2013年 07月 13日
名著『東洋の理想』 ⑨ |
2013年7月13日(土)
室町時代から安土桃山時代にかけての200年を岡倉天心は「足利時代」と呼ぶ。この時代は足利氏に次いで戦国大名らも登場して活躍する面白い時代であり、また、北山文化、東山文化、そして桃山文化に象徴される華やかな時代でもある。天心の言を借りれば、「近代芸術の真の音調、すなわち文学的意味における浪漫主義、を打ち鳴らしている時代」ということになる。
足利時代(一四〇〇年~一六〇〇年)
足利期の理想は、その根源を、鎌倉時代に優勢となった仏教の一宗派禅宗に負うている。「禅」とは、最高の安息における瞑想を意味するディヤナからきたものであるが、西暦五二〇年に僧侶として中国にきたインドの王子菩堤達磨を通して、その国にはじめて伝えられたものである。しかし、それは中華の地に移植されて育つ前に、まず老荘の思想を同化しなければならなかったもので、そして、そういう形においては、唐朝の末頃になってその出現を見せている。馬祖や臨済の教義は、この宗派の最初の唱道者のそれとは明確に区別されるものである。
話は「禅」に始まり、この教えの影響受けた生活のしぶりや芸術へと展開して行く。その精神は、「美、あるいは万物の生命は、外にあらわされたときよりも内にかくされたときに常にいっそう深みのあるものである」とされる。それを”硯箱”や”刀の鞘”などを引き合いに出して天心は語る。そして、宋朝の芸術は偉大な時代であったが、しかし、禅思想をそのすべての強さと純粋さとにおいて吸収するには、儒教的形式主義から解放された日本精神のインド的傾向にある足利期の偉大な芸術家らの存在を必要とした、と結論づける。
続いて、この時代の卓越した二人の画家、雪舟や雪村の作品が、自然の描写ではなく、自然についての試論であるとする。
雪舟がその地位を得ているのは、禅の精神の大きな特徴である直截さと克己とによる。彼の絵に相対するとき、われわれは、他のいかなる画家もけっして与えることのない安定した落着きを学び知るのである。
他方、雪村には、禅の理想のもうひとつの本質的な特性をなすところの、自由と、気安さと、洒脱味とがある。~~
多数の他の人々がこれらの人々の後につづいている―能阿弥、芸阿弥、相阿弥、宗舟、啓書記、正信、元信、その他の名匠の名が綺羅星のごとくに並んでこの時代をみたし、他に比すべき時代を見ない。というのも、足利の将軍たちは、芸術の偉大な庇護者であり、またこの時代の生活が、教養と洗煉とをもたらすようなものだったからである。
やがて話は当時の音楽までに及ぶ。ここの部分はかなりの多さになるが、『東洋の理想』における天心の言葉をそのままに載せる。
当時における音楽の発達について若干言及することなしに、足利時代の考察を離れることはできない。けだし、それほど芸術衝動の精神性を示しているものはなく、また、わが国民音楽が成熟した形であらわれてくるのは、この足利時代の間においてであるからである。
これより以前には、庶民の素朴な古謡を別とすれば、われわれにはただ六朝後期の舞楽があっただけである。そしてこれは、インドおよび中国に由来するものではあるが、なおかつ、ギリシアの音楽にはなはだ近いものである。そして、これは当然の話で、なぜかといえば、いずれもみなひとしく初期アジアの歌謡と旋律という共通の幹から分れ出た枝にすぎなかったにちがいないからである。この舞楽は、かつて忘れ去られたことがない。われわれは、いまでもなお、日本において、昔ながらの衣装をつけ、昔ながらの足拍子に合わせて、それが演奏されるのを聞くことができる。特定の世襲の人々によってそれが保存されてきたいかげである。それは、いまはおそらく小々機械的で無表情なものになってはいるが、しかし、アポロへの讃歌は、舞楽の伶人たちによって、いまなおその本来の様式において演奏されることもできるであろう。
尚武の時代の要求に忠実に従い、鎌倉時代は、英雄たちの赫々たるほまれをたたえる叙事詩的民謡を歌った吟遊詩人たちを生み出した。藤原時代の仮面舞踊もまた、簡単な伴奏に合わせて吟謡調で語られる地獄の表現において、後に演劇的な発達を見るものとなった。これら二つの要素が次第に融合し、歴史的精神がこれに浸透して、かくて足利時代のはじめの頃、能楽が生まれた。この能楽は、それが闘争と事件との偉大な国民的主題に献げられているところから、常に日本の音楽と演劇とにおけるもっとも強力な要素のひとつとしてとどまるであろうと思われるものである。
能が演じられる舞台は、硬い白木でできていて、背景に、やや型にはまった描き方で、一本の松の木が描かれている。かくして偉大な単調が暗示されている。主立った役の数は三人で、小さな合唱団とオーケストラが舞台上の一方の側に坐している。主な演技者―というよりも「語り手」といった方がいいくらいであるが―は面をかぶり、かくて全般の理想化を助ける。詩は歴史的主題を扱い、常にそれらを仏教の思想によって解釈している。すぐれているかいないかの標準は、無限の暗示性であって、自然主義は非難さるべき随一のものである。こういう条件の下に、ただわずかに軽い喜劇的な間狂言で息抜きをするだけで、観客はまる一日中魅了されて坐っているのである。
天心が東京美術学校で明治23年から3年間「美学及美術史」として講義したときの原典となる『日本美術史』には、日本美術史を大別して、古代、中世、近世の三時代とし、古代は奈良朝、中世は藤原および鎌倉時代、近世を足利時代としている。それらの時代を簡潔明瞭に表現している。
一、奈良期は理想的で壮麗である。
二、藤原氏時代は感情的で優美である。
三、足利時代は自覚的で高淡である。
『東洋の理想』を読んでいると、一種独特の表現が繰り返されることがある。大岡信は『岡倉天心』のなかで述べているが、『東洋の理想』や『茶の本』は英文主著で、邦訳されている。つまり、日本人が日本語で書かず、英文で書いたものを、さらに他の日本人が邦訳するといったことになるので、文章そのものは天心自身が書いたそのままの文章ではないということになる。このへん辺りが、岡倉天心を文学者として何かしらそぐわない感じがする、と述べている。
いま読んでいる講談社の文庫本には邦訳者のことは一切触られておらず、ただ著者岡倉天心とだけなっていが、読み易い日本語で書かれている。また、いま手元にある『日本美術史』(昭和14年10月・聖文閣刊)の黴て黄ばんだページを丁寧に頁をめくって読んでいく文章は、活字こそ古めかしいが文体そのものは、『東洋の理想』となんら変らない。
いずれにしても、この英文主著の本、どんな形で書かれていようと、文章のエキスそのものは天心に変りはないのである。
室町時代から安土桃山時代にかけての200年を岡倉天心は「足利時代」と呼ぶ。この時代は足利氏に次いで戦国大名らも登場して活躍する面白い時代であり、また、北山文化、東山文化、そして桃山文化に象徴される華やかな時代でもある。天心の言を借りれば、「近代芸術の真の音調、すなわち文学的意味における浪漫主義、を打ち鳴らしている時代」ということになる。
足利時代(一四〇〇年~一六〇〇年)
足利期の理想は、その根源を、鎌倉時代に優勢となった仏教の一宗派禅宗に負うている。「禅」とは、最高の安息における瞑想を意味するディヤナからきたものであるが、西暦五二〇年に僧侶として中国にきたインドの王子菩堤達磨を通して、その国にはじめて伝えられたものである。しかし、それは中華の地に移植されて育つ前に、まず老荘の思想を同化しなければならなかったもので、そして、そういう形においては、唐朝の末頃になってその出現を見せている。馬祖や臨済の教義は、この宗派の最初の唱道者のそれとは明確に区別されるものである。
話は「禅」に始まり、この教えの影響受けた生活のしぶりや芸術へと展開して行く。その精神は、「美、あるいは万物の生命は、外にあらわされたときよりも内にかくされたときに常にいっそう深みのあるものである」とされる。それを”硯箱”や”刀の鞘”などを引き合いに出して天心は語る。そして、宋朝の芸術は偉大な時代であったが、しかし、禅思想をそのすべての強さと純粋さとにおいて吸収するには、儒教的形式主義から解放された日本精神のインド的傾向にある足利期の偉大な芸術家らの存在を必要とした、と結論づける。
続いて、この時代の卓越した二人の画家、雪舟や雪村の作品が、自然の描写ではなく、自然についての試論であるとする。
雪舟がその地位を得ているのは、禅の精神の大きな特徴である直截さと克己とによる。彼の絵に相対するとき、われわれは、他のいかなる画家もけっして与えることのない安定した落着きを学び知るのである。
他方、雪村には、禅の理想のもうひとつの本質的な特性をなすところの、自由と、気安さと、洒脱味とがある。~~
多数の他の人々がこれらの人々の後につづいている―能阿弥、芸阿弥、相阿弥、宗舟、啓書記、正信、元信、その他の名匠の名が綺羅星のごとくに並んでこの時代をみたし、他に比すべき時代を見ない。というのも、足利の将軍たちは、芸術の偉大な庇護者であり、またこの時代の生活が、教養と洗煉とをもたらすようなものだったからである。
やがて話は当時の音楽までに及ぶ。ここの部分はかなりの多さになるが、『東洋の理想』における天心の言葉をそのままに載せる。
当時における音楽の発達について若干言及することなしに、足利時代の考察を離れることはできない。けだし、それほど芸術衝動の精神性を示しているものはなく、また、わが国民音楽が成熟した形であらわれてくるのは、この足利時代の間においてであるからである。
これより以前には、庶民の素朴な古謡を別とすれば、われわれにはただ六朝後期の舞楽があっただけである。そしてこれは、インドおよび中国に由来するものではあるが、なおかつ、ギリシアの音楽にはなはだ近いものである。そして、これは当然の話で、なぜかといえば、いずれもみなひとしく初期アジアの歌謡と旋律という共通の幹から分れ出た枝にすぎなかったにちがいないからである。この舞楽は、かつて忘れ去られたことがない。われわれは、いまでもなお、日本において、昔ながらの衣装をつけ、昔ながらの足拍子に合わせて、それが演奏されるのを聞くことができる。特定の世襲の人々によってそれが保存されてきたいかげである。それは、いまはおそらく小々機械的で無表情なものになってはいるが、しかし、アポロへの讃歌は、舞楽の伶人たちによって、いまなおその本来の様式において演奏されることもできるであろう。
尚武の時代の要求に忠実に従い、鎌倉時代は、英雄たちの赫々たるほまれをたたえる叙事詩的民謡を歌った吟遊詩人たちを生み出した。藤原時代の仮面舞踊もまた、簡単な伴奏に合わせて吟謡調で語られる地獄の表現において、後に演劇的な発達を見るものとなった。これら二つの要素が次第に融合し、歴史的精神がこれに浸透して、かくて足利時代のはじめの頃、能楽が生まれた。この能楽は、それが闘争と事件との偉大な国民的主題に献げられているところから、常に日本の音楽と演劇とにおけるもっとも強力な要素のひとつとしてとどまるであろうと思われるものである。
能が演じられる舞台は、硬い白木でできていて、背景に、やや型にはまった描き方で、一本の松の木が描かれている。かくして偉大な単調が暗示されている。主立った役の数は三人で、小さな合唱団とオーケストラが舞台上の一方の側に坐している。主な演技者―というよりも「語り手」といった方がいいくらいであるが―は面をかぶり、かくて全般の理想化を助ける。詩は歴史的主題を扱い、常にそれらを仏教の思想によって解釈している。すぐれているかいないかの標準は、無限の暗示性であって、自然主義は非難さるべき随一のものである。こういう条件の下に、ただわずかに軽い喜劇的な間狂言で息抜きをするだけで、観客はまる一日中魅了されて坐っているのである。
天心が東京美術学校で明治23年から3年間「美学及美術史」として講義したときの原典となる『日本美術史』には、日本美術史を大別して、古代、中世、近世の三時代とし、古代は奈良朝、中世は藤原および鎌倉時代、近世を足利時代としている。それらの時代を簡潔明瞭に表現している。
一、奈良期は理想的で壮麗である。
二、藤原氏時代は感情的で優美である。
三、足利時代は自覚的で高淡である。
『東洋の理想』を読んでいると、一種独特の表現が繰り返されることがある。大岡信は『岡倉天心』のなかで述べているが、『東洋の理想』や『茶の本』は英文主著で、邦訳されている。つまり、日本人が日本語で書かず、英文で書いたものを、さらに他の日本人が邦訳するといったことになるので、文章そのものは天心自身が書いたそのままの文章ではないということになる。このへん辺りが、岡倉天心を文学者として何かしらそぐわない感じがする、と述べている。
いま読んでいる講談社の文庫本には邦訳者のことは一切触られておらず、ただ著者岡倉天心とだけなっていが、読み易い日本語で書かれている。また、いま手元にある『日本美術史』(昭和14年10月・聖文閣刊)の黴て黄ばんだページを丁寧に頁をめくって読んでいく文章は、活字こそ古めかしいが文体そのものは、『東洋の理想』となんら変らない。
いずれにしても、この英文主著の本、どんな形で書かれていようと、文章のエキスそのものは天心に変りはないのである。
by kirakuossan
| 2013-07-13 05:47
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