2012年 09月 07日
特別な友情 |
2012年9月7日(金)
約40年前に勁草書房から発刊された『河上徹太郎全集(全8巻)』の第4巻を借りる。これも県立図書館の書庫で眠っていて陽の目を見ていない。図書館カードの利用状況も白紙で、そのままお蔵入りした模様。
なぜだろう?前から気になっていたが、個人全集の展示が少ないように思う。発刊が古くて読むことが難しいものや、高価で手に入れにくい個人全集ほど図書館でみなが手にとれるところに陳列しておいてもらいたいものだ。書棚のスペースの関係も多分あるのだろうが、古典ものとか、資料集とか、どちらかと言えば万人受けしないものが幅を取っているように思う。
この第4巻は、彼が音楽評論家としての存在価値を高め得るような作品ばかりが掲載されている。モーツアルト、シューベルトやシューマン、ショパンなどの伝記に始まり、「音楽と文化」、「「音楽随想」、「音楽論」や書評に至るまで多岐にわたる、700ページ近い分厚さで、てんこ盛りの内容だ。(読書感は後述)
今回、河上徹太郎(1902~1980)という音楽評論家に注目していろいろ調べてみると交友関係も実に多岐にわたることが知らされる。小林秀雄、白洲次郎、大岡昇平、青山二郎、諸井三郎、吉田健一、古くには中原中也らの名も出てくる。文芸評論家、実業家、小説家、美術評論家、作曲家、翻訳家そして詩人と幅広い。中でも小林と白洲とは同い年、青山、諸井もひとつ違いと年齢が近い。ほとんどが文学者や芸術家の中に、ひとり実業家・白洲次郎がいる。白洲次郎・正子夫妻は最近とみに注目され、人気が高い。近江のことを多く書き綴った白洲正子の随筆は、いずれはゆっくりと読んでみようと思う。容貌をうかがっても想像はつくが、この白洲女史は物事をはっきり言うような人であったらしく、色々と面白いエピソードが伝えられている。終戦直後、吉田茂の側近としてGHQと渡り合い、「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめ、戦後の日本復活の陰の立役者とまで評価される夫の次郎氏でも頭が上がらなかったのでは・・・?と勝手に思ったりする。
正子女史の祖父は樺山資紀(海軍大将、伯爵)、母方の祖父は川村純義(海軍大将、伯爵)とどちらも薩摩藩士。結婚当初、次郎氏が妻正子女史に「薩摩の奴ら」と悪言をはなってからかった時、正子から横っ面に一発ビンタを喰らい、それ以降「薩摩」を揶揄することはなかったらしい。
また、こんな逸話もある・・・
次郎氏が晩年、政治家として最も評価していたのは英語が話せることから大蔵官僚出身の宮澤喜一であったが、晩年の正子はこれを「白洲も人を観る目がなかったのね」と評している。(思わず笑ってしまった)
そんな正子女史が随筆の中でここに上がっている人物のことを語った文章がある。今日図書館で同時に白洲正子全集も4冊借りてきた。その中に載っている人物像を拾ってみた。
[青山二郎:1901~1979]装丁家、骨董収集鑑定。
「コップでも音がするだろう。叩けば音が出るものが、文章なんだ。人間だって同じことだ。音がしないような奴を、俺は信用せん」
一時が万事で、相手が人間であれ、焼き物であれ、とことんまでつき合うのがジイちゃん(青山)であった。利休は切腹する時、自分の一番愛していた茶碗を割ったと聞くが、それがまことの茶道であるならば、その精神を現代に生かしてみせたのが青山二郎である。
[小林秀雄:1902~1983]文芸評論家。
「僕は生まれつき耳はよかったが、眼は耳に追いつけなかった。だから骨董をやったんだ」そういう述懐をされたことがある。
小林さんが強調したのは、たとえ古いレコードのザラザラの音でも、自分はベートーヴェンを聞き分けることができる。それはもう耳が聞いているのではなく、精神で音楽を聞いている、だから悪い音でも何かきっかけさえあれば、感動は内部からひびいてくる。ここがふつうの音楽マニアとは異なる小林さんがいる。それは目前の音ではなくて、何か遠くの別世界のものをとらえようとしている耳である。そのものを「文化」といったのだが、これを歴史とか伝統という言葉に置き換えても間違ってはいないと思う。
(青山、小林両氏は正子女史の骨董の先生でもあった。)
[吉田健一:1912~1977]英文学の翻訳家、評論家で小説家。父は吉田茂、母・雪子は牧野伸顕(内大臣)の娘で、大久保利通の曾孫にあたる。
歩く時は交互に出る筈の手足が、右手と右足、左手と左足、といった風にいっしょになるのもおかしかった。一番はじめにそれを発見したのは妹の麻生和子(麻生元首相の母)さんだそうで、学術的には何んというのか知らないが、関西ではナンバ、またはナンバンと呼んでいるらしく、「異人」とか「異風の人」という意味なのだろう。
谷崎潤一郎は『文章読本』の中で、悪文でもいい文章というものはある、といっていたように記憶するが、健坊(吉田健一)の場合はさしずめそれに当たるだろう。青山さんは健坊が書いた外国の話を読んで、「これ、面白いけど誰が翻訳したの」と尋ねたというし、小林さんははじめから匙を投げていた。最後まで付き合ったのは河上さんだけで、健坊の成熟ぶりをどんなにうれしく思っていたことか。そういう意味では、河上さんこそほんとうの批評家で、他の二人はどちらかといえば詩人に近かったのではなかろうか。というより、詩人の魂を持たなければ、評論は書けないと思っていたのかも知れない。
そして、その河上徹太郎。旧白洲邸「武相荘」のHPのなかで”ココロに残る人々”として紹介されている。
小林秀雄とならぶ近代批評の先駆者。軽井沢の別荘が隣り合っていたことから、先に河上夫人の知己を得て親交を深める。45年には、東京の空襲で焼け出された河上を、白洲次郎が迎えに行って鶴川の自宅に連れ帰り、河上は2年間、白洲家に寄寓した。
徹兄の眼は物を眺めたりなぞしない目である。たださえ奥にひっこんだその目は、いつでも内へ向っている様だ。そう云えばほんのちょっとした癖でも、その人をよく物語るものである。徹兄を知るかぎりの人は、彼が両方の指先を、数珠を持つかの如く、いつでも爪繰っているのに気がつくだろう。たとえ火鉢にかざす時でも、よっぱらった時以外その指先が開かれる時はまずないと言っていい。その様に、名実ともあらゆる場合に徹兄は、他を対象に「説法の形」をとる事はしないのである。
(中略)いわゆる旧家とか大家とかいう背景がどれ程重荷になるものか、それは世のもろもろの甘やかされた一人っ子達を見れば解る事であるが、徹兄は負けなかった。と云って、一人っ子の垢をふるい落したというのではない。彼ほどその最たるものはない。いわばその弱点をそのまま徹底的につきつめて行き、ついには一人っ子中の一人っ子、たった一人の孤独な人、しこうして自由な人間に自らを育てあげたのではないだろうか。
(白洲正子「一つの存在」より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こうしていろいろな「特別な友情」を知ることによってその人となりが目に浮かび、微笑ましくもあり、また身近に感じとれる。しかし、今はみんなもういないんだなあと思うと、人生って、はかなくもあり寂しくもある。
同じ思いを白洲夫妻の長女である牧山桂子さんが「武相荘」のHPで書き綴っている。
父・白洲次郎は、昭和十八年(1943)に鶴川に引越して来ました当時より、すまいに「武相荘」と名付け悦にいっておりました。武相荘とは、武蔵と相模の境にあるこの地に因んで、また彼独特の一捻りしたいという気持から無愛想をかけて名づけたようです。 <略>
私は両親を親としてしか見た事がなく、同じ様に私が育ち、両親が人生の大半を過した現在の茅葺き屋根の家に対しても、ただ家という認識しかありませんでした。 ふと気が付くと近隣は大きく様変りしていました。暗くなるまで遊んだ小川、真赤に夕焼けした空にたなびくけむり、あちこちに、ひっそりと咲いていた野花の数々など、すべて姿を消していました。また点在していた茅葺き屋根の家々もほとんどみることがなくなりました。同時に私の両親の様な人々も消え去っていきました。
ただそのものとして見ていた茅葺き屋根の家や両親の様な人々が既にあまり残っていないのではないかと思うようになりました。
六十年近く一度も引越しもせず、幸か不幸か生来のよりよくする以外現状を変えたくない、前だけ見て暮したいという母親の性格のせいか武相荘は、それを取りまく環境を含めほとんど変っておりません。
このたび色々な方々の御力添えによって、過ぎ去っていった時代を皆様にも偲んで頂きたく、旧白洲邸武相荘をオープン致しました。(2001年10月オープン)
約40年前に勁草書房から発刊された『河上徹太郎全集(全8巻)』の第4巻を借りる。これも県立図書館の書庫で眠っていて陽の目を見ていない。図書館カードの利用状況も白紙で、そのままお蔵入りした模様。
なぜだろう?前から気になっていたが、個人全集の展示が少ないように思う。発刊が古くて読むことが難しいものや、高価で手に入れにくい個人全集ほど図書館でみなが手にとれるところに陳列しておいてもらいたいものだ。書棚のスペースの関係も多分あるのだろうが、古典ものとか、資料集とか、どちらかと言えば万人受けしないものが幅を取っているように思う。
この第4巻は、彼が音楽評論家としての存在価値を高め得るような作品ばかりが掲載されている。モーツアルト、シューベルトやシューマン、ショパンなどの伝記に始まり、「音楽と文化」、「「音楽随想」、「音楽論」や書評に至るまで多岐にわたる、700ページ近い分厚さで、てんこ盛りの内容だ。(読書感は後述)
今回、河上徹太郎(1902~1980)という音楽評論家に注目していろいろ調べてみると交友関係も実に多岐にわたることが知らされる。小林秀雄、白洲次郎、大岡昇平、青山二郎、諸井三郎、吉田健一、古くには中原中也らの名も出てくる。文芸評論家、実業家、小説家、美術評論家、作曲家、翻訳家そして詩人と幅広い。中でも小林と白洲とは同い年、青山、諸井もひとつ違いと年齢が近い。ほとんどが文学者や芸術家の中に、ひとり実業家・白洲次郎がいる。白洲次郎・正子夫妻は最近とみに注目され、人気が高い。近江のことを多く書き綴った白洲正子の随筆は、いずれはゆっくりと読んでみようと思う。容貌をうかがっても想像はつくが、この白洲女史は物事をはっきり言うような人であったらしく、色々と面白いエピソードが伝えられている。終戦直後、吉田茂の側近としてGHQと渡り合い、「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめ、戦後の日本復活の陰の立役者とまで評価される夫の次郎氏でも頭が上がらなかったのでは・・・?と勝手に思ったりする。
正子女史の祖父は樺山資紀(海軍大将、伯爵)、母方の祖父は川村純義(海軍大将、伯爵)とどちらも薩摩藩士。結婚当初、次郎氏が妻正子女史に「薩摩の奴ら」と悪言をはなってからかった時、正子から横っ面に一発ビンタを喰らい、それ以降「薩摩」を揶揄することはなかったらしい。
また、こんな逸話もある・・・
次郎氏が晩年、政治家として最も評価していたのは英語が話せることから大蔵官僚出身の宮澤喜一であったが、晩年の正子はこれを「白洲も人を観る目がなかったのね」と評している。(思わず笑ってしまった)
そんな正子女史が随筆の中でここに上がっている人物のことを語った文章がある。今日図書館で同時に白洲正子全集も4冊借りてきた。その中に載っている人物像を拾ってみた。
[青山二郎:1901~1979]装丁家、骨董収集鑑定。
「コップでも音がするだろう。叩けば音が出るものが、文章なんだ。人間だって同じことだ。音がしないような奴を、俺は信用せん」
一時が万事で、相手が人間であれ、焼き物であれ、とことんまでつき合うのがジイちゃん(青山)であった。利休は切腹する時、自分の一番愛していた茶碗を割ったと聞くが、それがまことの茶道であるならば、その精神を現代に生かしてみせたのが青山二郎である。
[小林秀雄:1902~1983]文芸評論家。
「僕は生まれつき耳はよかったが、眼は耳に追いつけなかった。だから骨董をやったんだ」そういう述懐をされたことがある。
小林さんが強調したのは、たとえ古いレコードのザラザラの音でも、自分はベートーヴェンを聞き分けることができる。それはもう耳が聞いているのではなく、精神で音楽を聞いている、だから悪い音でも何かきっかけさえあれば、感動は内部からひびいてくる。ここがふつうの音楽マニアとは異なる小林さんがいる。それは目前の音ではなくて、何か遠くの別世界のものをとらえようとしている耳である。そのものを「文化」といったのだが、これを歴史とか伝統という言葉に置き換えても間違ってはいないと思う。
(青山、小林両氏は正子女史の骨董の先生でもあった。)
[吉田健一:1912~1977]英文学の翻訳家、評論家で小説家。父は吉田茂、母・雪子は牧野伸顕(内大臣)の娘で、大久保利通の曾孫にあたる。
歩く時は交互に出る筈の手足が、右手と右足、左手と左足、といった風にいっしょになるのもおかしかった。一番はじめにそれを発見したのは妹の麻生和子(麻生元首相の母)さんだそうで、学術的には何んというのか知らないが、関西ではナンバ、またはナンバンと呼んでいるらしく、「異人」とか「異風の人」という意味なのだろう。
谷崎潤一郎は『文章読本』の中で、悪文でもいい文章というものはある、といっていたように記憶するが、健坊(吉田健一)の場合はさしずめそれに当たるだろう。青山さんは健坊が書いた外国の話を読んで、「これ、面白いけど誰が翻訳したの」と尋ねたというし、小林さんははじめから匙を投げていた。最後まで付き合ったのは河上さんだけで、健坊の成熟ぶりをどんなにうれしく思っていたことか。そういう意味では、河上さんこそほんとうの批評家で、他の二人はどちらかといえば詩人に近かったのではなかろうか。というより、詩人の魂を持たなければ、評論は書けないと思っていたのかも知れない。
そして、その河上徹太郎。旧白洲邸「武相荘」のHPのなかで”ココロに残る人々”として紹介されている。
小林秀雄とならぶ近代批評の先駆者。軽井沢の別荘が隣り合っていたことから、先に河上夫人の知己を得て親交を深める。45年には、東京の空襲で焼け出された河上を、白洲次郎が迎えに行って鶴川の自宅に連れ帰り、河上は2年間、白洲家に寄寓した。
徹兄の眼は物を眺めたりなぞしない目である。たださえ奥にひっこんだその目は、いつでも内へ向っている様だ。そう云えばほんのちょっとした癖でも、その人をよく物語るものである。徹兄を知るかぎりの人は、彼が両方の指先を、数珠を持つかの如く、いつでも爪繰っているのに気がつくだろう。たとえ火鉢にかざす時でも、よっぱらった時以外その指先が開かれる時はまずないと言っていい。その様に、名実ともあらゆる場合に徹兄は、他を対象に「説法の形」をとる事はしないのである。
(中略)いわゆる旧家とか大家とかいう背景がどれ程重荷になるものか、それは世のもろもろの甘やかされた一人っ子達を見れば解る事であるが、徹兄は負けなかった。と云って、一人っ子の垢をふるい落したというのではない。彼ほどその最たるものはない。いわばその弱点をそのまま徹底的につきつめて行き、ついには一人っ子中の一人っ子、たった一人の孤独な人、しこうして自由な人間に自らを育てあげたのではないだろうか。
(白洲正子「一つの存在」より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こうしていろいろな「特別な友情」を知ることによってその人となりが目に浮かび、微笑ましくもあり、また身近に感じとれる。しかし、今はみんなもういないんだなあと思うと、人生って、はかなくもあり寂しくもある。
同じ思いを白洲夫妻の長女である牧山桂子さんが「武相荘」のHPで書き綴っている。
父・白洲次郎は、昭和十八年(1943)に鶴川に引越して来ました当時より、すまいに「武相荘」と名付け悦にいっておりました。武相荘とは、武蔵と相模の境にあるこの地に因んで、また彼独特の一捻りしたいという気持から無愛想をかけて名づけたようです。 <略>
私は両親を親としてしか見た事がなく、同じ様に私が育ち、両親が人生の大半を過した現在の茅葺き屋根の家に対しても、ただ家という認識しかありませんでした。 ふと気が付くと近隣は大きく様変りしていました。暗くなるまで遊んだ小川、真赤に夕焼けした空にたなびくけむり、あちこちに、ひっそりと咲いていた野花の数々など、すべて姿を消していました。また点在していた茅葺き屋根の家々もほとんどみることがなくなりました。同時に私の両親の様な人々も消え去っていきました。
ただそのものとして見ていた茅葺き屋根の家や両親の様な人々が既にあまり残っていないのではないかと思うようになりました。
六十年近く一度も引越しもせず、幸か不幸か生来のよりよくする以外現状を変えたくない、前だけ見て暮したいという母親の性格のせいか武相荘は、それを取りまく環境を含めほとんど変っておりません。
このたび色々な方々の御力添えによって、過ぎ去っていった時代を皆様にも偲んで頂きたく、旧白洲邸武相荘をオープン致しました。(2001年10月オープン)
by kirakuossan
| 2012-09-07 10:30
| 文芸
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