2013年 01月 08日
”後”のついた天皇 |
2013年1月8日(火)
初代神武天皇(紀元前660~585)に始まって今上天皇(1989~)まで125代にわたる。用明天皇(585~587)のとき仏教を正式に受け入れ、33代推古天皇(592~628)は初めての女性天皇につき、天智天皇(661~671)をはさんで、しばらく女性天皇が多くでる。斉明、持統、元明、元正、孝謙、称徳みな女性である。60代醍醐天皇(897~930)、白河天皇(1072~1086)、鳥羽天皇(1107~1123)を経て、後白河天皇(1155~1158)が77代、82代後鳥羽天皇(1183~1198)、96代後醍醐天皇(1318~1339)と続いていくが、歴史の観点から見て頭に”後”をつけた天皇は良し悪しにつけ事を起こし名を残している。
後白河天皇は幾度となく幽閉や院政に追い込まれるが、そのたびに復権を果たし、法皇までになって政治に絡む。もともと定見がないのでその時々の情勢に翻弄された印象は強いが、保元、平治の乱といった大きな歴史の中にいつもいた。仏教を厚く信奉して東大寺の大仏再建にも積極的に取り組んだ。
後鳥羽天皇は鎌倉幕府の成立時の天皇で、承久の乱で討幕を図るも敗れ、隠岐に島流しにあう。出家したのちは後鳥羽院となり、中世屈指の歌人、その歌作は後代にまで大きな影響を与えるまでになった。
少し後の後醍醐天皇も討幕を計画、何度も失敗し、彼も隠岐に流されるが、楠木正成らの助力により鎌倉幕府を滅ぼし京都に戻り政治を執ることになり、140年ぶりに政権は朝廷に戻ることとなる。
時の天皇に関係する人物も重要で、後白河天皇に平清盛、後鳥羽天皇に北条政子、後醍醐天皇は楠木正成であり足利尊氏などである。天皇の名の後先やこういった人物との関わり合いも入り乱れて覚えにくいのでこうしてみた・・・
白河の兵士(平家)は、歌を詠いながら鳥羽を北上(北条)し、醍醐には正成と尊氏が陣取った。
他に”後”のついた天皇は多い。後朱雀、後冷泉、後一条、後三条、後堀河、後嵯峨、後深草、後宇多、後伏見、後二条・・・延々と後も続く。さすがに京都の地名が多い。
渡部昇一著の『日本史<決定版>』④
1274年(文永11年)、1281年(弘安4年)の二回にわたり「蒙古襲来」を受けるが神風で日本は救われる。「強力な軍隊を有していた蒙古が侵略できなかった場所は三つあるといわれる。東ドイツの森と、ベトナムのジャングルと、それから日本海の沿岸である。」
元寇によって経済的に鎌倉幕府は大きな痛手を食い、基盤は大きく揺るがされることになるが、並行して「南北朝の争い」も生じる。争いの元は、これも”後”のつく後嵯峨天皇の長男より二男を愛するといった私情によるもので、天皇の死後、のちの実権者でもめる。これにより後深草上皇系統を北朝(持明院統)、亀山上皇系統を南朝(大覚寺統)とよび、互いに交互に皇位を譲り合うことにするがやがて対立する。時の執権は豪胆無双と呼ばれた北条時宗であったが元の襲来に頭がいっぱいで、もめごとまでに関わっている余裕がなかった。
「第九十六代後醍醐天皇は気性が激しく、また学問に熱心であった。とりわけ好んだ学問が宋学、つまり朱子学であった。南宋で生まれた朱子学は、蒙古の支配に対して自分たちこそ正統であるとし、それを明らかにする正統論や大義名分論を重んじた。後醍醐天皇は、この正統論に深く傾倒した。<略>
後醍醐天皇は、日本の正統たる天皇の地位が幕府の意向で決まり、皇位継承に幕府が干渉するのは許すことのできない不遜な行為である」と考えた。」
後醍醐天皇に見方して兵を挙げた楠木正成は、赤坂城で幕府軍と激しく戦い、城に火を放って逃げたが、それから1年後、突如として現れ赤坂城を占領、金剛山に築いた千早城にたてこもり徹底抗戦を始める。
「このとき反幕府の旗を掲げて挙兵した武士の多くは、後鳥羽上皇が挙兵して失敗した承久の乱のとき上皇側について敗れた者の子孫たちだった。<略>
「そのうちに後醍醐天皇が隠岐島から抜け出して、伯耆国(元鳥取県)の船上山で名和長年の援助で兵を挙げる。おかしいのは、後醍醐天皇討伐のために派遣されたはずの足利尊氏まで天皇に帰順し、幕府に対して寝返ってしまう。同じく新田義貞は関東で兵を起こして鎌倉に攻め入り、幕府を滅ぼすのである。」
140年ぶりに政権は朝廷に戻った、「建武の中興」である。
つづく---
初代神武天皇(紀元前660~585)に始まって今上天皇(1989~)まで125代にわたる。用明天皇(585~587)のとき仏教を正式に受け入れ、33代推古天皇(592~628)は初めての女性天皇につき、天智天皇(661~671)をはさんで、しばらく女性天皇が多くでる。斉明、持統、元明、元正、孝謙、称徳みな女性である。60代醍醐天皇(897~930)、白河天皇(1072~1086)、鳥羽天皇(1107~1123)を経て、後白河天皇(1155~1158)が77代、82代後鳥羽天皇(1183~1198)、96代後醍醐天皇(1318~1339)と続いていくが、歴史の観点から見て頭に”後”をつけた天皇は良し悪しにつけ事を起こし名を残している。
後白河天皇は幾度となく幽閉や院政に追い込まれるが、そのたびに復権を果たし、法皇までになって政治に絡む。もともと定見がないのでその時々の情勢に翻弄された印象は強いが、保元、平治の乱といった大きな歴史の中にいつもいた。仏教を厚く信奉して東大寺の大仏再建にも積極的に取り組んだ。
後鳥羽天皇は鎌倉幕府の成立時の天皇で、承久の乱で討幕を図るも敗れ、隠岐に島流しにあう。出家したのちは後鳥羽院となり、中世屈指の歌人、その歌作は後代にまで大きな影響を与えるまでになった。
少し後の後醍醐天皇も討幕を計画、何度も失敗し、彼も隠岐に流されるが、楠木正成らの助力により鎌倉幕府を滅ぼし京都に戻り政治を執ることになり、140年ぶりに政権は朝廷に戻ることとなる。
時の天皇に関係する人物も重要で、後白河天皇に平清盛、後鳥羽天皇に北条政子、後醍醐天皇は楠木正成であり足利尊氏などである。天皇の名の後先やこういった人物との関わり合いも入り乱れて覚えにくいのでこうしてみた・・・
白河の兵士(平家)は、歌を詠いながら鳥羽を北上(北条)し、醍醐には正成と尊氏が陣取った。
他に”後”のついた天皇は多い。後朱雀、後冷泉、後一条、後三条、後堀河、後嵯峨、後深草、後宇多、後伏見、後二条・・・延々と後も続く。さすがに京都の地名が多い。
渡部昇一著の『日本史<決定版>』④
1274年(文永11年)、1281年(弘安4年)の二回にわたり「蒙古襲来」を受けるが神風で日本は救われる。「強力な軍隊を有していた蒙古が侵略できなかった場所は三つあるといわれる。東ドイツの森と、ベトナムのジャングルと、それから日本海の沿岸である。」
元寇によって経済的に鎌倉幕府は大きな痛手を食い、基盤は大きく揺るがされることになるが、並行して「南北朝の争い」も生じる。争いの元は、これも”後”のつく後嵯峨天皇の長男より二男を愛するといった私情によるもので、天皇の死後、のちの実権者でもめる。これにより後深草上皇系統を北朝(持明院統)、亀山上皇系統を南朝(大覚寺統)とよび、互いに交互に皇位を譲り合うことにするがやがて対立する。時の執権は豪胆無双と呼ばれた北条時宗であったが元の襲来に頭がいっぱいで、もめごとまでに関わっている余裕がなかった。
「第九十六代後醍醐天皇は気性が激しく、また学問に熱心であった。とりわけ好んだ学問が宋学、つまり朱子学であった。南宋で生まれた朱子学は、蒙古の支配に対して自分たちこそ正統であるとし、それを明らかにする正統論や大義名分論を重んじた。後醍醐天皇は、この正統論に深く傾倒した。<略>
後醍醐天皇は、日本の正統たる天皇の地位が幕府の意向で決まり、皇位継承に幕府が干渉するのは許すことのできない不遜な行為である」と考えた。」
後醍醐天皇に見方して兵を挙げた楠木正成は、赤坂城で幕府軍と激しく戦い、城に火を放って逃げたが、それから1年後、突如として現れ赤坂城を占領、金剛山に築いた千早城にたてこもり徹底抗戦を始める。
「このとき反幕府の旗を掲げて挙兵した武士の多くは、後鳥羽上皇が挙兵して失敗した承久の乱のとき上皇側について敗れた者の子孫たちだった。<略>
「そのうちに後醍醐天皇が隠岐島から抜け出して、伯耆国(元鳥取県)の船上山で名和長年の援助で兵を挙げる。おかしいのは、後醍醐天皇討伐のために派遣されたはずの足利尊氏まで天皇に帰順し、幕府に対して寝返ってしまう。同じく新田義貞は関東で兵を起こして鎌倉に攻め入り、幕府を滅ぼすのである。」
140年ぶりに政権は朝廷に戻った、「建武の中興」である。
つづく---
by kirakuossan
| 2013-01-08 08:17
| ヒストリー
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