ホンマ!気楽おっさんの蓼科偶感

保田與重郎という人 その3

2013年6月8日(土)

昭和55年の6月、新学社の講演のため京都に行くことになった時、岩崎幹雄(新学社)は「保田先生にお会いしてはどうですか」と言って下さった。こちらにとっては願ってもないことである。ただ時間的に少し遅くなるのではないかと心配したのであるが、「保田先生は夜の遅い分にはいっこうかまわない方です」ということだった。~
d0170835_23514950.jpg小さな硯にほんの少し水をたらしてちょっと墨をおすりになって、独特の筆跡で書いて下さった。その本は「日本語碌」であったが、それに「尾張にたたに向へる一つ松」とお書き下さった。言うまでもなく日本武尊の歌からである。日本武尊と言えば、先日、某社から「最も好きな歌か句か詩をあげて何か書け」という依頼状が来た。たまたま私の側にいた長男に、「お前の一番好きな和歌は何だ」ときいたら、即座に「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣山 隠れる 大和し美し」と日本武尊の御歌をあげた。保田先生は大和の方である。今の大学生にもこういうのがいることをお伝えしたかった。~
先生のお宅を辞したのは夜中の二時を廻っていた。時の経つのを忘れるというのは本当にあることなのである。その時、門l口まで出てこられた先生の温容が今も目に浮かぶ。その日の出会いが最初で最後であった。一期一会とはよく言われるが滅多にあることではない。今でも岩崎さんにその晩のことを感謝している。
~渡部昇一(上智大学教授)ただ一度の出会い


文をいかに読者の頭に長く刻みつけるかを教えるときになって、「日本の橋」で著者の使った技術は、アメリカのライティングの本の説く道にかなっていることに気がついた。いや、一般に文章技術を説く人は、文を読者の頭に長く留めるというリテンションの問題にはほとんど触れていない。そういう点では保田與重郎という人は特別な才能を持った人だったと思う。
特別というより、たとえば西鶴や武田麟太郎、織田作之助といった人たちの文に共通する、少し饒舌で具象的なイメージを畳みかける話術の持ち主だったと云った方がよいかもしれない。ヴィジュアライゼーションの達人としての保田與重郎も特筆すべきではないだろうか。~
すでに戦争は末期的症状を見せはじめていたが、保田與重郎の純粋な祖国愛は軍部の国粋主義と相容れなくなり、保田は要注意人物になりかけている、といった噂も聞いた。今にして思えば、もともと醜悪な軍国主義と保田與重郎の思想は氷炭のごとく離反しているのだから、当然のことだったのだろう。
~板坂元(創価大学教授)ディティールの記憶


d0170835_235428.jpgよく処女作にはその作家の資質の総てが集約されているといわれる。「日本の橋」はもとより処女作とはいえないが、文壇に初めて認められたこの作品には慥かに保田美学の特徴がよくあらわれている。その最たるものは、やはり大和国原の賛美と、そこを生地としてもっている者だけが了解し得るという<日本の血統>というものであろう。
これは佐藤春夫が「風流論」で述べているように、「あれ」といえば、その一言で気脈通じるような、大和の人が共有し得る一種の気宇のようなものであろう。この点については亀井勝一郎ならずとも、少なからず肌合いの違いを感じる読者もいることと思う。しかし、保田の美学を理解するには、実はこの点が大きなポイントになっているのである。亀井が保田をして、東洋のギリシャ人と幾分皮肉をこめて評したのも、この点が保田美学の重要なポイントだったからに他ならない。~
かつて小林秀雄の「無常といふ事」を読んで、その作者の直観のようなものに圧倒されたことがあるが、保田の「木曾冠者」などもその直観=想像力において決して劣らないものであると私は信じている。
~奥出健(近代日本文学者)想像力の凄さ

『私の保田與重郎』(著者:谷崎昭男ほか/新学社刊)より

つづく・・・
by kirakuossan | 2013-06-08 22:33 | | Trackback
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信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。


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