ホンマ!気楽おっさんの蓼科偶感

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一番丸がゆく

2017年4月30日(日)

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一番丸がゆく。
きょうもまた一句。

しのびあし 釣るまで待とう 春うらら      
                 耕庵

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連休の朝日レガッタ、がんばってチョウ(鳥)。

今日は80分コース。

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by kirakuossan | 2017-04-30 16:36 | 偶感 | Trackback

長閑な昼下がり

2017年4月28日(金)
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二句

釣り人の 首を長くして 獲物待つ

釣り人や 横で見られて 気が焦り
                  耕庵


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昨日はゴルフで6000ヤード歩いたが、一昨日は一日雨で歩けず。今日は3日ぶりの散歩。
また瀬田唐橋までの半周コースの1時間。
釣り人と鷺が仲良く、長閑な昼下がり。
ツツジとハナミズキがそろそろ綺麗に咲き誇るころだ。

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by kirakuossan | 2017-04-28 15:05 | 偶感 | Trackback

芭蕉終焉の地

2017年3月19日(日)

d0170835_11402317.jpg炉開きや左官老いゆく鬢の霜  芭蕉

山元春挙の別荘「蘆花浅水荘」の茶室で浮かんだ句。
茶の湯で、陰暦十月の一日または中の亥の日に、風炉を使うのをやめて、炉を使い始める。夏中閉めておいた囲炉裏を開くが、この折に、囲炉裏の土壁の修理などをする。その時の芭蕉のこの句が好い。
修理をする左官とは長年付き合ってきたが、炉開きの炉の修理をしている彼の鬢には白いものが目立つようになってきた。若い頃の左官の元気な姿をよく知っているだけに、左官の鬢の霜は、そのまま自分自身の老の姿でもあるのだ。折りしも季節は冬に入ろうとする、同じように自分の人生も冬の入り口でもあると。
炉開きには子規にもこんな句がある。

炉開きに一日雇ふ大工哉   子規

これなども炉開きの風情がよく伝わってくるが、芭蕉の句にはさらに捻りが加わり、奥深く感慨がある。さすが芭蕉といったところか。


d0170835_11254070.jpgd0170835_11255578.jpg昨日、梅田から難波まで歩いた。途中、御堂筋に面して南御堂があるが、ここに芭蕉の辞世の句碑がある。そしてその近く、側道に芭蕉終焉地の碑がひっそりと建っている。

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る  芭蕉

御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受けた、「病中吟」と称してこの辞世の句を詠んだ。



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by kirakuossan | 2017-03-19 11:00 | 文芸 | Trackback

侘助とかく。

2017年3月18日(土)
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d0170835_75073.jpgそうそう、「蘆花浅水荘」のご主人山元さんからもうひとつ面白い名の花木を教えていただいた。
「わびすけ」、漢字で侘助と書く。いかにも見た目と同じような呼び名の花木である。控え目に咲き、これで満開か、枯れかかっているかよくかわからない、いかにも”侘びている”ようにも見える。そんな愛らしい小さな花を咲かす。ツバキの一種で、侘助椿とも呼ぶ。
一重で筒咲きの小型な花、花期が初冬の炉開の頃から始まり、晩春の風炉の始まりまで及んでいることからも、茶事には好都合だと茶人に愛され、よく茶の湯の席に用いられるそうである。

炉開きや左官老いゆく鬢の霜  芭蕉



ところでもうひとつ面白いことに気づいた。文章を書きながら(打ちながら)「侘助と書く」というところで、とかくと打ち、変換すると「左右」と最初に出てきた。もう一度打つと兎角と出る。左右は”さゆう”か”ひだりみぎ”としか読めないのではないか?でも何度やってもとかくと打ち変換すると「左右」となる。

そこでまた例の”幻の迷辞典”、珍妙な山田忠雄先生の「新明解国語辞典」(第三版)の登場。(とくにこの第三版が”幻”の超迷辞典)
d0170835_82382.jpgとかく(「と」は ああ、「かく」は こうの意)
①あれや これや(特に目立った事をしたとは思っていないうちに)(無責任にいろいろな事を言う前に)
②ほうっておけば、自然にそうなる様子。
③どっちかというと。
<兎角・左右などは借字>


やはり「当て字」であるんだ。勉強不足、知らなんだ。「とかくこの世は住みにくい」というのを「左右この世は住みにくい」とすればたしかに意味がよくわかる。漱石あたりが使ったのか?

一方、生真面目見坊豪紀先生の「三国」(三省堂国語辞典)では素っ気ない。(まあ通常はこの程度の説明なんだが)
とかく【兎角】
①あれこれ②ややもすると。ともすれば「ーこの世は住みにくい」


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by kirakuossan | 2017-03-18 07:26 | 偶感 | Trackback

「雨乞い」の神事

2017年3月9日(木)
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d0170835_15214280.jpg水の供給を司る「タカオカミノカミ」を祀る貴船神社で毎年3月9日に行われる祭儀。「雨乞い」の名称ではあるが、農耕作業の始まる時節を前に、今年一年の天候の順調、適度な雨の恵みと五穀豊穣を祈念する。平安の昔、「雨乞い」といえば、本物の生馬、黒毛の馬を御神前に捧げて祈願されていた。歴代天皇が数百度にわたり生馬を捧げてご祈願し、やがてかたちを変え、後世「絵馬」ができることとなる。

京都市北区上賀茂柊谷町にある立命館大学総合グラウンド(通称柊野総合グラウンド)で今日、明治大学との野球のオープン試合があるというので出かけて行った。事前に貴船神社での「雨乞い」の神事が行われるのを知り、先に訪れることにした。
d0170835_15542797.jpg洛北もここまでくれば肌を刺す冷気も一段と厳しい。外国人や若者たちが集る中、厳粛に神事は執り行われていた。鴨川の源流貴船川添いに建つ貴船神社、その細い参道に数件の料理屋が立ち並ぶ、夏ともなれば貴船の川床で知られるところである。いつ来ても風情のある所だ。本宮の駐車場が狭いので仕方なく徒歩にして15分程上ったところにある奥の宮の駐車場に止め、参拝した。 この細い道路を和泉式部の恋の道と呼ばれる。そういうと若い二人ずれのカップルがあちらこちらで目についた。貴船口で鞍馬との分かれ道を登って来るとすぐに蛍岩というところがある。

ものおもへば 沢の蛍も わが身より あくがれいづる 魂たまかとぞみる
  
和泉式部(後拾遺和歌集)

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by kirakuossan | 2017-03-09 15:14 | 新日本紀行 | Trackback

川柳

2017年2月25日(土)

年一度足腰試す立木さん  耕庵 


面白がって俳句と言っているが、耕庵のは雑俳で俳句ではない。「季語」がなければ、「切れ字」もない、いわゆる川柳である。

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ところで、5月に尾道の「文学記念室」を訪れることにしているが、尾道ゆかりの歌人麻生路郎の直筆原稿なども保存されているようだ。麻生路郎(1888~1965)は、大正・昭和初期の川柳家で、川柳六大家の一人に挙げられる。六人とは、岸本水府、村田周魚、前田雀郎、椙元紋太(すぎもと)、川上三太郎、そして麻生路郎である。


俺に似よ俺に似るなと子を思ひ  路郎

路郎は酒豪でも知られ、同じ川柳家の妻・葭乃が読んだ句も有名である。

飲んで欲しやめても欲しい酒を注ぎ  葭乃



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by kirakuossan | 2017-02-25 15:52 | 文芸 | Trackback

足も上がらず立木さん

2017年2月25日(土)
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d0170835_10394743.jpg厄除け立木観音開山1200年。
800余段の石段、今年は一気に上り切れるや?

立木さん二題

ミニ姿足も軽やか立木さん
四度休み足も上がらず立木さん

耕庵




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by kirakuossan | 2017-02-25 10:21 | 近江抄 | Trackback

「猿蓑」

2017年2月19日(日)
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初しぐれ猿も小蓑をほしげ也  芭蕉

「猿蓑」は、向井去来と野沢凡兆が編集した、蕉門の発句・連句集である。発句は全部で382句にものぼり芭蕉も41句収められ、芭蕉にとっても、末代の亀鑑(手本)ともなるべき句集で、熱心な指導がうかがわれ、わびさびのもっとも円熟した時期の句集とされる。去来は蕉門十哲のひとりであるが、凡兆はそのなかには入っていない。彼は加賀国金沢の出身で京に出て医者になり、芭蕉門下となるが、後に離れた。


僧やゝさむく寺にかへるか
さる引の猿と世を経る秋の月

『猿蓑』の「市中は」に始まる「夏の月」の歌仙の第十六句と十七句である。前の句は凡兆、付けたのは芭蕉である。有名な句だから存知のひとも多いだらう。然し私は最近これを讀みかへしたときの感動を書き残さずにはゐられない。
『猿蓑』は圓熟したといふよりも、油ののりきったと、芭蕉を評するには少々不適当な言葉を敢て使ひたくなるやうな句集だが、わけても、去来、凡兆、芭蕉の三吟に成るこの「夏の月」の巻は、古来名歌仙をもって知られてゐる。「市中は物のにほひや夏の月」の凡兆の発句、「あつしあつしと門々の聲」の芭蕉の脇句、「二番草取りも果さず穂にいでて」の去来の第三句以下、表の六句はまったく好調のすべりだしで、いかにも気の合った同士の、のびのびとした気持ちが察せられる。
ところで裏の第七、第八句目あたりからややだれてきたのが、九、十、十一句で再びもり上がってくる。

道心のおこりは花のつぼむ時(去来)
能登の七尾の冬は住うき(凡兆)
魚の骨しはぶる迄の老を見て(芭蕉)

殊に「魚の骨」の句は、讀む者を想念に誘ふ。~
私は然しこの句に長く停まらうとは思はない。私の心をいそがすものが先にある。
十一句をひとつの山として、また次第にだれてくる。起伏の伏の方へ句がしばらくつづく。

立かゝり屏風を倒す女子共
湯殿は竹の簀侘しき

どうもいけない。足ぶみ状態である。本来なら次の句で是非とも一轉すべきところである。ところが次の去来はどうしたことか、また気合の乗らない句をつけてしまった。

茴香(うゐきやう)の實を吹落す夕嵐

夕嵐で、かつがつに救はれてゐるといった気配である。ここらあたりで、どうしても人物が表面に出てこなければならぬところであった。
凡兆は多少いらいらしたのであらう。唐突に次のやうにつけた。

僧やゝさむく寺にかへるか

この句はいい。多少むっとしてつけた句に違ひないが、幅が廣い。「やゝ」といひ、最後の「か」といひ、聞くものにひとつの世界を与える。限定がないから縁暈は廣い。そのまま文人畫にもなりそうである。然しこれを文人畫の枠へ入れてしまったのでは、折角の轉換が、この一句でまた足ぶみしてしまふおそれがある。芭蕉は思ひきった付け方をした。

さる引の猿と世を経る秋の月

もちろん凡兆の前句に触発されての句であらう。夕方、寺のある方への一筋の道を、とぼとぼと歩いてゆく一人の僧が発散させたエーテルに、芭蕉の琴線が思はず呼応して響き合ったのであらう。さらさらとこれを書き終った芭蕉自身が、やゝあってみづからに驚いたことであらう。
これを属目の風景、情景とみても少しもかまはない。中年、或ひは中年から老年へかかるあたりの旅回りの猿まはし、その背中に負った風呂敷包みの上に、ちょこなんと乗ってゐる小さい猿、その首に垢じみた赤いよだれかけがかかってゐてもいい。一日を終った彼等の歩いてゆく田舎道を、早くも上った秋の大きな月がてらしてゐる。~

唐木順三「日本の心」芭蕉の一句より


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by kirakuossan | 2017-02-19 13:26 | 文芸 | Trackback

松風のごと村雨のごと

2017年2月12日(日)

諏訪少女温泉を汲みに通ひ候松風のごと村雨のごと   

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諏訪の旅
与謝野晶子

私は元旦の夜汽車で飯田町を立って信州の下諏訪へ行き、七日の夜に帰りました。同行は石井柏帝、平野萬里、関戸信次三氏と私たち夫婦の五人です。この中に石井さんだけは三日に東京に立たれました。正宗得三郎、中川紀元二氏も行かれる約束でしたが、正宗さんは急に富岡鉄斎翁が亡くなられたので京都へ行かれ、中川さんは風邪で中止されました。
私たちは去年の正月も松本の帰りに諏訪へ二泊しましたが、その時は上諏訪の牡丹屋へ泊り、今度は下諏訪の亀屋へ泊りました。湖水が今年も凍っていないのには少し失望しました。それだけ気候が温かで、雪も日陰になった対岸の山に旧臘の薄雪が残っているばかりでした。

文人画家である富岡鉄斎が亡くなったのが1924年(大正13)12月の大晦日であったから、ここでの正月は1925年の正月ということになる。与謝野晶子46歳、鉄幹51歳である。画家の石井柏帝は絵を描くために外出、与謝野夫婦と歌人の平野萬里らは旅館にとじこもり歌つくりに専念し、互いに一日に三、四度披露しあうという長閑なものであった。下諏訪の亀屋と言えば諏訪大社下社の秋宮にある老舗旅館聴泉閣かめやである。正宗得三郎は洋画家で正宗白鳥の実弟、蛇足ながら、飯田町は信州の飯田ではなく東京の飯田である。

諏訪では来客を断りましたが、しかし風景はいろいろのところへ観て歩きました。それが皆歌の資料になりました。近道をして氷と雪で堅くなった坂をいく度も危く滑りながら塩尻峠に登り、そこから日本アルプスを遠望したり諏訪の全景を俯瞰したりもしました。峠には枯れた芒の間に雪があり、しかも青く澄んだ空の下に風がたいして寒くないので、そこに立って四方の山や野を展望するのはよい心持でした。また岡谷の街へ行って天竜川となる諏訪湖の落口を眺め、花岡山の一角に登って湖水に臨む湊村の好い景色を見下ろし、仰いで八ヶ岳や蓼科山の雪を望むのも快いことでした。すっきりした山岳の線には、心が高められ、複雑微妙な山岳の襞には心が交響楽的に深められ、明媚優麗な水の姿には心が柔和になります。折々こうして自然の大景に触れることは人間性の最も深いところの啓発になると思います。殊に私たちのような都会人には自然の刺戟によって、物質に抑えられた日常の小さな心を浄化し解放する必要があります。~


d0170835_16464742.jpg昨日小諸で手に入れた長野県文学全集3巻(郷土出版社刊)のなかから与謝野晶子のエッセイを書きだしてみた。歌人与謝野晶子の文章はこのように淡々としたものだが、それだけによけいに光景が鮮烈に眼にうかび想像力を搔き立ててくれるものである。上の風景画はその正月に同宿した石井柏帝画伯の「信州風景」であるが、この画は晩年1948年に描かれたものである。
与謝野晶子は度々信州を訪れた。この正月の同じ年の5月に夫鉄幹らと南信州へ、そして10月には鉄幹、平野万里らと北信州へと、3度訪れている。
なお、この正月の滞在時に生まれた歌は句集「心の遠景」に多く収められている。
冒頭の歌で~松風のごと村雨のごと、とあるのは思うに、風の日も雨の日も休むことなく毎日ということと、一方で、平安時代に須磨に暮らしていたという伝承上の姉妹(姉が松風、妹が村雨)が、須磨に汐汲みに出たところ、天皇の勘気を蒙り須磨に流されていた在原行平と出会い、「松風」「村雨」と名づけられて愛された、という松風・村雨伝説に例えられ、”汐汲み”と”温泉汲み”をかけたものと推察される。
またこの年の夏には、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり」と論争にもなった歌人大町桂月が亡くなっている。

繭蔵に蚕の繭ならばこもらましわが身のはてを知られずもがな


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by kirakuossan | 2017-02-12 15:00 | 文芸 | Trackback

芭蕉と門人たち

2017年2月7日(火)

d0170835_11241460.jpg松尾芭蕉の優れた高弟10人を指して蕉門十哲と呼ぶ。ただ江戸時代の諸書ではその顔ぶれが一致しないが、蕪村の選んだ次の10人が一般的である。其角,嵐雪,去来,丈草,支考,許六,杉風,野坡,越人,北枝。

蕉門第一の高弟、江戸座を開くいた宝井其角(1661~1707)、其角とならんで蕉門の双璧をなし、雪門の祖である服部嵐雪(1654~1707)、嵯峨野に別荘「落柿舎」を所有した向井去来(1651~1704)、義仲寺無名庵に住んだ内藤丈草(ないとうじょうそう1662~1704)、芭蕉の遺吟・遺文を集めて「笈日記」を著した各務支考(かがみしこう1665~1731)、画の名人でもあった森川許六(1656~1715)、芭蕉の経済的支援者であった杉山杉風(すぎやまさんぷう1647~1732)、芭蕉の遺書を代筆したことで知られる志太野坡(しだやば1662~1740)、「更科紀行」の旅に同行した越智越人(1656~没年不詳)そして「奥の細道」の道中に芭蕉と出会い入門した立花北枝(たちばなほくし生年不詳~1718)。もう一人「奥の細道」の旅に同行した河合曾良(1649~1710)を十哲に含めることも多い。
また各務支考は、芭蕉の亡き後、伊賀・伊勢・近江・江戸などを巡って芭蕉の遺吟・遺文を集めた「笈日記」を著したが、多くの弟子も育成した。そして1719年に加賀千代女に出会い彼女の才能を認める。偶然だが、今日2月7日は支考の命日でもある。


これらの高弟のなかでとくに近江の国にかかわりの深い人がいる。森川許六で、彦根藩の藩士であり、絵師でもあった。他に漢詩を嗜み、武士としては剣術、馬術、に加え槍の名人でもあった。1692年(元禄5)に芭蕉に入門するが、芭蕉より六芸に通じた多芸の才人であったことから「許六」と言う号を授けられることになる。
松尾芭蕉(1644~1694)は「奥の細道」の翌年に初めて近江膳所を訪問し、晩年頻繁に訪れ終の棲家に選び「旧里」と呼ぶほど近江を愛した。彼は生涯980句を残したとされるがそのうち奥の細道では52句、近江湖南では89句を残している。そこでは多くの近江蕉門が輩出し、蕉門十哲の一人とされる森川許六も近江蕉門の一人として名を連ねた。
知られた近江蕉門はほかに、小庵・幻住庵を提供するなどした膳所藩の菅沼曲翠(1659~1717)、同じく膳所藩士で曲水の伯父にあたる水田正秀(1657~1723)、堅田本福寺住職の三上千那(1651~1723)、大津枡屋町の医師江左尚白(1650~1722)、芭蕉の甥とも伝えられ、蕉門十哲の一人として挙げられることもある天野桃隣(1638~1719)、さらには芭蕉の最期を大坂で看取った大津の医者望月木節などがいた。
なかでも菅沼曲翠は芭蕉が最も信頼した門人であったが、1717年藩の悪家老曽我権太夫を槍で刺殺し、自らも責任を取って切腹した。芭蕉は「幻住庵記」に「勇士曲水」と記し、初見の印象を「ただ者に非ず」と称している。 

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d0170835_15374580.jpg1694年、芭蕉は50歳の生涯を終え、近江の義仲寺に運ばれ、翌日には遺言通り木曾義仲の墓の隣に葬られた。(手前が木曽義仲の墓、その奥隣りが芭蕉の墓である)

木曽殿と背中合せの寒さかな
この句については、最初芭蕉の句と思われていたが、実は門下の島崎又玄(ゆうげん)の句である。


d0170835_16134284.jpg今日、義仲寺を訪れるが、この前の小学校の同級会で出逢ったH君の家がちょうどその西隣にあって、近くまで行くと偶然にも彼が家の前に立っていて、前のガレージに駐車させてもらった。そして彼の口添えで拝観料までまけてもらう。境内奥に義仲寺を復興させた保田與重郎氏の墓と、左奥に小さな菅沼曲翠の墓標があり、その塀の向こうがH君の家である。
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d0170835_193188.jpg境内にひときわ華やかなピンクの花が。。。


叱られて次の間へ出る寒さかな 支考

雁渡る雁風呂時の夜寒かな   許六

時鳥背中見てやる麓かな 曲水


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by kirakuossan | 2017-02-07 11:19 | 文芸 | Trackback

信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。


by kirakuossan

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夜想曲 変ロ長調

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歌曲「ひばり」

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