2013年 09月 26日
今、中東を知るために・・・(5)政権維持のための戦争 |
2013年9月26日(木)
イラク
イラクの国土はいびつな三角形をしており、西はシリア砂漠にあってシリア、ヨルダンとに接し、北はトルコ、東はペルシャ湾沿いの河口、そして南はネフド砂漠中にあり、クウェート、サウジアラビアとの国境に接する。南側にユーフラテス川、北側にティグリス川と二本の大河があり、その周辺に広がるメソポタミア平原に人口が集中している。国民の80%がアラブ人で、16%がクルド人、宗教はシーア派が65%、スンナ派が35%をしめる。
そんな国が1979年に新たな指導者にサダム・フセインを擁してからは戦に続く戦の連続である。これほどに国民にとって迷惑で不幸な話はない。フセインは単なる野望だけを抱いた身勝手な独裁者なのか。明らかに言えることは、フセイン政権は体制維持のため独裁色を強めることを第一義的に考え、国民を常に戦時下に置くことによって国家総動員態勢を敷き、緊張状態を創り上げて行った。その最初が、フセイン大統領就任直後の「イ・イ戦争」に他ならない。色んな理由づけはあるにしても、事の本質は国家の掌握、政権の維持にほかならない。
そして米国の支援により、戦争をイラク優位のうえに終結をさせると、急速に湾岸地域においてイラクは軍事的優位な立場に立つ。そして次の標的を探すこととなる。本来ならイスラエルなのだろうが、ここでフセインはクウェートに眼をつける。あくまでも表面は、オスマン帝国時代はイラクの一部であったという理由をかざすが、本音はクウェートの軍事基地としての魅力と、そして対外戦争を起こして国民総動員の緊張体制を引き続き敷く戦略であった。
湾岸戦争は1990年8月、イラクがクウェートに侵攻したのをきっかけに、国連が連合軍である多国籍軍の派遣を決定、翌年1月にイラクを空爆した事に始まった戦争である。イラクの軍事侵攻に対し、国連安保理事会は即時無条件撤退を求め、さらに全加盟国に対してイラクへの全面禁輸の経済制裁を行う決議を採択した。さらに米国は同時に、サウジアラビアへ圧力をかけて、アメリカ軍駐留を認めさせたうえ、米軍のサウジアラビア派遣を決定した。もともとサウジアラビアは国内にメッカという聖地を抱えており、外国人に対して入国を厳しくしており、ましてや異教徒の軍隊の進駐を認めることは信じ難いことであった。しかし、サウジアラビアとしても、イラクと対立し、クウェートに続いて自国も侵略される事を最も恐れ、国土を解放するにいたる。これには他のイスラームの国家は予想外としてとらえ、さらには反米の気運が高まることともなる。このことが後々のイスラームと米国との関係において微妙な影響を及ぼす発端となる。余談だが、サウジアラビア国民であったビンラディーンは、この出来事を機に、より反米色を強め、敵対するきっかけとなったといわれる。
イラクは一貫して「イスラエルのパレスチナ侵略を容認しながら今回のクウェート併合を非難するのは矛盾している」と主張(「リンケージ論」)し続けるが、バーレーン、カタール、オマーン、アラブ首長国連邦などの湾岸産油国も次々にアメリカに同調し、イギリスやフランスなどもこれに続いた。さらにはエジプトなどのアラブ各国もアラブ合同軍を結成してこれに参加し、ついにはアメリカと敵対関係にあったシリアまでもがも参戦を決定することとなる。これらの支援を受け、米国を中心に延べ50万人の多国籍軍がサウジアラビアのイラク・クウェート国境付近に進駐することとなる。
フセインは「イスラーム対イスラエルとその支持者(ユダヤ教・キリスト教などの異教徒)」の構図を築こうと考え、現実にイスラエルに攻撃を加えることとなる。これに対してイスラエル国民はイラクへの怒りで沸騰するが、イラクからの挑発を受けてイスラエルが参戦することは「異教徒間戦争」となってフセインの思惑に乗ってしまうことになるとして米国や国連の要請によってイスラエル政府は耐え、フセインの目論見は失敗する。
そして、湾岸戦争は2か月で終結、イラクは多大な犠牲を被ることとなる。
ただ不可思議なのは、なぜこの時に米国はフセインを徹底的に排除しなかったのか。2003年のイラク戦争で結局フセイン排除が明らかであったのをみるとそう考えざるを得ない。いずれにしてもイラク国民にとっては湾岸戦争以降は「失われた12年」で、フセインによって立ち直れないほどの国にしてしまった。この間の戦死者だけでなく、200万人ともいわれる有能な技術陣などの中間層も海外へ流出するなど、人的資源の喪失は計り知れないほど大きいものであった。石油埋蔵量ではサウジアラビアに次ぐ豊富さを誇る世界第二位の国、これまでの経緯からみても複雑な社会構成にあるイラクにおいて、安定した統治国になるにはまだまだ長い歳月を要するのであろう。
つづく・・・
イラク
イラクの国土はいびつな三角形をしており、西はシリア砂漠にあってシリア、ヨルダンとに接し、北はトルコ、東はペルシャ湾沿いの河口、そして南はネフド砂漠中にあり、クウェート、サウジアラビアとの国境に接する。南側にユーフラテス川、北側にティグリス川と二本の大河があり、その周辺に広がるメソポタミア平原に人口が集中している。国民の80%がアラブ人で、16%がクルド人、宗教はシーア派が65%、スンナ派が35%をしめる。
そんな国が1979年に新たな指導者にサダム・フセインを擁してからは戦に続く戦の連続である。これほどに国民にとって迷惑で不幸な話はない。フセインは単なる野望だけを抱いた身勝手な独裁者なのか。明らかに言えることは、フセイン政権は体制維持のため独裁色を強めることを第一義的に考え、国民を常に戦時下に置くことによって国家総動員態勢を敷き、緊張状態を創り上げて行った。その最初が、フセイン大統領就任直後の「イ・イ戦争」に他ならない。色んな理由づけはあるにしても、事の本質は国家の掌握、政権の維持にほかならない。
そして米国の支援により、戦争をイラク優位のうえに終結をさせると、急速に湾岸地域においてイラクは軍事的優位な立場に立つ。そして次の標的を探すこととなる。本来ならイスラエルなのだろうが、ここでフセインはクウェートに眼をつける。あくまでも表面は、オスマン帝国時代はイラクの一部であったという理由をかざすが、本音はクウェートの軍事基地としての魅力と、そして対外戦争を起こして国民総動員の緊張体制を引き続き敷く戦略であった。
湾岸戦争は1990年8月、イラクがクウェートに侵攻したのをきっかけに、国連が連合軍である多国籍軍の派遣を決定、翌年1月にイラクを空爆した事に始まった戦争である。イラクの軍事侵攻に対し、国連安保理事会は即時無条件撤退を求め、さらに全加盟国に対してイラクへの全面禁輸の経済制裁を行う決議を採択した。さらに米国は同時に、サウジアラビアへ圧力をかけて、アメリカ軍駐留を認めさせたうえ、米軍のサウジアラビア派遣を決定した。もともとサウジアラビアは国内にメッカという聖地を抱えており、外国人に対して入国を厳しくしており、ましてや異教徒の軍隊の進駐を認めることは信じ難いことであった。しかし、サウジアラビアとしても、イラクと対立し、クウェートに続いて自国も侵略される事を最も恐れ、国土を解放するにいたる。これには他のイスラームの国家は予想外としてとらえ、さらには反米の気運が高まることともなる。このことが後々のイスラームと米国との関係において微妙な影響を及ぼす発端となる。余談だが、サウジアラビア国民であったビンラディーンは、この出来事を機に、より反米色を強め、敵対するきっかけとなったといわれる。
イラクは一貫して「イスラエルのパレスチナ侵略を容認しながら今回のクウェート併合を非難するのは矛盾している」と主張(「リンケージ論」)し続けるが、バーレーン、カタール、オマーン、アラブ首長国連邦などの湾岸産油国も次々にアメリカに同調し、イギリスやフランスなどもこれに続いた。さらにはエジプトなどのアラブ各国もアラブ合同軍を結成してこれに参加し、ついにはアメリカと敵対関係にあったシリアまでもがも参戦を決定することとなる。これらの支援を受け、米国を中心に延べ50万人の多国籍軍がサウジアラビアのイラク・クウェート国境付近に進駐することとなる。
フセインは「イスラーム対イスラエルとその支持者(ユダヤ教・キリスト教などの異教徒)」の構図を築こうと考え、現実にイスラエルに攻撃を加えることとなる。これに対してイスラエル国民はイラクへの怒りで沸騰するが、イラクからの挑発を受けてイスラエルが参戦することは「異教徒間戦争」となってフセインの思惑に乗ってしまうことになるとして米国や国連の要請によってイスラエル政府は耐え、フセインの目論見は失敗する。
そして、湾岸戦争は2か月で終結、イラクは多大な犠牲を被ることとなる。
ただ不可思議なのは、なぜこの時に米国はフセインを徹底的に排除しなかったのか。2003年のイラク戦争で結局フセイン排除が明らかであったのをみるとそう考えざるを得ない。いずれにしてもイラク国民にとっては湾岸戦争以降は「失われた12年」で、フセインによって立ち直れないほどの国にしてしまった。この間の戦死者だけでなく、200万人ともいわれる有能な技術陣などの中間層も海外へ流出するなど、人的資源の喪失は計り知れないほど大きいものであった。石油埋蔵量ではサウジアラビアに次ぐ豊富さを誇る世界第二位の国、これまでの経緯からみても複雑な社会構成にあるイラクにおいて、安定した統治国になるにはまだまだ長い歳月を要するのであろう。
つづく・・・
by kirakuossan
| 2013-09-26 13:00
| 海外
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