2012年 09月 05日
九つの交響曲は尖峰のごとくに屹立する。 |
2012年9月5日(水)
九曲の交響曲は、ベエトォヴェンの作品の山脈の間から、偉大な九つの尖峰のごとくに屹立する。それらは、ともすれば、他の作品の或物のやうに、雲を劈かないかも知れないけれども、極めて遠方から眺められ得る。
なんとも魅力的な、書き出しだろう。第三章 交響曲での冒頭部分だ。
パウル・ベッカー『ベエトォヴェン』
(第一書房、1931年)大田黒元雄訳
第一交響曲を・・・
「このハ長調交響曲の獲た速産の廣い成功は、ベエトォヴェンの同時代者等が作中にある未來のための約束の胚芽を看過して、主に時代の嗜好に適したたぐひの特色のみに關心したことを示す役をする。<略> 強ひられない容易さを以て一貫されるので第二よりも價値に富む」
第二交響曲は・・・
「新奇を求むる努力が餘りに歴然たること、但、いづれの作品も目覺ましき燦然たる美に缺けて居らぬことは理解されなければならぬ <略> 過去と未來との間に奇妙な不安な位置を與へ、」そして、恐らくは、交響曲としての全體から眺められた場合、それを第一よりも劣るものとする」
そして、次の第三交響曲では最も多くの14ページをさき、朗々と語る。
「・・・二つの作品の距離と、現はされた變化の重要さとは否定し難い。けれども、それは不可解ではない。それは作曲家としてのその偉大な運命に對するベエトォヴェンの目覺めて來た意識のうちに、必然的に生じた。 <略> 人としてまた藝術家としてベエトォヴェンが發達すればするほど、それらは表現の自由を求めてやまなかった。そして、遂に、「詩的想念」は、天變のやうな突然さの外觀を以て破裂した。」
「旋律的な展開に於て、また根本的な設計及び種々な部分と群との内的な融合に於て、傳統的なものは遙かに凌駕されてゐるが、色彩法も亦、それ以後常にベエトォヴェンの作品の特色であった詩的な象徴的な意義を獲得する」
「第一樂章の冒頭に、ベエトォヴェンは、彼の英雄の魂の中の、否應ない力強い活動と物思はしげな諦めとの間爭鬪を描く。その天性の活動的な側面が勝利を占める」
第四交響曲・・・
「第二交響曲と同じく、毫も判然としない氣分に始まる。但、これら二つの作品の各々の序奏部の設計は著しく相違してゐる。 <略> 第四に於ては、氣分のこの不安定が全作の想像的結構(?)なのである。けれども、夢みるやうな浪漫的な序奏部は、期待を惹起するための單なる傳統的な工夫ではなくて、アレグロを動かす同様な物思はしげな情緒を前提とし、そこに、活發なヴァイオリンの主題に對して抑制的な効果を及ぼす」
そして第五交響曲にくる・・・
「作の下に横たはる「詩的想念」に應じて管絃樂が再造されたことは解るであらう。ここには、各々の樂章に作曲家によって使用された色彩の豐かさについて詳密に解き兼ねる。如何なる先人も、ベエトォヴェンがこの交響曲のスケルツォ竝びにトリォに行つたやうに、低音の絃の神祕的な掩はれた色彩を認めて見事に利用し、且、その奇怪な諧謔をあらはした者はなかつた」
「傳統的な意味での序奏部を全然缺きながら、冒頭に、「運命は扉を叩く」そして、響き渡るその音は二度繰返されて質問の感じに上昇する絃を反響に震はせる。三度目の音に怖ろしい訪問者の性質は最早疑ふべくもない」
第六交響曲では・・・
「單純な田園生活の讃歌の形式をその「自然への讃歌」に與へることのよつて、テエマの想像上の可能性に自ら制限を設けた。 <略> 森の祕密な魔法や、岩層の幻想的な生命や、一一の木と花との個々の性格に對して彼は何の感情も抱かなかつた。その代りに、我々は、シュトルムの著作「自然に於ける神の仕事についての観察」の中に表現されてゐるのを彼が見出したやうな素朴な汎神論の觸感をその作中に發見する」
第七交響曲と第八交響曲は比較しながら・・・
「ベエトォヴェンは情緒的な愴美へ近づくことを毫も試みない。これら二つのアレグレットの比較は作品の性質を明らかに示す。第七交響曲のアレグレットが、ほんの僅か憂鬱に染められた夢のやうに過ぎ去るのに對して、第八交響曲のそれは踊り狂ふ幸福である。それらは、強烈な欲求と幸福な成就との關係を成してゐる二つの作品の相違を印づける。第七交響曲は、意志の凄まじい努力によって漸く抛棄され得る娑婆の重荷の殘りを壚つてゐるが、第八交響曲は、悲哀の反響さへも永久に達し得ない悩みのない郷土の幸福な便りを?らす。第七は高所への登?をあらはし、第八は到達された絶顚での幸福な無努力な運動をあらはす」
そしていよいよ第九交響曲でも14ページをさき・・
半世紀以上前の読者がペンで重要箇所をチェックを入れてくれている。そのまま抜粋してみると、
「第九交響曲は、直接な經験によつてではなく、回想によつて基礎づけられ、その結果、以前の交響曲の圈外に立ってゐる。それらは人生の諸相と種々な挿話とは表はし、これは全體の事柄の論理的な總計と結論とを表はす」「ベエトォヴェンは、第八及び第九交響曲の間に介在する諸作を通過して、現世の欲求と個人的な情熱の最後の汚染からその魂を浄めることを必要とした」「黙考する心は、現世のあらゆる歓喜と勝利とにも增して願はしい平和の超自然なメッセエヂに對して以外は閉ざされてゐる」
大田黒元雄(1893~1979)は日本における音楽評論の草分け。あの吉田秀和も大田黒のことを「日本で最初の音楽批評家」と紹介している。
彼は、多くの音楽愛好家に親しまれた啓蒙家としての側面と、一方ではロマン・ロランなどの翻訳も数多くあって当時の日本の知識人の最たる存在であったことは疑いないが、今、こうして手にとって読んでみると、あまりにも直訳にすぎる嫌いがあって、意味がわかりにくいだけでなく、随分日本語としてもおかしいし箇所が多々あったように思う。翻訳としては、河上徹太郎の方が理解しやすい。
九曲の交響曲は、ベエトォヴェンの作品の山脈の間から、偉大な九つの尖峰のごとくに屹立する。それらは、ともすれば、他の作品の或物のやうに、雲を劈かないかも知れないけれども、極めて遠方から眺められ得る。
なんとも魅力的な、書き出しだろう。第三章 交響曲での冒頭部分だ。
パウル・ベッカー『ベエトォヴェン』
(第一書房、1931年)大田黒元雄訳
第一交響曲を・・・
「このハ長調交響曲の獲た速産の廣い成功は、ベエトォヴェンの同時代者等が作中にある未來のための約束の胚芽を看過して、主に時代の嗜好に適したたぐひの特色のみに關心したことを示す役をする。<略> 強ひられない容易さを以て一貫されるので第二よりも價値に富む」
第二交響曲は・・・
「新奇を求むる努力が餘りに歴然たること、但、いづれの作品も目覺ましき燦然たる美に缺けて居らぬことは理解されなければならぬ <略> 過去と未來との間に奇妙な不安な位置を與へ、」そして、恐らくは、交響曲としての全體から眺められた場合、それを第一よりも劣るものとする」
そして、次の第三交響曲では最も多くの14ページをさき、朗々と語る。
「・・・二つの作品の距離と、現はされた變化の重要さとは否定し難い。けれども、それは不可解ではない。それは作曲家としてのその偉大な運命に對するベエトォヴェンの目覺めて來た意識のうちに、必然的に生じた。 <略> 人としてまた藝術家としてベエトォヴェンが發達すればするほど、それらは表現の自由を求めてやまなかった。そして、遂に、「詩的想念」は、天變のやうな突然さの外觀を以て破裂した。」
「旋律的な展開に於て、また根本的な設計及び種々な部分と群との内的な融合に於て、傳統的なものは遙かに凌駕されてゐるが、色彩法も亦、それ以後常にベエトォヴェンの作品の特色であった詩的な象徴的な意義を獲得する」
「第一樂章の冒頭に、ベエトォヴェンは、彼の英雄の魂の中の、否應ない力強い活動と物思はしげな諦めとの間爭鬪を描く。その天性の活動的な側面が勝利を占める」
第四交響曲・・・
「第二交響曲と同じく、毫も判然としない氣分に始まる。但、これら二つの作品の各々の序奏部の設計は著しく相違してゐる。 <略> 第四に於ては、氣分のこの不安定が全作の想像的結構(?)なのである。けれども、夢みるやうな浪漫的な序奏部は、期待を惹起するための單なる傳統的な工夫ではなくて、アレグロを動かす同様な物思はしげな情緒を前提とし、そこに、活發なヴァイオリンの主題に對して抑制的な効果を及ぼす」
そして第五交響曲にくる・・・
「作の下に横たはる「詩的想念」に應じて管絃樂が再造されたことは解るであらう。ここには、各々の樂章に作曲家によって使用された色彩の豐かさについて詳密に解き兼ねる。如何なる先人も、ベエトォヴェンがこの交響曲のスケルツォ竝びにトリォに行つたやうに、低音の絃の神祕的な掩はれた色彩を認めて見事に利用し、且、その奇怪な諧謔をあらはした者はなかつた」
「傳統的な意味での序奏部を全然缺きながら、冒頭に、「運命は扉を叩く」そして、響き渡るその音は二度繰返されて質問の感じに上昇する絃を反響に震はせる。三度目の音に怖ろしい訪問者の性質は最早疑ふべくもない」
第六交響曲では・・・
「單純な田園生活の讃歌の形式をその「自然への讃歌」に與へることのよつて、テエマの想像上の可能性に自ら制限を設けた。 <略> 森の祕密な魔法や、岩層の幻想的な生命や、一一の木と花との個々の性格に對して彼は何の感情も抱かなかつた。その代りに、我々は、シュトルムの著作「自然に於ける神の仕事についての観察」の中に表現されてゐるのを彼が見出したやうな素朴な汎神論の觸感をその作中に發見する」
第七交響曲と第八交響曲は比較しながら・・・
「ベエトォヴェンは情緒的な愴美へ近づくことを毫も試みない。これら二つのアレグレットの比較は作品の性質を明らかに示す。第七交響曲のアレグレットが、ほんの僅か憂鬱に染められた夢のやうに過ぎ去るのに對して、第八交響曲のそれは踊り狂ふ幸福である。それらは、強烈な欲求と幸福な成就との關係を成してゐる二つの作品の相違を印づける。第七交響曲は、意志の凄まじい努力によって漸く抛棄され得る娑婆の重荷の殘りを壚つてゐるが、第八交響曲は、悲哀の反響さへも永久に達し得ない悩みのない郷土の幸福な便りを?らす。第七は高所への登?をあらはし、第八は到達された絶顚での幸福な無努力な運動をあらはす」
そしていよいよ第九交響曲でも14ページをさき・・
半世紀以上前の読者がペンで重要箇所をチェックを入れてくれている。そのまま抜粋してみると、
「第九交響曲は、直接な經験によつてではなく、回想によつて基礎づけられ、その結果、以前の交響曲の圈外に立ってゐる。それらは人生の諸相と種々な挿話とは表はし、これは全體の事柄の論理的な總計と結論とを表はす」「ベエトォヴェンは、第八及び第九交響曲の間に介在する諸作を通過して、現世の欲求と個人的な情熱の最後の汚染からその魂を浄めることを必要とした」「黙考する心は、現世のあらゆる歓喜と勝利とにも增して願はしい平和の超自然なメッセエヂに對して以外は閉ざされてゐる」
大田黒元雄(1893~1979)は日本における音楽評論の草分け。あの吉田秀和も大田黒のことを「日本で最初の音楽批評家」と紹介している。
彼は、多くの音楽愛好家に親しまれた啓蒙家としての側面と、一方ではロマン・ロランなどの翻訳も数多くあって当時の日本の知識人の最たる存在であったことは疑いないが、今、こうして手にとって読んでみると、あまりにも直訳にすぎる嫌いがあって、意味がわかりにくいだけでなく、随分日本語としてもおかしいし箇所が多々あったように思う。翻訳としては、河上徹太郎の方が理解しやすい。
by kirakuossan
| 2012-09-05 16:18
| クラシック
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