2013年 10月 23日
マコトニオ・モンロイの『交響曲名盤探訪』 |
2013年10月23日(水)
先月亡くなられたが、日本人作曲家として著名な諸井誠(1930~ 2013)という人がおられた。父も諸井三郎といって有名な作曲家であった。諸井誠氏は、長い間、「十二音技法」なる現代音楽を研究され、自分の作品にも取り入れられている。「ピアノ協奏曲第1番」などを聴くがちょっと難しい。この人のもう一つの顔が、音楽評論家であった。こちらの方は、実に軽妙なタッチで書かれた文章で、親しみを帯び、楽しみながら読めるので好きだ。なにせ、イタリア風にマコトニオ・モンロイという別名での著作もあるぐらいの人だから。
『諸井誠の交響曲名盤探訪』
(音楽之友社刊)という、例の僕の好きなやつだ。名盤の紹介本は色んな音楽評論家が執筆しているが、諸井氏のはどことなくイメージからしても品があって、ユーモアーを含んでいて、内容も濃いそうだ。それにこの人の書物はほとんどが音楽之友社から出ていて、勝手に想像するに、いかにもアカデミックな感じがするのも良い。
さっそく読んでみよう。オイオイ、冒頭から、ブラームスの第1番だ。読む方も力が入るというもんだ。
ブラームス交響曲第1番ハ短調
カラヤン対ベーム
カラヤンはこの交響曲の解釈では、彼の最初の1943年のコンセルトヘボウとの演奏の時にすでに確立されていて、一貫しているとする、だがベームは晩年に変ったと指摘する。カラヤンに関しては4度の録音が残っているが、
四つの演奏の中では、1963年のが最もロマンティックで、宗教的な、神秘的表現をさえ求めているように感じられる。ただ、第一楽章に関してだけは、最初のレコーディング、即ち43年のが突出して遅い。77~8年には一番古典的であり、節度を重んじた、クールな演奏となっている。録音からいうと、63年のが空間的広がりを重んじたコンセプトなのに対して、77~8年のは、低音部、特にコントラバスをオンに録音し、響きの重心を低くしているのが意識過剰なほどに感じられる。最高の演奏は、中庸が保たれている最後の録音だ(87年のベルリン・フィル)。ここではカラヤンのブラームス解釈の結論が提出されている。
NMLの有り難いところは、ちゃんと43年のカラヤン/コンセルトヘボウとの演奏が用意されていること。さっそく聴いてみたが、戦争最中の録音ではあるが、ある意味悲壮感を含んではいるが、古臭さは全くなく、緊張感を伴った力演である。
カラヤンが生涯の大半を通じて、一つの解釈で通したのとは反対に、ベームの晩年は、モーツァルトでも、ベートーヴェンでも、またブラームスでも、テンポが遅くなっていた。しかしそれを指摘すると、老匠はあまり良い顔をしなかった。ドレスデン時代のベームのあのスピード感は、ウィーン時代に入って次第に影を潜め、遂に限界までゆっくりのテンポに落ちて行ったのである。
フルトヴェングラー対トスカニーニ
カラヤンやベームに聴くように、ブラームスの交響曲第一番において、特にその第一楽章で目立っているのは、楽章の途中しばしばテンポを緩めたり、速めたりして、浪漫的な気分を盛り上げるやり方である。そのルーツを辿れば、おそらく19世紀ドイツ/オーストリアの演奏スタイルまで遡るのだろうが、20世紀においてこれは、およそフルトヴェングラーによって代表されるものと考えてよいのではないだろうか。これと真正面から対立するのが、トスカニーニ流の、ほとんどテンポを動かさずに、同じような表現を、節度をもって行おうとするスタイルである。
ここでフルトヴェングラーは47年11月のウィーン・フィル(ベルリン・フィルの間違い)との演奏を、トスカニーニは40年5月のNBC交響楽団との演奏をとりあげていたが、NMLにあった、フルトヴェングラーと41年のトスカニーニを聴き比べてみたが、確かに如実にその違いが判明した。ブラームス自身の楽譜からいけば、多分トスカニーニになるんだろうけれど。
ミュンシュ対クレンペラー
ミュンシュはパリ管弦楽団との68年1月の演奏、クレンペラーは56年10月のフィルハーモニーとの録音比較。重々しく悲劇的な雰囲気を強調した開始はいかにもミュンシュらしいとし、第四楽章では、序奏部の壮大な気分から主部の第一主題への移行はごく自然で、この主題のテンポを敢えて押さえることなく、アレグロ・マ・ノン・トロッポの適切なテンポで開始、安定して進み、最後のクライマックス形成に至ると分析。一方の、クレンペラーはスケールこそ大きな演奏だが、時に明確すぎる嫌いがあり、ピアニッシモのコントロールに問題が残ると指摘、ただ、弦楽器群の第一、第二ヴァイオリンの左右振り分けなど古典的配置により、ブラームスの狙った効果が良く出ているともいう。
他には、バーンスタイン/ウィーン・フィル(81年)は、2,3楽章の平静な曲想に対して、1、4楽章の動的性格の強調がこの演奏の身上であろう、とし、最終楽章で、第一主題の旋律のはいりのテンポをうんと落として開始しする。徐々にテンポを上げて行く、ピークまで持っていくと今度はテンポを落とし、終結に向かって激しさをます効果的な演出をする、といった個性的な解釈をする。これは実際にCDで聴いてみた。確かに第一主題のはいり方はかなりゆっくりだ。ここでのテンポの上げ下げはごく自然で、しかもクライマックスで自然の流れとして最高潮にもっていくあたり、さすがバースタインである。
なにかブラームスだけで終わってしまったが、他にマーラー2番、ベートーヴェン3番、ブルックナー4番・・・など12曲を徹底分析している。なかなか読み応えがある。
さあ、今度の日曜日は待ちに待ったチェコ・フィルの演奏会だ。当日のプログラムがこのブラームスの第1番というところも最高に楽しみである。
先月亡くなられたが、日本人作曲家として著名な諸井誠(1930~ 2013)という人がおられた。父も諸井三郎といって有名な作曲家であった。諸井誠氏は、長い間、「十二音技法」なる現代音楽を研究され、自分の作品にも取り入れられている。「ピアノ協奏曲第1番」などを聴くがちょっと難しい。この人のもう一つの顔が、音楽評論家であった。こちらの方は、実に軽妙なタッチで書かれた文章で、親しみを帯び、楽しみながら読めるので好きだ。なにせ、イタリア風にマコトニオ・モンロイという別名での著作もあるぐらいの人だから。
『諸井誠の交響曲名盤探訪』
(音楽之友社刊)という、例の僕の好きなやつだ。名盤の紹介本は色んな音楽評論家が執筆しているが、諸井氏のはどことなくイメージからしても品があって、ユーモアーを含んでいて、内容も濃いそうだ。それにこの人の書物はほとんどが音楽之友社から出ていて、勝手に想像するに、いかにもアカデミックな感じがするのも良い。
さっそく読んでみよう。オイオイ、冒頭から、ブラームスの第1番だ。読む方も力が入るというもんだ。
ブラームス交響曲第1番ハ短調
カラヤン対ベーム
カラヤンはこの交響曲の解釈では、彼の最初の1943年のコンセルトヘボウとの演奏の時にすでに確立されていて、一貫しているとする、だがベームは晩年に変ったと指摘する。カラヤンに関しては4度の録音が残っているが、
四つの演奏の中では、1963年のが最もロマンティックで、宗教的な、神秘的表現をさえ求めているように感じられる。ただ、第一楽章に関してだけは、最初のレコーディング、即ち43年のが突出して遅い。77~8年には一番古典的であり、節度を重んじた、クールな演奏となっている。録音からいうと、63年のが空間的広がりを重んじたコンセプトなのに対して、77~8年のは、低音部、特にコントラバスをオンに録音し、響きの重心を低くしているのが意識過剰なほどに感じられる。最高の演奏は、中庸が保たれている最後の録音だ(87年のベルリン・フィル)。ここではカラヤンのブラームス解釈の結論が提出されている。
NMLの有り難いところは、ちゃんと43年のカラヤン/コンセルトヘボウとの演奏が用意されていること。さっそく聴いてみたが、戦争最中の録音ではあるが、ある意味悲壮感を含んではいるが、古臭さは全くなく、緊張感を伴った力演である。
カラヤンが生涯の大半を通じて、一つの解釈で通したのとは反対に、ベームの晩年は、モーツァルトでも、ベートーヴェンでも、またブラームスでも、テンポが遅くなっていた。しかしそれを指摘すると、老匠はあまり良い顔をしなかった。ドレスデン時代のベームのあのスピード感は、ウィーン時代に入って次第に影を潜め、遂に限界までゆっくりのテンポに落ちて行ったのである。
フルトヴェングラー対トスカニーニ
カラヤンやベームに聴くように、ブラームスの交響曲第一番において、特にその第一楽章で目立っているのは、楽章の途中しばしばテンポを緩めたり、速めたりして、浪漫的な気分を盛り上げるやり方である。そのルーツを辿れば、おそらく19世紀ドイツ/オーストリアの演奏スタイルまで遡るのだろうが、20世紀においてこれは、およそフルトヴェングラーによって代表されるものと考えてよいのではないだろうか。これと真正面から対立するのが、トスカニーニ流の、ほとんどテンポを動かさずに、同じような表現を、節度をもって行おうとするスタイルである。
ここでフルトヴェングラーは47年11月のウィーン・フィル(ベルリン・フィルの間違い)との演奏を、トスカニーニは40年5月のNBC交響楽団との演奏をとりあげていたが、NMLにあった、フルトヴェングラーと41年のトスカニーニを聴き比べてみたが、確かに如実にその違いが判明した。ブラームス自身の楽譜からいけば、多分トスカニーニになるんだろうけれど。
ミュンシュ対クレンペラー
ミュンシュはパリ管弦楽団との68年1月の演奏、クレンペラーは56年10月のフィルハーモニーとの録音比較。重々しく悲劇的な雰囲気を強調した開始はいかにもミュンシュらしいとし、第四楽章では、序奏部の壮大な気分から主部の第一主題への移行はごく自然で、この主題のテンポを敢えて押さえることなく、アレグロ・マ・ノン・トロッポの適切なテンポで開始、安定して進み、最後のクライマックス形成に至ると分析。一方の、クレンペラーはスケールこそ大きな演奏だが、時に明確すぎる嫌いがあり、ピアニッシモのコントロールに問題が残ると指摘、ただ、弦楽器群の第一、第二ヴァイオリンの左右振り分けなど古典的配置により、ブラームスの狙った効果が良く出ているともいう。
他には、バーンスタイン/ウィーン・フィル(81年)は、2,3楽章の平静な曲想に対して、1、4楽章の動的性格の強調がこの演奏の身上であろう、とし、最終楽章で、第一主題の旋律のはいりのテンポをうんと落として開始しする。徐々にテンポを上げて行く、ピークまで持っていくと今度はテンポを落とし、終結に向かって激しさをます効果的な演出をする、といった個性的な解釈をする。これは実際にCDで聴いてみた。確かに第一主題のはいり方はかなりゆっくりだ。ここでのテンポの上げ下げはごく自然で、しかもクライマックスで自然の流れとして最高潮にもっていくあたり、さすがバースタインである。
なにかブラームスだけで終わってしまったが、他にマーラー2番、ベートーヴェン3番、ブルックナー4番・・・など12曲を徹底分析している。なかなか読み応えがある。
さあ、今度の日曜日は待ちに待ったチェコ・フィルの演奏会だ。当日のプログラムがこのブラームスの第1番というところも最高に楽しみである。
by kirakuossan
| 2013-10-23 17:05
| クラシック
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