ホンマ!気楽おっさんの蓼科偶感

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6億円は安い?

2016年11月30日(水)

d0170835_23395556.jpgマーラー自筆譜に6億円
「復活」、英競売で最高額


【ロンドン共同】オーストリアの作曲家グスタフ・マーラー(1860~1911年)の交響曲第2番「復活」の自筆の楽譜が29日、ロンドンで競売にかけられ、約455万ポンド(約6億4千万円)で落札された。競売大手サザビーズが明らかにした。英メディアによると、楽譜としては史上最高の落札額という。
楽譜は232ページ。ほとんどの部分は黒いインクで力強い筆致で書かれており、多数の修正の跡も残っている。1894年12月にドイツ・ハンブルクで完成したとの記録がある。
2016/11/30 22:07 【共同通信】





60億円ならともかく6億円では正直なところ、安いのではないか。何たって自筆譜は世界に一つしかないからね。しかもマーラーだ、しかも「復活」だよ。



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by kirakuossan | 2016-11-30 23:48 | Trackback

旧葭原町界隈

2016年11月29日(火)
d0170835_1221391.jpgそこでつい有楽座跡地あたりに行ってみたくなった。母校の中央小学校の付近と何となく記憶していたが、それよりもさらに東方面にあって、思ったより遠かった。住所も現在の中央から松本に入ったところなので元自宅からだと1km近くあった。今は大きなマンションが建っている。

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小学校から高校まで住んだ懐かしい旧地名葭原町にも行ってみた。大津駅前通りが出来て付近は大きく変わったが旧東海道の名残はまだほんの微かに残している。大通りが出来るときに立ち退きになったが、ちょうど交差点の歩道辺りに小さな我が家があった。狭い道路を挟んで大きなマンション(左)が建っているが、そこに松井君の家があった。(我が家は車を停めた辺りにあった:上)
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京へつながるという京町通りの狭い道を歩くと懐かしい文房具屋や薬局、寺院などが立ち並び、老舗風の和菓子屋もある。昔小さなパン屋があったが、確か「山川」とかいったと思うが、この和菓子屋がそうであったか、その隣だったかは定かではないが、ここにおじーちゃんがいて、学校で捻挫をしたとき、ここのおじーちゃんに治してもらったことを思い出す。不思議とその場ですぐに歩けるようになったものだ。
吉村昭の随筆にあるが、彼が学生時分に結核を患った。いったん治癒するが、のちにまた再発(後から分かったが実際は肺炎だったが)して家で寝込んでいると隣の自転車屋の大将が、これがよく効くからとペニシリンの注射を毎日打ってくれた。もちろんそんなことを町医者にも云えず、黙っていたらいつの間にか元気に回復して、その医者は不思議がっていたそうだ。
ことさように、昔は近所になぜかそんな人がいた。もちろん正式な免許は持っていないからおっぴらにはできないが、でもその人の治療が一番よく効いたものだ。そんなのどかな時代だった。
そういうとここにも近くに自転車屋があった。ちょうどこの駅前大通りのど真ん中あたりだろうか・・・その向いに五郎ちゃんの八百屋があって、自転車屋隣の角に綺麗な娘がいた炭屋があった。

そして県庁前の滋賀会館跡は広い空き地になっており、そこから大津駅に向って南に行くと教育会館は昔と全く同じ姿をとどめていた。

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by kirakuossan | 2016-11-29 12:01 | 近江抄 | Trackback

懐かしい映画館の想い出

2016年11月29日(火)
年末に娘より先に孫たち二人だけで新幹線に乗ってやってくるらしい。当然、じーちゃんが迎えに行くわけだが、でもあんな小さかったのに二人してやってくるとは大きくなったもんだ。でも初めての遠出だから緊張してやって来るにちがいない。

d0170835_9124423.jpgそこでふと思い出した。昔住んでいた大津市内には映画館が3つあった。菱屋町に大黒座、丸屋町に公楽座、そして中央小学校の近くに有楽座があった。よく親父に連れられてチャンバラ映画を観に行ったものだ。チャンバラ映画は東映系のが多くてほとんど有楽座だった。大映系や日活映画は公楽座だった。大黒座は最初は芝居小屋でのちに映画も上映したが家から一番遠いこともあってかほとんど行かなかった記憶がある。




d0170835_233255.jpgある日、弟の鉄ちゃん有ちゃんと一緒に、母がバリカンで刈ってくれた河童頭の3人だけで有楽座へ映画を観に行ったことがある。何を観に行ったかは全く忘れたが、ただ何かがあってはいけないと兄として随分緊張して映画を観ていた。そんなところへ見知らぬおばちゃんのグループがやって来て、「僕たち3人で観に来てるの?」とか何とか云ってニヤニヤしている。気味悪いので2階席に変ると、そのおばちゃんたちも一緒に2階席に上がってくるではないか。あの時は、人さらいではないかと思い、随分怖い思いをした。だからどんな映画だったかは全く覚えていない。ただ二人の弟たちはそんなことお構いなしで映画を愉しんでいた。自分は、”便所臭いニオイ”と、”ラムネの瓶が転がる大きな音”しか覚えていない。

d0170835_9195535.jpg昭和29年に大津で一番ハイカラな建物、滋賀会館が誕生した。そこではすべての大きな催し物が行なわれたが、映画も上映された。「ベンハー」や「アラビアのロレンス」など洋画の大作はほとんどここで上映された。そういうと思い出したがだいぶ後になってから、大津駅近くの教育会館でも映画をやるようになった。「大脱走」はそこで観たのを覚えている。ここも洋画専門であったが、少し軟弱なものを多くやっていて、あるとき、そこで男女がからみ合うスチール写真が貼られたことがある。その前を、見たさ恥ずかしさで横目でチラッと見ながら歩き去った。今から思えば”性教育会館”であった。
滋賀会館の写真は谷本勇氏撮影とある。中央小学校3年で同クラスだった谷本君のお父さんだ。その滋賀会館も耐震性不足で閉鎖、昨年に解体された。ここはもと滋賀県産業会館が立地していたが、1952年4月に火災により焼失し、跡地に県立公会堂や図書館などの施設を建てることになった。52年の火災は3歳のときだったが強烈な印象で火事を見に行ったことや、その2年後に真新しく出来上がった会館を見物に行ったこともよく覚えている。なおこんど跡地にはNHK大津放送局が移転開局するらしい。
また有楽座だが、調べると、明治時代は稲荷座という芝居小屋で、大正中頃に帝国館と改称、その後映画の上映を始めた。大津映画劇場、大津日活映画劇場、昭和30年頃に有楽座と改称して38年に閉館した。だから東映系だけでなく、当初は日活系だったのだ。



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by kirakuossan | 2016-11-29 09:12 | シネマ | Trackback

忘れられない一枚 ⑬ 枯葉

2016年11月28日(月)

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d0170835_22233145.jpg同じような枯葉でも一枚一枚がそれぞれ色合い、大きさ、姿かたち・・・少しずつ違う。いつまでも飽きずにじっと見つめていられる一枚だ。


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by kirakuossan | 2016-11-28 20:51 | PHOTO | Trackback

今月の一枚:: 石山寺の紅葉 Nov.2016

2016年11月28日(月)

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2016年11月21日(月)11:34am 石山寺
レンズ:1NIKKOR VR 10-30mm f/4.2 焦点距離:15.7mm(42.40mm) 
露出-0.3 シャッター1/40 ISO100  P 


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by kirakuossan | 2016-11-28 20:07 | PHOTO | Trackback

稀勢の里が69勝で年間最多勝

2016年11月27日(日)

2016年度の大相撲を終えて・・・
d0170835_1943336.jpg九州場所は肩のケガもようやく癒えて鶴竜が7場所ぶり3度目の賜杯を手にしたが、彼がインタヴューで応えていた。「止まっていた日が動き出した」これは本人の復活宣言でもあり、「来場所からは誰が優勝するかいよいよわからなくなってきて面白くなるのでは・・・」と北の富士親方も言っていたが、白鵬1強から、横綱、大関誰にでもチャンスがあるような展開になってきて、来年はさらに面白くなりそうだ。

d0170835_19303935.jpg今年は初場所に琴奨菊、3月、5月と白鵬が連覇したあと、7月場所は日馬富士、先場所が豪栄道、そして今場所が鶴竜ということで3横綱2大関が制した。ここでも不思議なのは、やはり稀勢の里が入っていないことである。
その稀勢の里が今年の最高勝利数69勝を挙げたということだからなおさら不可思議なことである。結びの一番鶴竜が日馬富士を一蹴して優勝に花を添えたが、2位が日馬富士の67勝、白鵬62勝、鶴竜57勝、豪栄道56勝と続く。白鵬が先場所休場したためとはいうものの立派な勝利数である。先場所優勝した豪栄道とは13勝の開きがあり、北の富士親方曰く「九州場所でなかったらブーイングですよ」の琴奨菊など休場もあったが僅かに47勝で、一場所平均8勝にも満たない。
もちろん年間最多勝を挙げながら一度も優勝がなかったというのも初めてのことらしい。どうだろう、相撲協会も決まりを替えて、年間最多勝は1場所優勝に準ずるとでもして欲しいものだ。それほどに稀勢の里は実際強かったのだ。

d0170835_19503898.jpg解説者の元横綱北の富士と向こう正面の元舞の海とのコンビは聞いていて愉しい。それに今日は藤井康生アナウンサー、この3人はウマの合う者同志のような気がする。前にも書いたが、北の富士と藤井アナが同じような真っ黒な日焼け顔で出てきたことがある。これは明らかに昨日一緒にゴルフにいってきた証拠で、ちょんバレだった。それほどよく似た日焼け方だった。すべて憶測だがよほど相性がいいのだろう。今日も高安が今場所大関を狙いながら、自ら体重を増やし過ぎて動きが鈍かったことにふれ北の富士は例の調子で喋っていた。「ねえ、藤井さん、力士はネ、取りごろというのがあるんですよ、体を大きくすればいいというそんな妄想に憑りつかれてはダメ」
やはり”さん”づけするぐらいだから、よほど仲がいいんだ。
とにかくこの一年楽しく相撲を観させてもらいました。

d0170835_18394287.jpg余談だが、藤井康生アナは主に大相撲と競馬中継をてがけるが、20年前のアトランタオリンピックでは女子マラソンで銅メダルを獲得した有森裕子選手へのインタヴューで「自分で自分を褒めたいと思います」というコメントを引き出したことでも知られる。
そして今日の九州場所千秋楽のテレビ実況をもって大相撲中継の実況から引退した。


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by kirakuossan | 2016-11-27 19:18 | スポーツ | Trackback

どちらも惜敗

2016年11月27日(日)
d0170835_16124663.jpg注目していた関東大学アメフトのTOPリーグ、全勝の慶応大と、勝てば逆転優勝に望みが繋がる法政大との試合は、シーソーゲームで取ったり取られたりで最終的には慶応大28-34法政大で慶応大が惜敗、66年ぶりの甲子園ボウル出場はならなかった。でも来季に繋がる価値ある大躍進であった。ずっと慶應義塾体育会アメフト部UNICORNSのTwitterで実況放送の状況を追っていたが、ハラハラドキドキ・・・それにしても慶応は悔しい負けだね。

一方、こちらは関西大学ラグビーリーグ立命館が優勝候補の同志社を苦しめ23-24とわずか1点差で敗れた。この善戦も必ず来年への自信につながるだろう。
ということで今日は二試合とも思い通りにはいかなかった。朝から降りつづいている今日のこのうっとうしい天気と同じで気分がすぐれませんなぁ。
(写真は慶應義塾体育会アメフト部UNICORNSのTwitterより)



追記:
(18:40)
アメフトの西日本学生代表決定戦4回戦が関西学生準優勝の立命館と東海地区代表の名城大との間で今日行われ、38-20で立命館が勝ちには勝ったが、相手に3タッチダウンも奪われる不本意な戦いぶりだった。先日の関学戦でのオフェンス、そして今日のディフェンス陣の脆さが露呈して、攻守にわたり歯車がかみ合っていない状況にある。来週、関学と代表決定戦で再戦となるが、今のままでは勝ち目はないだろう。あと1週間で立命館がどこまで修正できるかがポイントである。


追記:
(23:20)
関東大学アメフトのTOPリーグ、結局優勝は早稲田。今季は前半戦は下位チームに大苦戦した。最下位に終わった日体大とは24-24の同点で、辛うじてタイブレーク制で勝利、続く中央大にも13-12と薄氷の勝利、慶応大には14-21で敗北、暗雲が立ち込めたが終盤になってようやく盛り返し、法政大に32-14、そして今日の日大に27-0と勝利を収め、慶応大、法政大とともに6勝1敗で並び三つ巴に。結局得失点差でどうにか連覇を達成した。


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by kirakuossan | 2016-11-27 15:39 | スポーツ | Trackback

勘違い?珍しい光景

2016年11月27日(日)
d0170835_13114620.jpg九州場所は鶴竜3度目の優勝が昨日に決まった。わずかな希望を持って3敗力士の優勝の可能性を期待して観ていたが、結びの鶴竜vs豪栄道戦を待たずして、その前の一番、白鵬と、2敗で追う日馬富士の取り組みの立ち合いの様子で鶴竜の優勝を予感した。


昨日の日馬富士はいつもとは違った。かなりの緊張の表情が取組前土俵下で待機している時から見てとれた。しかも白鵬との立ち合いで、恐らく勘違いだろうが、軍配がかえっているのにいつもの制限時間直前の深い仕切りの姿勢をとった。もちろん仕切り直したが、もうその時点で日馬富士に勝ち目はなかった。もし仮に昨日、日馬富士が勝ち、鶴竜が豪栄道に敗れても、千秋楽での逆転優勝はなかっただろう。今場所の鶴竜の勢いは日馬富士より数段上であった。それにしてもその鶴竜を横綱相撲で撃破した強い稀勢の里。あの13日目の敗戦は返す返すも惜しかった。おそらく12勝3敗で今場所もまた準優勝(12度目)に終わるだろうが、3横綱2大関を倒しているので同じ3敗でも価値はある。そういう意味では、来場所の成績次第では綱取りが再度見えてくるのではないか。ファンというのは有り難いものでいつまでも諦めずに、夢を追い続けるものである。
もう一つ不思議に思ったのは、今場所に限り稀勢の里と琴奨菊の取り組みがなかった。今年の最初の場所に優勝した大関が〆の場所で事情はどうあれ大きく負け越して年を追えるとはこれまた情けない話だが。そんなこともあっての取り組みなしでもないだろうが・・・

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by kirakuossan | 2016-11-27 13:11 | スポーツ | Trackback

ヘブラー、40歳と60歳での演奏の違い

2016年11月27日(日)
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イングリット・ヘブラーのモーツァルトのピアノソナタをレコードとCDで聴き比べる。
と、いっても今日は音質の違いを云々するのではない。同じ曲を同じピアニストで聴き比べようと思う。レコードは1960年代半ば、CDの方は1980年代半ば、前者は40歳になったばかり、後者は還暦を迎えたころの演奏である。ちょうどこの20年で音楽はどう変わったか、興味のあるところである。しかもうまい具合に、同曲が3曲も並んでいる。ピアノ・ソナタ第11番イ長調K331、第15番ハ長調K545、第8番イ短調K310の3曲である。
ここでは第11番K331で比較してみたい。例の「トルコ行進曲付」の有名なピアノソナタだ。このソナタは全曲25分近くを要する大曲である。
第1楽章だけで他のソナタの全曲に相当するぐらいの長さをもち、子守唄風の主題と6つの変奏から構成されている。第2楽章はトリオをもつ大きなメヌエットであるが、もともとモーツァルトはメヌエットを多用したが、ピアノソナタではこれが唯一である。そして有名な軽快なトルコマーチ、左手低音で独特のリズムを奏でる。それはロンド形式で工夫され、短いが輝かしい印象に残るメロディーである。

まず全体の演奏時間であるが、これが面白いことにどちらも24分32秒である。とくにトルコ行進曲がでてくる第3楽章はどちらも3分30秒と測ったようにピッタリと同じ。違うのは第1楽章でレコードは14分37秒なのに対してCDでは14分31秒、その分、第2楽章ではレコードが逆に6秒速く6分25秒なのに対し、CDは6分31秒をかけている。それで全曲通してピタリと同じというあんばい。
もう少し詳しく見ていくと、演奏形態のこの20年の違いが見えてきそうである。
第1楽章は第1変奏は休止符を多用した面白いリズム、第2変奏は三連音符の伴奏で美しい旋律が弾かれ、第3変奏でイ短調に変わり、第4変奏でイ長調に戻る。一転、第5変奏はこまやかな表情のアダージョ、そして第6変奏の軽快なアレグロは最後にコーダで閉める。
ここの第1楽章にその違いが最も凝縮されて見える。全体的にはレコード(若い時)の方が、ゆったりと謳わせ、逆にCD(還暦)の方が、てきぱきと処理した印象を抱かせる。とくに顕著なのは、第1と2変奏でレコードが5分8秒も要しているのに、CDの方は4分48秒と20秒も短い。レコードの方は、愛らしく、丁寧に仕上げた感じに対し、CDの方は、音の強弱にメリハリをつけ、幾分タッチを刻むような鮮明な音色で弾き切る。この出足だけでも大きなずいぶん違う印象を受ける。前者が一音一音愛おしむようなヘブラーの色調をより帯びているように感じられる。逆に続くイ短調、イ長調への変化のところはレコードの方は6秒短く切り上げ、さらっと流しているが、CDは短調と長調の対照の妙を目立たせるような表現で、かなり仔細に提示される。もっとも長い第5変奏でも晩年の演奏の方が、より細やかさを浮き彫りにしたような演奏なのに対してレコードの方はそこまでの感情移入はなく、あくまでも指の動きにまかせて淡々と弾きつづけるイメージである。第6変奏のアレグロはどちらも愛らしい、まるでヘブラーが笑みを浮かべながら弾いているような姿が想像できる。
第2楽章に入ると、ここではそんな差異は感じられないが、CDの方がより彫の深さを強調するように聴こえる。トルコ行進曲ではピアノタッチそのものの強さの違いなのか、レコードとCDの音質の違いなのかよくわからないが、レコードの方がより柔らかなタッチに聴こえる。
イングリット・ヘブラーのモーツァルト演奏の最大の魅力は彼女の愛おしむような、一音一音を大切にするのと同時に、一見それとは相反するような、ごく自然に、ありのままにさりげに奏でるその優しい音色にある。そういったイメージからすれば、40歳代の、昔のピアノの方がよりそのイメージに近いような気がした。


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by kirakuossan | 2016-11-27 10:18 | クラシック | Trackback

桜田門外ノ変  ⑮

2016年11月26日(土)

吉村昭著「桜田門外ノ変」



桜田門外のこの襲撃で18士のうち、討死1名、自刃4名、深傷による死亡3名、死罪5名、生き延びたのは検視見届け役の岡部三十郎、斬り込んだ広木松之介、海後磋磯之介、増子金八誠、そして現場での指図役関鉄之介の5人であった。ほかに関わった人物でこの襲撃の計画を策定した金子孫二郎は伏見で捕らえられ、江戸に送られて斬罪に処せられた。また高橋多一郎は息子の荘左衛門とともに自害した。

一、負傷スル者は自殺、又ハ閣老ニ至テ自訴ス。其余ハ皆京ニ徴行スベシ
鉄之介と岡部、さらには途中で合流した計画に終始かかわっていた野村幣之介らとともに当初の計画通り京を目指した。3月15日にははや下諏訪に着き、彦根藩士と出会う危険性を避けるため、中山道を避け、その翌日から伊那街道にそれた。天竜川沿いに、浪合、根羽に投宿、三河に入り、尾張のの国の宮熱田、その後舟で桑名までゆき、東海道を西へ進み、四日市、関、伊賀上野、そして奈良から大坂をへて京に入る。そこで薩摩藩の藩兵3000人と合流する手筈であった。ところが、朝廷を守護するために京へ入ることになっていた薩摩藩は動かず、当初の計画はとん挫してしまうという誤算が起きた。信じきれない関鉄之介は、すぐさまその真意を確かめるため、各地を転々と潜行しながら、薩摩行きを目指す。しかし動く気配がないことを知り、途中で断念して水戸へ引き返すことになる。それもすぐに戻るわけにはいかず、ほとぼりが冷めるまで各地を転々とし、1861年8月にようやく袋田に入り、水戸藩領内を彷徨うが、水戸藩の包囲網が厳しくなる中、越後へと逃れたが、湯沢温泉で捕らえられた。そして水戸で投獄された後、江戸送りとなって、文久2年5月11日(1862年6月8日)に日本橋小伝馬町の牢において斬首された。。享年39歳であった。


井伊大老が暗殺されたことによって幕府の支配力は弱まり、それにつぐ坂下門外の変で老中安藤信睦が失脚し、政治形態は修復不能なほどの亀裂が生じた。
水戸藩で勃興した尊王攘夷の政治思想も、桜田門外の変を境にいちじるしい変化が起こった。水戸藩の外圧に対する危機意識からうまれた攘夷論は、そのまま薩摩、長州などの外様雄藩に根をおろした。そして、日本に権益を得た外国勢力に果敢な武力抵抗をこころみ、それが薩英戦争、下関戦争となった。
その結果、外国の軍事力が容易に対抗できぬ巨大なものであることが認識され、攘夷論は現実と遠く遊離していることを知った。
幕閣は、井伊大老をのぞいて小藩の藩主によって構成されていたが、力の乏しいかれらには、激しく揺れ動く内外情勢に決断をもって対処する姿勢はみられなかった。
かれらは、朝廷との融和によって幕府の存立をはかったが、それは一層の混乱をまねき、幕府の政治力は急激に低下した。
外国との武力対決を断念した薩摩、長州らの雄藩は、幕府を倒すことが現状を打開する唯一の道と確信し、それに総力をあげた。水戸学の尊王攘夷論は、朝廷を尊崇することによって人心の統一をはかり幕府の政治力を強化して外圧に対抗することを目的にしたが、一変して、尊王倒幕論となったのである。
このような急激な、そして著しい変化は、桜田門外の変をきっかけに加速したのである。~
明治政府が樹立されたのは、桜田門外の変が起きてから八年後のことであった。



生き残った5人のうち、関鉄之介と岡部三十郎が斬罪、あとの広木松之介、海後磋磯之介、増子金八誠はさらに逃れ続いたが、広木は逃走途中で、高橋や金子の死を知り、それに絶望して自害した。また増子は実兄や妻の実家にひそみ、60歳で亡くなった。
ただ一人、海後磋磯之介は逃走後、幕末の動乱が始まり、追及がゆるんだのをみて、ひそかに故郷に戻った。そして菊池剛蔵と名を改め、明治維新後、東京へ出て、警視庁に入り、明治8年水戸に戻って、結城警察署に勤務、のち有能な人物として18年間水戸の警察本部で務め上げ、明治36年まで生き、76歳で世を去った。



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「桜田門外の変」はそのほとんどが幕府側、開国を主張する井伊直弼側からの視点で記されてきた。本著は、その逆に、急激に開国に舵を取ることに危機感を覚えた、尊王攘夷派の立場をとる徳川御三家の一角、水戸藩士からみた「桜田門外の変」である。
井伊は、異国は国富み、兵は強く、そのもとめを拒絶すれば必ず戦争となる。わが国の武備は貧しく、到底、勝利はおぼつかない。国敗れて土地を異国に割くとすれば、国辱これより大なるはなし。今、要求をこばんで国を不幸におとしいれるか、それとも勅許を得ずして国を救うか。朝廷から政治をまかされている幕府としては、臨機応変、よしと思う道を勇気を持って進まねばならない。一方では井伊の行動を見過ごせば、やがて朝廷の意向を無視して政治を意のままにあやつり、国体は完全に崩壊せせると危ぶんだ。
どちらも日本の将来を真剣に考えての行動に他ならない。「桜田門外の変」は遅かれ早かれ、いずれ日本がどうしても通らないわけにはいかない道であった。開国派、尊王攘夷派、それぞれの立場で、たまたま日本の将来を決する重要な通過点に出合わせた男たちのそれぞれの生きざまである。それはあまりにも悲運であったかもしれない。



おしまい。


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by kirakuossan | 2016-11-26 21:25 | ヒストリー | Trackback

信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。


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夜想曲 変ロ長調

グリンカ:
歌曲「ひばり」

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