2013年 10月 20日
今、中東を知るために・・・(6)イスラエル対アラブ |
2013年10月20日(日)
黒の網かけがアラブ連盟加盟国、一点、赤色がユダヤ人国家のイスラエルである。この地図の意味するものは...
争いが起きる度にアラブ各国の思惑が、またアメリカを中心とした先進国の思惑も絡み、必ずしもアラブ連盟は一枚岩ではない。リーダー国のエジプトがイスラエルと結んだ単独和平でまとまりが無くなり、地域ではPLOが絡んだヨルダン内戦、レバノン内戦などが相次ぐ。イラン・イラク戦争では一貫してイラクを支持し続けたが、湾岸戦争では内部分裂の結果調停に失敗し、多くの国が対イラク攻撃に参戦することになる。そういった歴史を踏まえて最近ではアラブ連盟の政治的役割はますます低下してきているが、過去に唯一、共同歩調を取ったときがある。それが第四次までに及んだ中東戦争、いわゆるアラブ連盟国とイスラエルとの戦争の時である。裏返せば、それほどに僅かイスラエル一国家の存在だがこの中東に及ぼす影響は極めて大きいのである。
極論すれば、パレスチナ、すなわちイスラエル国家の今ある”所”、この地にユダヤ人の国であるイスラエルが建国された。しかも一方的に「建国宣言」がなされた。結果的には、もともと住んでいたアラブ人であるパレスチナ人をこの地から追い出しての建国であって、このことが一方で多くのパレスチナ難民を生み出すことになる。またユダヤ人にとっては、”かって神が示してくれた約束の地は”シオンの丘・エルサレム”は元来我々の土地ということになる。この背景については一言ではかたずけられないほどの深い軋轢を帯びているのである。
イスラエル
ユダヤ人は、紀元70年にローマ軍によって国を奪われ、世界中にディアスポラ(離散)した。2000年も前のこれがそもそもの発端で、以降、世界中で迫害を受け、追放と虐殺が繰り広げられた。その根底にはキリスト教徒のユダヤ人に対する、キリストをローマ総督に引き渡し十字架にかけさせたという”恨み”が存在する。ユダヤ人迫害は19世紀末ころからロシアや東欧でより激しくなり、政府が公認するまでになるが、キエフではナチスの大虐殺以上のことも行われた。そんな中からシオニズムの思想が現実味を帯びてくる。イスラエルの地であるパレスチナに自分たちの故郷を再建しようという動きである。時期を同じくして、常にフランスとともにアラブ支配をもくろむイギリスの時の外務大臣アーサー・バルフォアの「イギリス政府は、パレスチナにユダヤ人のナショナル・ホームを設立することを支持する」という書簡文によって、一層、拍車がかかることとなる。政府を代表する立場でもない一政治家の、しかもあいまいな表現による書簡文が将来の混迷の事態を引き起こす発端となった。
すわ、世界中からユダヤ人は続々とパレスティナに向うことになる。当初は50万人のパレスティナ人に対して、ユダヤ人は2万人ほどであった。しかし、バルフォア宣言のころには8万人を越え、第二次世界大戦が起こり、戦後1947年11月29日に国連総会でパレスティナの分割決議がなされた時には、43%のアラブ国家に対してユダヤ国家は56%にもなっており、ユダヤ人口は実に65万人までに膨れ上がっていた。
1948年のパレスティナ人とユダヤ人の戦いから始まる四次にわたる中東戦争を見ていくことによってイスラエルが見えてくる。
つづく・・・
争いが起きる度にアラブ各国の思惑が、またアメリカを中心とした先進国の思惑も絡み、必ずしもアラブ連盟は一枚岩ではない。リーダー国のエジプトがイスラエルと結んだ単独和平でまとまりが無くなり、地域ではPLOが絡んだヨルダン内戦、レバノン内戦などが相次ぐ。イラン・イラク戦争では一貫してイラクを支持し続けたが、湾岸戦争では内部分裂の結果調停に失敗し、多くの国が対イラク攻撃に参戦することになる。そういった歴史を踏まえて最近ではアラブ連盟の政治的役割はますます低下してきているが、過去に唯一、共同歩調を取ったときがある。それが第四次までに及んだ中東戦争、いわゆるアラブ連盟国とイスラエルとの戦争の時である。裏返せば、それほどに僅かイスラエル一国家の存在だがこの中東に及ぼす影響は極めて大きいのである。
極論すれば、パレスチナ、すなわちイスラエル国家の今ある”所”、この地にユダヤ人の国であるイスラエルが建国された。しかも一方的に「建国宣言」がなされた。結果的には、もともと住んでいたアラブ人であるパレスチナ人をこの地から追い出しての建国であって、このことが一方で多くのパレスチナ難民を生み出すことになる。またユダヤ人にとっては、”かって神が示してくれた約束の地は”シオンの丘・エルサレム”は元来我々の土地ということになる。この背景については一言ではかたずけられないほどの深い軋轢を帯びているのである。
イスラエル
ユダヤ人は、紀元70年にローマ軍によって国を奪われ、世界中にディアスポラ(離散)した。2000年も前のこれがそもそもの発端で、以降、世界中で迫害を受け、追放と虐殺が繰り広げられた。その根底にはキリスト教徒のユダヤ人に対する、キリストをローマ総督に引き渡し十字架にかけさせたという”恨み”が存在する。ユダヤ人迫害は19世紀末ころからロシアや東欧でより激しくなり、政府が公認するまでになるが、キエフではナチスの大虐殺以上のことも行われた。そんな中からシオニズムの思想が現実味を帯びてくる。イスラエルの地であるパレスチナに自分たちの故郷を再建しようという動きである。時期を同じくして、常にフランスとともにアラブ支配をもくろむイギリスの時の外務大臣アーサー・バルフォアの「イギリス政府は、パレスチナにユダヤ人のナショナル・ホームを設立することを支持する」という書簡文によって、一層、拍車がかかることとなる。政府を代表する立場でもない一政治家の、しかもあいまいな表現による書簡文が将来の混迷の事態を引き起こす発端となった。
すわ、世界中からユダヤ人は続々とパレスティナに向うことになる。当初は50万人のパレスティナ人に対して、ユダヤ人は2万人ほどであった。しかし、バルフォア宣言のころには8万人を越え、第二次世界大戦が起こり、戦後1947年11月29日に国連総会でパレスティナの分割決議がなされた時には、43%のアラブ国家に対してユダヤ国家は56%にもなっており、ユダヤ人口は実に65万人までに膨れ上がっていた。
1948年のパレスティナ人とユダヤ人の戦いから始まる四次にわたる中東戦争を見ていくことによってイスラエルが見えてくる。
つづく・・・
by kirakuossan
| 2013-10-20 16:11
| 海外
|
Trackback