2011年 07月 10日
世界のオーケストラ/第3回<ベルリンフィル> 最高水準の合奏能力の上に”スマートさ”と”しなやかさ” |
2011年7月10日(日)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
設立は1882年。2年後にはブラームスが自作の交響曲第3番を指揮し、ピアノ協奏曲第1番を弾いた。ハンス・フォン・ビューローが指揮者に就いてから急速に成長した。1895年には、アルトゥール・ニキシュが常任指揮者に就任。1895年には、マーラーが自身の交響曲第2番「復活」のはじめの3楽章の初演を指揮した。
1922年にニキシュが亡くなると、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが次の常任指揮者に就任した。戦後、フルトヴェングラーは非ナチ化裁判にかけられることになり、その終了まで指揮活動を禁止されたため、一時期レオ・ボルヒャルトの下で活動を続けたが、不慮の死を遂げた。それを継いだのはセルジュ・チェリビダッケ。そのあとフルトヴェングラーが復活し、1947年の5月に「歴史的復帰演奏会」でベルリン・フィルと再会し、1954年11月に亡くなるまで指揮を続けた。
フルトヴェングラーの死後、常任指揮者にはセルジュ・チェリビダッケが就任すると思われていたが、彼と楽団との間には亀裂が生じていて、1955年の初のアメリカ公演に当時47歳のヘルベルト・フォン・カラヤンが同行し、そのまま終身常任指揮者となってしまった。(したたかなカラヤンらしい話)
チェリビダッケはベルリン・フィルと決別し、カラヤンの生前は決してベルリン・フィルを指揮しなかった。
カラヤンは精力的に録音活動を行い、カラヤン/ベルリン・フィルの録音は、膨大な数に登る。就任以来四半世紀にわたりカラヤンの黄金時代が続いたが、ついに楽団との溝が深まり、死去直前の1989年4月に辞任した。直後の楽団員投票で有望視されていたロリン・マゼールを下し、クラウディオ・アバドが就任した。しかし、健康面の問題で2002年のシーズン限りで辞任した。後任は楽団員による投票によってラトルが常任指揮者に選ばれた。
ベルリン・フィルは音楽大国ドイツの首都を代表するオーケストラとして人気は高く、常に世界オーケストラ・ランキングでは1位もしくは2位を占める。ウィーン・フィル、コンセルトヘボウ管とは永遠のライバル関係にあるといえる。
ベルリン・フィルの初来日は1957年(昭和32年)、カラヤンは2度目の来日であった。その後、1966年(カラヤン)、1970年(カラヤン)、そして1973年に楽団は4度目、カラヤンは5度目の来日を果たす。
この時の演奏会は10月25日のNHKホールを皮切りに、東京で7回の公演があり、そのあと大阪にやってきて11月2日より3回、いずれもフェスティバルホールで行われた。その大阪初日の公演を聴いた。
1973年(昭和48年)
11月2日:フェスティバルホール
ベートーヴェン/交響曲第6番
ベートーヴェン/交響曲第5番
プログラムはベートーヴェンの「田園」と「運命」といった超豪華版。しかもカラヤン/ベルリン・フィル盆と正月が一度に来たようなプログラムだった。
指揮者100選☆5(シャルル・ミュンシュ)でも書いたが・・・
「1973年11月にカラヤンとベルリン・フィルのベートーヴェンプログラム(6番と5番)を中之島のフェスティバルホールに期待して聴きに行った。ホールの音響は良かったが、肝心の演奏は何の感動もなく最低であった。確か、大阪公演の初日であったが、大阪の他公演ではモーツアルト、ワーグナー、チャイコフスキー、ドボルザーク。東京公演ではバッハ、ブルックナー、ブラームス、シューベルト、はてはシェーンベルクまで・・・と珍しくプログラムが非常に多岐にわたっており、今になって思えば、練習不足であったのかも知れない」
当時カラヤンはパリ管弦楽団の常任も降り、軸足はベルリン・フィル一本に置いていた。年齢的にも65歳と脂が乗ってきた時期で、名実ともに巨匠の仲間入りを果たした頃。もっとよい演奏ができたはずであり残念な思いだ。
それより3年前の1970年来日時は5月8日よりまず大阪に入り、5夜に分けて”ベートーヴェン・チクリス”をやっている。そのあと東京に移動している。カラヤンとベルリン・フィルの公演が大阪で聴けるとは、今から思えば夢のような話だ。
しかしこの1973年、昭和48年は小生にとって忘れられない一年であった。
4月にアバド/ウイーン・フィル、5月にムラヴィンスキー/レニングラード・フィル、そして11月にカラヤン/ベルリン・フィルとビッグな演奏会を耳にすることができた。
しかし、7月には父を、8月には初めて生まれてきたわが愛娘を亡くした年でもあった。
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の音色
サウンドはその時その時の常任によって、結構異なる。フルトヴェングラー時代には”ドイツ魂”の響き、カラヤン時代には”華麗”な響きを売りとし、アバドは”スマートさ”を持つ響き、といったように。
もともとイメージとしてはなにかゴツゴツとしたものを連想するが、実は楽団員には結構女性陣が多い。ウイーン・フィルがほとんど男性陣なのに比べて顕著だ。
明らかに、ベルリンの音は、世界最高水準の合奏能力の上に、”スマートさ”と”しなやかさ”を併せ持つ。比べるのも失礼だが、一流半のほかのオケやN響との違いは、特に後者の違いによることが明白だ。
その世界最高水準の合奏能力を誇るベルリン・フィルで活躍している日本人を見ると・・・
土屋邦雄(ヴィオラ)1959~2001・・・初の日本人団員。
安永徹(第1ヴァイオリン)1977年入団。1983~2009の26年間、第1コンサートマスターを務めた
樫本大進(第1ヴァイオリン)2010~ 第1コンサートマスターに就任。
歴代のコンサートマスターは、樫本大進で20人目となるが、なかでも比較的長く務めたのは・・・
ミシェル・シュヴァルベ 1957~1983(26年)
トマス・ブランディス 1962 ~1983(21年)
レオン・シュピーラー 1963~1993(30年)
安永徹 1983~2009(26年)
ダニエル・シュタブラーヴァ 1986 - (25年目)
と5人しかいない。そのなかに日本人・安永徹が含まれているのは誇りだ。
他の団員としては、町田琴和(第1ヴァイオリン)、清水直子(ヴィオラ首席)の二人の女性がいる。
また、ベルリン・フィルを指揮した日本人指揮者は12人いる。
1933年の近衛秀麿が最初で、貴志康一、山田耕筰、尾高尚忠が続く。戦後は1956年 朝比奈隆、以下 大町陽一郎、岩城宏之、渡邉暁雄、小泉和裕、若杉 弘、小澤征爾、 そして久々に佐渡裕が指揮した。
首席指揮者の変遷
ルートヴィヒ・フォン・ブレナー(1882~1887)
ハンス・フォン・ビューロー(1887~1892)
アルトゥール・ニキシュ(1895~1922)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1922~1945)
レオ・ボルヒャルト(1945)
セルジュ・チェリビダッケ(1945~1952)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1952~1954 終身指揮者)
ヘルベルト・フォン・カラヤン(1955~1989終身指揮者・芸術監督)
クラウディオ・アバド(1990~2002芸術監督)
サイモン・ラトル(2002~・芸術監督)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
設立は1882年。2年後にはブラームスが自作の交響曲第3番を指揮し、ピアノ協奏曲第1番を弾いた。ハンス・フォン・ビューローが指揮者に就いてから急速に成長した。1895年には、アルトゥール・ニキシュが常任指揮者に就任。1895年には、マーラーが自身の交響曲第2番「復活」のはじめの3楽章の初演を指揮した。
1922年にニキシュが亡くなると、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが次の常任指揮者に就任した。戦後、フルトヴェングラーは非ナチ化裁判にかけられることになり、その終了まで指揮活動を禁止されたため、一時期レオ・ボルヒャルトの下で活動を続けたが、不慮の死を遂げた。それを継いだのはセルジュ・チェリビダッケ。そのあとフルトヴェングラーが復活し、1947年の5月に「歴史的復帰演奏会」でベルリン・フィルと再会し、1954年11月に亡くなるまで指揮を続けた。
フルトヴェングラーの死後、常任指揮者にはセルジュ・チェリビダッケが就任すると思われていたが、彼と楽団との間には亀裂が生じていて、1955年の初のアメリカ公演に当時47歳のヘルベルト・フォン・カラヤンが同行し、そのまま終身常任指揮者となってしまった。(したたかなカラヤンらしい話)
チェリビダッケはベルリン・フィルと決別し、カラヤンの生前は決してベルリン・フィルを指揮しなかった。
カラヤンは精力的に録音活動を行い、カラヤン/ベルリン・フィルの録音は、膨大な数に登る。就任以来四半世紀にわたりカラヤンの黄金時代が続いたが、ついに楽団との溝が深まり、死去直前の1989年4月に辞任した。直後の楽団員投票で有望視されていたロリン・マゼールを下し、クラウディオ・アバドが就任した。しかし、健康面の問題で2002年のシーズン限りで辞任した。後任は楽団員による投票によってラトルが常任指揮者に選ばれた。
ベルリン・フィルは音楽大国ドイツの首都を代表するオーケストラとして人気は高く、常に世界オーケストラ・ランキングでは1位もしくは2位を占める。ウィーン・フィル、コンセルトヘボウ管とは永遠のライバル関係にあるといえる。
ベルリン・フィルの初来日は1957年(昭和32年)、カラヤンは2度目の来日であった。その後、1966年(カラヤン)、1970年(カラヤン)、そして1973年に楽団は4度目、カラヤンは5度目の来日を果たす。
この時の演奏会は10月25日のNHKホールを皮切りに、東京で7回の公演があり、そのあと大阪にやってきて11月2日より3回、いずれもフェスティバルホールで行われた。その大阪初日の公演を聴いた。
1973年(昭和48年)
11月2日:フェスティバルホール
ベートーヴェン/交響曲第6番
ベートーヴェン/交響曲第5番
プログラムはベートーヴェンの「田園」と「運命」といった超豪華版。しかもカラヤン/ベルリン・フィル盆と正月が一度に来たようなプログラムだった。
指揮者100選☆5(シャルル・ミュンシュ)でも書いたが・・・
「1973年11月にカラヤンとベルリン・フィルのベートーヴェンプログラム(6番と5番)を中之島のフェスティバルホールに期待して聴きに行った。ホールの音響は良かったが、肝心の演奏は何の感動もなく最低であった。確か、大阪公演の初日であったが、大阪の他公演ではモーツアルト、ワーグナー、チャイコフスキー、ドボルザーク。東京公演ではバッハ、ブルックナー、ブラームス、シューベルト、はてはシェーンベルクまで・・・と珍しくプログラムが非常に多岐にわたっており、今になって思えば、練習不足であったのかも知れない」
当時カラヤンはパリ管弦楽団の常任も降り、軸足はベルリン・フィル一本に置いていた。年齢的にも65歳と脂が乗ってきた時期で、名実ともに巨匠の仲間入りを果たした頃。もっとよい演奏ができたはずであり残念な思いだ。
それより3年前の1970年来日時は5月8日よりまず大阪に入り、5夜に分けて”ベートーヴェン・チクリス”をやっている。そのあと東京に移動している。カラヤンとベルリン・フィルの公演が大阪で聴けるとは、今から思えば夢のような話だ。
しかしこの1973年、昭和48年は小生にとって忘れられない一年であった。
4月にアバド/ウイーン・フィル、5月にムラヴィンスキー/レニングラード・フィル、そして11月にカラヤン/ベルリン・フィルとビッグな演奏会を耳にすることができた。
しかし、7月には父を、8月には初めて生まれてきたわが愛娘を亡くした年でもあった。
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の音色
サウンドはその時その時の常任によって、結構異なる。フルトヴェングラー時代には”ドイツ魂”の響き、カラヤン時代には”華麗”な響きを売りとし、アバドは”スマートさ”を持つ響き、といったように。
もともとイメージとしてはなにかゴツゴツとしたものを連想するが、実は楽団員には結構女性陣が多い。ウイーン・フィルがほとんど男性陣なのに比べて顕著だ。
明らかに、ベルリンの音は、世界最高水準の合奏能力の上に、”スマートさ”と”しなやかさ”を併せ持つ。比べるのも失礼だが、一流半のほかのオケやN響との違いは、特に後者の違いによることが明白だ。
その世界最高水準の合奏能力を誇るベルリン・フィルで活躍している日本人を見ると・・・
土屋邦雄(ヴィオラ)1959~2001・・・初の日本人団員。
安永徹(第1ヴァイオリン)1977年入団。1983~2009の26年間、第1コンサートマスターを務めた
樫本大進(第1ヴァイオリン)2010~ 第1コンサートマスターに就任。
歴代のコンサートマスターは、樫本大進で20人目となるが、なかでも比較的長く務めたのは・・・
ミシェル・シュヴァルベ 1957~1983(26年)
トマス・ブランディス 1962 ~1983(21年)
レオン・シュピーラー 1963~1993(30年)
安永徹 1983~2009(26年)
ダニエル・シュタブラーヴァ 1986 - (25年目)
と5人しかいない。そのなかに日本人・安永徹が含まれているのは誇りだ。
他の団員としては、町田琴和(第1ヴァイオリン)、清水直子(ヴィオラ首席)の二人の女性がいる。
また、ベルリン・フィルを指揮した日本人指揮者は12人いる。
1933年の近衛秀麿が最初で、貴志康一、山田耕筰、尾高尚忠が続く。戦後は1956年 朝比奈隆、以下 大町陽一郎、岩城宏之、渡邉暁雄、小泉和裕、若杉 弘、小澤征爾、 そして久々に佐渡裕が指揮した。
首席指揮者の変遷
ルートヴィヒ・フォン・ブレナー(1882~1887)
ハンス・フォン・ビューロー(1887~1892)
アルトゥール・ニキシュ(1895~1922)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1922~1945)
レオ・ボルヒャルト(1945)
セルジュ・チェリビダッケ(1945~1952)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1952~1954 終身指揮者)
ヘルベルト・フォン・カラヤン(1955~1989終身指揮者・芸術監督)
クラウディオ・アバド(1990~2002芸術監督)
サイモン・ラトル(2002~・芸術監督)
by kirakuossan
| 2011-07-10 13:42
| 世界のオーケストラ
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