚そうな好々爺な風貌からはとても想像もつかない。
昨日、愛車の車検を控え、その直前の点検というのがあって、滋賀スバルまで出向くが、その帰りに久しぶりにbook off へ立ち寄り、面白そうな本を手に入れた。
『大人の国語』~隠れた名文はこれだけある という谷沢永一の600ページ近くある書物だ。
志賀直哉の話がつづく・・・
あの率直で滑らかで上品な文章に接して、仮にほんの僅かであったにしても、人の世に生命果てるまで生きて行くすべを、胸の奥底に応えるような暗示が、直截に与えられるであろうか。私は外面のよい気分で組み立てた文を、アンコの入っていない上質の饅頭皮に譬えたい。志賀直哉を読めば、誰でも上手いなあ上品だなあと感心するであろうけれども、人間として敬愛し深く感動する人だろうか。少なくとも文学の世界においてに限るのだが、感心と感動との間には百里の距離がある。
そして彼は言うのである。
私は『暗夜行路』における表現を、良い文章ではない、秀れた文章ではない、模範とすべきではない、基本的な要素の欠落した、非人間的な文章である、と固く信じる次第である。
まあ、ここまで言うか、という思いだが、単刀直入で、うなずけるところも大いにあってまことに興味深い。ちょっとこの分厚い本をじっくりと読んでみたい衝動に駆られる。
つづく・・・
男前ということ以外に何の取柄もない人があるように、名文というだけで何の栄養素もない糟粕文もある。
志賀直哉の小説は名文であると早くから決まっていて、私も一向に異存はないけれども、あれはすなわち名文なのであって、お義理にも良い文章と讃えるわけにはいかない。あの名文は要するに技術であり細工であり藝である。熟練した角兵衛獅子が余裕たっぷりに見せてくれる手練手管のようなものである。
これは文芸評論家で、自称書誌学者であった谷沢永一氏の言葉である。実に妙を得た表現である。「男前ということ以外・・・」と、辛辣な言葉で始まるが、辛辣さはこの人の専売特許であって、最初何をしている人かよくわからなかった。3年ほど前に亡くなられたが、専門は近代日本文学の学者だったことをその時知った。でもどちらかといえば、その専門外で幅広く活躍したという印象のほうが強い。著書『悪魔の思想』では、日本を貶めた進歩的文化人として大内兵衛、大江健三郎、加藤周一、久野収、向坂逸郎・・・など12名を実名で挙げ、具体例を指し示して批判した、のは有名で、とくに大江健三郎を嫌い、氏のことを「国内と国外で発言をきっちり使い分ける卑屈な男」といって憚らない。若いときは共産党員であったが、学生時分に転向し、皇室を重んじる保守の論客の一人となるなど、あの丸顔の温厚そうな好々爺な風貌からはとても想像もつかない。
昨日、愛車の車検を控え、その直前の点検というのがあって、滋賀スバルまで出向くが、その帰りに久しぶりにbook off へ立ち寄り、面白そうな本を手に入れた。
『大人の国語』~隠れた名文はこれだけある という谷沢永一の600ページ近くある書物だ。
志賀直哉の話がつづく・・・
あの率直で滑らかで上品な文章に接して、仮にほんの僅かであったにしても、人の世に生命果てるまで生きて行くすべを、胸の奥底に応えるような暗示が、直截に与えられるであろうか。私は外面のよい気分で組み立てた文を、アンコの入っていない上質の饅頭皮に譬えたい。志賀直哉を読めば、誰でも上手いなあ上品だなあと感心するであろうけれども、人間として敬愛し深く感動する人だろうか。少なくとも文学の世界においてに限るのだが、感心と感動との間には百里の距離がある。
そして彼は言うのである。
私は『暗夜行路』における表現を、良い文章ではない、秀れた文章ではない、模範とすべきではない、基本的な要素の欠落した、非人間的な文章である、と固く信じる次第である。
まあ、ここまで言うか、という思いだが、単刀直入で、うなずけるところも大いにあってまことに興味深い。ちょっとこの分厚い本をじっくりと読んでみたい衝動に駆られる。
つづく・・・
by kirakuossan
| 2014-02-28 09:00
| 文芸
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