2014年 02月 12日
興味深い作曲年代 (マーラーのない音楽史3) |
2014年2月12日(水)
属啓成の『音楽の歴史』(音楽之友社刊)
「古典主義の音楽」
ハイドン(1732~1809)、モーツァルト(1756~1791) 、そしてベートーヴェン(1770~1827)の三人はいずれもウィーンに集り、互いに影響し合って作曲活動を行った。ここになるほどな、といった記述がある。
モーツァルトは1756年1月27日にザルツブルグで生れた。年代的にはハイドンより24年若いが、ハイドンは27歳で第1番の交響曲を作曲したのに反して、モーツァルトの第1番交響曲は8歳のときの作であるから、作曲活動はほとんど同じときに始まっているのである。
そしてモーツァルトの一生は1791年に終っているのに、ハイドンはそれよりも18年も長生きをした。それよりも面白いことは、モーツァルトの若い頃はハイドンを尊敬し、ハイドンから学ぶところがあったが、モーツァルトが死んだあとのハイドンの交響曲には、モーツァルト的な優美性と歌謡性があらわれて、逆にモーツァルトの影響をうけるのである。
すなわちハイドンは1732年生まれだから、1759年に最初の交響曲を書いた。モーツァルトは1764年ということになるから、確かに僅か5年のずれである。ここのところは意外と気がつかない。先ずハイドンがいて、そのあとにモーツァルトが続く、だから”交響曲の父”と言われるぐらいのハイドンであるから、一人で交響曲というものを確立したように思いこんでいる。ここにあるようにハイドンの後期がモーツァルトの影響を受けたことを見落としがちである。ただベートーヴェンはこのときはまだ生れておらず、最初の第1交響曲を作曲したのはずっと後の1800年、モーツァルトはすでにこの世にいないし、ハイドンは104曲の交響曲をすべて書き終えていた。ということはモーツァルトとハイドンは、こと交響曲に関してはベートーヴェンの影響を受けていないことになる。むしろベートーヴェンが二人の影響を受けたことは否定できない。彼の第1番の交響曲を聴けば、うなずけることではあるが、ただベートーヴェンの凄いところは、次の第2番の交響曲ではすでに自らのオリジナリティーを発揮しているところであって、さらには続く「英雄」交響曲でそのことはより明白になる。
ハイドン:交響曲第1番 ニ長調 Hob.I:1
(1759年作曲)
モーツァルト:交響曲第1番 変ホ長調 K. 16
(1764年作曲)
ベートーヴェン:交響曲第1番 ハ長調 Op. 21
(1800年作曲)
モーツァルトの後期三大交響曲は1788年(32歳)に作曲されたが、この時、ハイドンは3曲の「ドーニ交響曲」のうち第91番を作曲している頃で、3年後の1791年から、ハイドンの集大成である「ザロモン交響曲」シリーズ、第93番からの12曲を書きだすこととなる。
この頃、ベートーヴェンはまだ交響曲には着手しておらず、ピアノ協奏曲もなく、室内楽曲の3つのピアノ四重奏曲(1785年)、2声のフーガ ニ長調 WoO.31(オルガン)(1783年)、三重奏曲 ト長調 WoO.37(チェンバロ、フルート、ファゴット)(1786年)、ロンド ハ長調 WoO.48(1783年)やロンド イ長調 WoO.49(同年)のピアノ小品、それに僅かの歌曲があるくらいだであった。彼が本格的に大作を創り出すのは、1802年の『ハイリゲンシュタットの遺書』の前後あたり、30歳を迎えてからである。
こうして作曲年代を追ってみてみるのも興味深いものである。
属啓成の『音楽の歴史』(音楽之友社刊)
「古典主義の音楽」
ハイドン(1732~1809)、モーツァルト(1756~1791) 、そしてベートーヴェン(1770~1827)の三人はいずれもウィーンに集り、互いに影響し合って作曲活動を行った。ここになるほどな、といった記述がある。
モーツァルトは1756年1月27日にザルツブルグで生れた。年代的にはハイドンより24年若いが、ハイドンは27歳で第1番の交響曲を作曲したのに反して、モーツァルトの第1番交響曲は8歳のときの作であるから、作曲活動はほとんど同じときに始まっているのである。
そしてモーツァルトの一生は1791年に終っているのに、ハイドンはそれよりも18年も長生きをした。それよりも面白いことは、モーツァルトの若い頃はハイドンを尊敬し、ハイドンから学ぶところがあったが、モーツァルトが死んだあとのハイドンの交響曲には、モーツァルト的な優美性と歌謡性があらわれて、逆にモーツァルトの影響をうけるのである。
すなわちハイドンは1732年生まれだから、1759年に最初の交響曲を書いた。モーツァルトは1764年ということになるから、確かに僅か5年のずれである。ここのところは意外と気がつかない。先ずハイドンがいて、そのあとにモーツァルトが続く、だから”交響曲の父”と言われるぐらいのハイドンであるから、一人で交響曲というものを確立したように思いこんでいる。ここにあるようにハイドンの後期がモーツァルトの影響を受けたことを見落としがちである。ただベートーヴェンはこのときはまだ生れておらず、最初の第1交響曲を作曲したのはずっと後の1800年、モーツァルトはすでにこの世にいないし、ハイドンは104曲の交響曲をすべて書き終えていた。ということはモーツァルトとハイドンは、こと交響曲に関してはベートーヴェンの影響を受けていないことになる。むしろベートーヴェンが二人の影響を受けたことは否定できない。彼の第1番の交響曲を聴けば、うなずけることではあるが、ただベートーヴェンの凄いところは、次の第2番の交響曲ではすでに自らのオリジナリティーを発揮しているところであって、さらには続く「英雄」交響曲でそのことはより明白になる。
ハイドン:交響曲第1番 ニ長調 Hob.I:1
(1759年作曲)
モーツァルト:交響曲第1番 変ホ長調 K. 16
(1764年作曲)
ベートーヴェン:交響曲第1番 ハ長調 Op. 21
(1800年作曲)
モーツァルトの後期三大交響曲は1788年(32歳)に作曲されたが、この時、ハイドンは3曲の「ドーニ交響曲」のうち第91番を作曲している頃で、3年後の1791年から、ハイドンの集大成である「ザロモン交響曲」シリーズ、第93番からの12曲を書きだすこととなる。
この頃、ベートーヴェンはまだ交響曲には着手しておらず、ピアノ協奏曲もなく、室内楽曲の3つのピアノ四重奏曲(1785年)、2声のフーガ ニ長調 WoO.31(オルガン)(1783年)、三重奏曲 ト長調 WoO.37(チェンバロ、フルート、ファゴット)(1786年)、ロンド ハ長調 WoO.48(1783年)やロンド イ長調 WoO.49(同年)のピアノ小品、それに僅かの歌曲があるくらいだであった。彼が本格的に大作を創り出すのは、1802年の『ハイリゲンシュタットの遺書』の前後あたり、30歳を迎えてからである。
こうして作曲年代を追ってみてみるのも興味深いものである。
by kirakuossan
| 2014-02-12 22:25
| クラシック
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