ホンマ!気楽おっさんの蓼科偶感

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ひらがなとカタカナ

2017年3月21日(火)

d0170835_11135210.jpg同じ今日3月21日、日本では弘法大師忌でもある。真言宗を開いた平安時代の僧空海(774~835)には多くの伝説・伝承が伝わる。讃岐うどんは空海の故郷の名産、灸は「弘法大師が持ち帰った灸法」とされたし、発見したとされる温泉は数知れず。
また平仮名を創作したという伝承もある。でもこれは今では俗説であるとされる。平仮名のもとになったのは、奈良時代を中心に使われていた借字で、平安時代になって漢字の草体化が進み、ついにもととなる漢字の草書体から独立したものが平仮名となり、文章を記す書記体系として確立した。”あ”から順番に見ていくと、なるほど・・・といったことでなかなか面白い。

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d0170835_11161682.jpg一方、片仮名吉備真備(695~775年)が作ったとされるが、これも俗説に過ぎない。漢字の一部を使いその文字の代わりとして用いることは7世紀中頃から見られるが、片仮名の起源は9世紀初めの奈良の古宗派の学僧たちの間で漢文を和読するために、訓点として借字(万葉仮名)の一部の字画を省略し付記したものに始まると考えられている。平仮名で書かれたものが美的な価値をもっているとされるのに比べると、片仮名は記号的・符号的な性格が強い。
この二つの仮名は、平安時代に生まれたが、若干、片仮名の方が先に成立した。平仮名は、女性が用いる文字として、日記や和歌、物語などに多く使われたし、一方の片仮名は、漢文を読むときの補助記号として生まれ、主に公文書を読んだり書いたりするのに利用され、漢字と並んで男性が使う文字とされた。


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by kirakuossan | 2017-03-21 10:54 | ヒストリー | Trackback

大津は日本の歴史と文化の縮図である。

2017年3月19日(日)

大津は、ながい歴史のあいだ、つねに琵琶湖とともにあった。
琵琶湖は、古く鳰の海とよばれ、日本の淡海として、列島の東と西をつなぎ、日本の表と裏を分つ、まさに中心に位置していた。古くから水運の便をにない、水産の恵を与えてきただけでなく、その水は流れて瀬田川・宇治川さらに淀川と名を変えつつ、京・大阪など下流の人々の生命を支えてきた。まことにたいせつな湖である。
この湖の深い恩恵をうけると同時に、それを守りつづけてきたのは、ほかならぬ大津市民の祖先たちであった。彼らは日本の歴史と文化の上にもめざましい働きをしたが、けっきょくは琵琶湖の水守たちであったのだ。大津を中心に堅田も瀬田も含めて環湖共同体ともいえる組織をもって、この湖と生死を共にしてきた。
日本の中心であった大津は、それだけに天智天皇の時には日本の首都になり、平安時代を通じて王城の守護としての北嶺をになっただけでなく、中国の瀟湘八景にも比せられる近江八景によって全国にその風光をうたわれた。しかもその背景をなす近江は、日本の最先進地であり、その地の利を発見した織田信長はついに政治的に天下を制圧し、その地を故郷とした近江商人は経済的に全国を圧倒した。大津はその歴史のどこをとらえても、日本の歴史と文化の縮図であり典型であった。

歴史学者 林屋辰三郎


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d0170835_1394168.jpg大津市域で人の活動が始まったのは約3万5千年前、旧石器時代とされる。そして人々の暮らしの痕跡が最初に明らかになるのは、約7~8千年前の縄文時代、場所はなんとこのアトリエ近くにある石山寺東大門南に位置する石山貝塚からである。セタシジミの貝殻や、魚、鳥、獣骨などの食料の食べかすが多く発見される。背後に伽藍山、前に当時はゆるやかだった瀬田川、そこで狩猟、漁業で生活を営む人々にとっては格好の環境であったようだ。

そして、中大兄皇子が都を飛鳥から大津に移したのが、666年の今日3月19日。翌年、即位して天智天皇となる。ただこの大津京も天智天皇亡き後の後継者争いで、壬申の乱が起き、わずか5年で廃都となる。


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by kirakuossan | 2017-03-19 12:06 | ヒストリー | Trackback

暖炉しきりに燃ゆ。

2017年2月26日(日)
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日記
菊池寛

二月二十六日。午前九時半頃、出入の新聞配達が電話をかけてくれて、兇変を知る。「東京日日」へ電話をかけたが、いく度かけてもお話中である。事件の容易ならざるを思ふ。文芸春秋社へ電話をかける。すぐ出る。重臣達が皆殺されたとの事である。・・・なもののやうな気がして、暗澹たるものがある。「こはいかに成り行く世に姿ぞ」と、昔の本にあるやうな気がする。昼頃、「東京日日」より電話あり、連載小説の催促である。騒動で、小説が休載になるものと、それが不安のわづかな慰めだと思ってゐたので、ガッカリする。しかし、小説が休載にならない位なら、大した事もないと安心する。電話に出た学芸部の高原君に(情勢は何うなんだい)と訊くと高原君(情勢は・・・)と、云ひかけて、傍から止められたらしく(今話したらいけないさうです)と答ふ。編集局が、強力な者により監視されてゐるやうに思はれる。~
(『改造』十一年四月号)


1936年(昭和11)2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こした二・二六事件。このクーデターを境に、日本のファシズム化が加速し、やがて太平洋戦争への道を辿ることになる。わずか81年前のことである。


暖炉しきりに燃ゆ
久保田万太郎

朝、放送局より緊急の電話。事件の外郭を知る。熱下らざれど直ちに出勤。
自動車をよぶ。一台もなし。何分この騒ぎでという口上になり。そこまでもう手のまはったことを痛感しつつ、中の橋まで出て、円タクを拾ふ。けさ、何かあったんださうですね、と運転手、問はず語りにかたる。さうだってね、とこたふ。雪、しきりにふる。
愛宕山に到着。玄関、ホール、廊下、どこも思ったほどごツた返しをらず、きはめて平静なり。いささかこんなはずではなかったがの感あり。~
「演芸」のB君、「洋楽」のO君とともに徹夜することにきめ、報道部の部屋にて刻々入り来る情報聴取。夜半、戒厳令出づ。熱、七度に下がる。夜色しづかに暖炉しきりに燃ゆ。
(『改造』十一年四月号)



四十七士の討入りといい、桜田門外の変といい、かならず雪がつきものである。昭和11年2月26日も東京に大雪が降った。積雪36cm、これは当時東京での史上3位にあたる積雪であった。
それから事件発生から3日後の29日、午前8時50分、ラジオで「兵に告ぐ」と題した放送がおこなわれる。これが名文として名高い。

d0170835_14344988.jpg「勅命が発せられたのである。既に天皇陛下の御命令が発せられたのである。お前達は上官の命令を正しいものと信じて、絶対服従をして、誠心誠意活動して来たのであらうが、既に、天皇陛下の御命令によつて、お前達は皆原隊に復帰せよと仰せられたのである。
此上お前達が飽く迄も抵抗したならば、夫は勅命に反抗することとなり、逆賊とならなければならない。
正しいことをして居ると信じてゐたのに、それが間違つて居たと知つたならば、徒らに今迄の行懸りや義理上から何時までも反抗的態度をとつて天皇陛下に叛き奉り、逆賊としての汚名を永久に受けるやうな事があつてはならない。
今からでも決して遅くはないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰する様にせよ。さうしたら今までの罪も許されるのである。お前達の父兄は勿論のこと、国民全体も、それを心から祈つて居るのである。速かに現在の位置を棄てて帰つて来い」
 <戒厳司令官 香椎中将>





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by kirakuossan | 2017-02-26 13:41 | ヒストリー | Trackback

行基図

2017年2月2日(木)

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奈良時代の僧侶行基が作ったとされる日本地図がある。ことの真偽は定かではないが、これを「行基図」といって、江戸時代に伊能忠敬らが現われるまで日本地図の原型とされてきた。
北海道がなかったり、九州が円かったり、細部はともかくとして全体図としてのイメージはよく理解できる。ただし現存しているものは江戸時代の書写である。


津軽大里(青森県)
夷地陸奥(青森県大部分・岩手県一部)
出羽(秋田県・山形県の大部分)
鹿嶋常陸(茨城県大部分)
下総(千葉県北部・茨城県一部)
上総(かずさ・千葉県中央部常陸)
安房(あわ千葉県南部)
下野(栃木県)
上野(群馬県)
武蔵(東京都・埼玉県・神奈川県一部)
相模(神奈川県大部分)
伊豆(静岡県東部・東京都伊豆諸島・伊豆七島・伊豆半島)
甲斐(山梨県)
越後(新潟県大部分)
佐渡(新潟県)
信濃(長野県)
飛騨(岐阜県北部)
美濃(岐阜県南部)
越中(富山県)
能登(石川県北部)
加賀(石川県南部)
越前(福井県東部)
若狭(福井県西部)
駿河(静岡県中央部)
遠江(静岡県南部)
三河(愛知県東部)
尾張(愛知県西部)
伊勢(三重県大半)
伊賀(三重県西部)
志摩(三重県東部)
近江(滋賀県)
山城(京都南部)
大和(奈良県)
紀伊(大部分和歌山県・一部三重県)
河内(大阪府東部)
和泉(大阪府南部)
摂津(一部大阪府・一部兵庫県)
播磨(兵庫県西部)
淡路(兵庫県淡路島)
丹波(京都府・一部兵庫県)
丹後(京都府北部)
但馬(兵庫県北部)
因幡(鳥取県東部)
伯耆(ほうき・鳥取県西部)
隠岐(島根県隠岐島)
出雲(島根県東部)
石見(島根県西部)
美作(岡山県北部)
備前(岡山県南東部)
備中(岡山県西部)
備後(広島県東部)
安芸((広島県西部)
周防(山口県東部)
長門(山口県西部・北部)
讃岐(香川県)
阿波(徳島県)
土佐((高知県)
伊予(愛媛県)
筑前(福岡県北西部)
筑後(福岡県南部)
豊前(大半福岡県東部・一部大分県北部)
豊後(大分県大部分)
対馬(長崎県一部)
壱岐(長崎県)
肥前(佐賀県・一部長崎県)
肥後(熊本県)
日向(宮崎県)
大隈(鹿児島県東部)
薩摩(鹿児島県西部)


d0170835_19505726.jpgまた、行基は、大僧正として聖武天皇により奈良の東大寺造立の実質上の責任者として招聘されたことや、多くの寺院を開基したり、架橋や貯水池掘削などの社会事業を各地で行なったことでもよく知られる。そして行基による開湯伝説が全国各地にある。草津温泉、野沢温泉、渋温泉、鹿教湯温泉、有馬温泉などなど。
そんな行基は668年河内國大鳥郡に生まれ、749年奈良の喜光寺で没した。今日2月2日は、行基の没1268年にあたる。

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by kirakuossan | 2017-02-02 16:05 | ヒストリー | Trackback

3月3日、もう一つの変

2017年1月6日(金)

桜田門外の変は安政7年(1860)3月3日に起きたが、その日は季節外れの大雪が降った。それから8年後の同じ日、慶応4年(1868)3月3日、氷雨が降り注いでいた下諏訪の温泉宿で一人の尊皇攘夷派志士が謀殺された。志士の名は赤報隊隊長相楽総三である。赤報隊とは、王政復古により官軍となった長州藩、薩摩藩を中心とする新政府の東山道鎮撫総督指揮下の草莽隊である。

d0170835_19273371.jpg江戸城の無血開城は勝海舟と西郷隆盛の功績とされているが、事実は早計に判断できかねるものであって、西郷の本心はあくまでも江戸城総攻撃の実現にあったが、結果として中止せざるを得ないことになった。しかし、大政奉還が行われることになっても西郷はあくまでも実力行使で倒幕させる機を狙っており、その手を打った。それは江戸城下を混乱させ、それに乗じて幕府を攻撃する口実をかちとり、念願を果たそうとする。その実行特殊部隊として結成されたのが赤報隊である。赤報隊に強盗、辻斬り、放火などの乱暴狼藉を執拗に繰り返させ、江戸の治安悪化を目論んだ。
「赤心を持って国恩に報いる」という精神のもと赤報隊は西郷隆盛や岩倉具視の支援を得て、慶応4年(1868)1月8日に近江国金剛輪寺において結成されることになる。隊長は相楽総三、公家の綾小路俊実、滋野井公寿らを盟主として擁立された。
赤報隊は新政府の許可を得て、東山道軍の先鋒として、各地で「年貢半減」を宣伝しながら、世直し一揆などで旧幕府に対して反発する民衆の支持を得ることとなる。
ここでの「年貢半減」、今風に言えば税金の軽減化であるが、新井喜美夫著「善玉・悪玉、大逆転の幕末史」にこうある。

東征に先立ち、隆盛は相楽を呼び寄せ、「西軍の行く先々にて、幕府より年貢が安くなることを民衆に訴えよ」と、謀略の知恵を授けた。
それにしても、革命を成就させるためには民衆を味方につけねばならない。民衆がもっとも関心を示すのは税金である。
アメリカの独立戦争は、自由な天地を求めて新大陸に移植したアメリカ人たちに、イギリス本国の税収が不足したといって課税しようとしたために起った。こうして、現在のアメリカ合衆国が誕生したのである。
フランス革命もまた同様である。ルーブル宮殿よりも豪華なヴェルサイユ宮殿を建築したため財政が逼迫し、高率の間接税=消費税を民衆に課した。そのために革命が起こり、ブルボン王朝は倒されてしまったのである。


ところが、この動きに新政府は「官軍之御印」を出さず、文書で証拠を残さないようにした。そして、新政府は財政的に年貢半減の実現は困難であるとし、この事実が判明すれば民衆は収まらないだろうと判断、密かにこれを取消すにあたり、「年貢半減は相楽らが勝手に触れ回ったことである」ということにして、赤報隊に偽官軍の烙印を押してしまった。
年貢半減令を掲げ、自らの行動を信じて京都から江戸を目指して進軍する相楽総三は中山道と甲州街道の分岐点である信州下諏訪宿を拠点とし、碓氷峠を占拠して北陸と江戸の連絡を遮断することを計画したが、突然の偽官軍扱いとなり、下諏訪宿で捕縛され、処刑される。
赤報隊は旧幕府軍を挑発するために「御用盗」という名のもとに江戸を混乱に陥れるが、明らかな犯罪行為であった。そのこと自体は許されるものではないが、それを目論んだり、指示した歴史上の大人物らはのちに過大評価され、美化され、後世にその名が伝えられる。
前述の新井喜美夫が著書のまえがきでも触れているが、「幕末の志士、維新の元勲たちがいかにレベルの低い人間たちであったかを知り、つねに勝者によって作られる歴史を正しく検証し直していく必要がある」と。

d0170835_2192681.jpg相楽総三(1839~68)、下総相馬郡(現取手市)の大富豪の四男として江戸・赤坂に生まれる。国学と兵学を学び、若くして私塾を開いて多くの門人を抱えるが、23歳の時に尊王攘夷活動に身を投じ、西郷隆盛を知る。享年30。
明治3年(1870)、下諏訪に相楽塚が建立され、長い間、偽官軍の汚名を受けていたが、孫たちの努力により名誉が回復された。

赤報隊が湖東三山のひとつ金剛輪寺において結成されたこと、また下諏訪の温泉宿など、この知らなかった出来事が急に身近に感じるのである。


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by kirakuossan | 2017-01-06 12:23 | ヒストリー | Trackback

桜田門外ノ変  ⑮

2016年11月26日(土)

吉村昭著「桜田門外ノ変」



桜田門外のこの襲撃で18士のうち、討死1名、自刃4名、深傷による死亡3名、死罪5名、生き延びたのは検視見届け役の岡部三十郎、斬り込んだ広木松之介、海後磋磯之介、増子金八誠、そして現場での指図役関鉄之介の5人であった。ほかに関わった人物でこの襲撃の計画を策定した金子孫二郎は伏見で捕らえられ、江戸に送られて斬罪に処せられた。また高橋多一郎は息子の荘左衛門とともに自害した。

一、負傷スル者は自殺、又ハ閣老ニ至テ自訴ス。其余ハ皆京ニ徴行スベシ
鉄之介と岡部、さらには途中で合流した計画に終始かかわっていた野村幣之介らとともに当初の計画通り京を目指した。3月15日にははや下諏訪に着き、彦根藩士と出会う危険性を避けるため、中山道を避け、その翌日から伊那街道にそれた。天竜川沿いに、浪合、根羽に投宿、三河に入り、尾張のの国の宮熱田、その後舟で桑名までゆき、東海道を西へ進み、四日市、関、伊賀上野、そして奈良から大坂をへて京に入る。そこで薩摩藩の藩兵3000人と合流する手筈であった。ところが、朝廷を守護するために京へ入ることになっていた薩摩藩は動かず、当初の計画はとん挫してしまうという誤算が起きた。信じきれない関鉄之介は、すぐさまその真意を確かめるため、各地を転々と潜行しながら、薩摩行きを目指す。しかし動く気配がないことを知り、途中で断念して水戸へ引き返すことになる。それもすぐに戻るわけにはいかず、ほとぼりが冷めるまで各地を転々とし、1861年8月にようやく袋田に入り、水戸藩領内を彷徨うが、水戸藩の包囲網が厳しくなる中、越後へと逃れたが、湯沢温泉で捕らえられた。そして水戸で投獄された後、江戸送りとなって、文久2年5月11日(1862年6月8日)に日本橋小伝馬町の牢において斬首された。。享年39歳であった。


井伊大老が暗殺されたことによって幕府の支配力は弱まり、それにつぐ坂下門外の変で老中安藤信睦が失脚し、政治形態は修復不能なほどの亀裂が生じた。
水戸藩で勃興した尊王攘夷の政治思想も、桜田門外の変を境にいちじるしい変化が起こった。水戸藩の外圧に対する危機意識からうまれた攘夷論は、そのまま薩摩、長州などの外様雄藩に根をおろした。そして、日本に権益を得た外国勢力に果敢な武力抵抗をこころみ、それが薩英戦争、下関戦争となった。
その結果、外国の軍事力が容易に対抗できぬ巨大なものであることが認識され、攘夷論は現実と遠く遊離していることを知った。
幕閣は、井伊大老をのぞいて小藩の藩主によって構成されていたが、力の乏しいかれらには、激しく揺れ動く内外情勢に決断をもって対処する姿勢はみられなかった。
かれらは、朝廷との融和によって幕府の存立をはかったが、それは一層の混乱をまねき、幕府の政治力は急激に低下した。
外国との武力対決を断念した薩摩、長州らの雄藩は、幕府を倒すことが現状を打開する唯一の道と確信し、それに総力をあげた。水戸学の尊王攘夷論は、朝廷を尊崇することによって人心の統一をはかり幕府の政治力を強化して外圧に対抗することを目的にしたが、一変して、尊王倒幕論となったのである。
このような急激な、そして著しい変化は、桜田門外の変をきっかけに加速したのである。~
明治政府が樹立されたのは、桜田門外の変が起きてから八年後のことであった。



生き残った5人のうち、関鉄之介と岡部三十郎が斬罪、あとの広木松之介、海後磋磯之介、増子金八誠はさらに逃れ続いたが、広木は逃走途中で、高橋や金子の死を知り、それに絶望して自害した。また増子は実兄や妻の実家にひそみ、60歳で亡くなった。
ただ一人、海後磋磯之介は逃走後、幕末の動乱が始まり、追及がゆるんだのをみて、ひそかに故郷に戻った。そして菊池剛蔵と名を改め、明治維新後、東京へ出て、警視庁に入り、明治8年水戸に戻って、結城警察署に勤務、のち有能な人物として18年間水戸の警察本部で務め上げ、明治36年まで生き、76歳で世を去った。



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「桜田門外の変」はそのほとんどが幕府側、開国を主張する井伊直弼側からの視点で記されてきた。本著は、その逆に、急激に開国に舵を取ることに危機感を覚えた、尊王攘夷派の立場をとる徳川御三家の一角、水戸藩士からみた「桜田門外の変」である。
井伊は、異国は国富み、兵は強く、そのもとめを拒絶すれば必ず戦争となる。わが国の武備は貧しく、到底、勝利はおぼつかない。国敗れて土地を異国に割くとすれば、国辱これより大なるはなし。今、要求をこばんで国を不幸におとしいれるか、それとも勅許を得ずして国を救うか。朝廷から政治をまかされている幕府としては、臨機応変、よしと思う道を勇気を持って進まねばならない。一方では井伊の行動を見過ごせば、やがて朝廷の意向を無視して政治を意のままにあやつり、国体は完全に崩壊せせると危ぶんだ。
どちらも日本の将来を真剣に考えての行動に他ならない。「桜田門外の変」は遅かれ早かれ、いずれ日本がどうしても通らないわけにはいかない道であった。開国派、尊王攘夷派、それぞれの立場で、たまたま日本の将来を決する重要な通過点に出合わせた男たちのそれぞれの生きざまである。それはあまりにも悲運であったかもしれない。



おしまい。


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by kirakuossan | 2016-11-26 21:25 | ヒストリー | Trackback

桜田門外ノ変  ⑭

2016年11月24日(木)

吉村昭著「桜田門外ノ変」



鉄之介は、羽織を脱いだ佐野竹之介が、森につづいて斬り込んでいゆくのを眼にした。同時に、行列が大きくゆれ動き、静寂がやぶられた。
鉄之介の手から武鑑が雪の上に落ちた。
先供の徒士が前のめりに倒れ、雪の上で激しく体をもがかせている。
「狼藉者」
というかすれた声が、駕籠のまわりをかためた徒士たちの間から起こり、大半の者が走って前方にゆく。
その時、短銃の発射音が一発とどろき、それまで濠端と松平大隅守の屋敷の塀ぎわに立っていた同志たちが、一斉に抜刀して斬り込んだ。
駕籠の周囲には徒士が三人ほどしかいず、半合羽を着た稲田重蔵が、刀を真っすぐにして、駕籠の扉に体あたりするのが見えた。
鉄之介は、今にも膝頭がくずおれるような体のふるえを必死にたえながら、指図役として自分は一歩も動かず立っていなければならぬのだ、自ら言いきかせた。
各所で同志たちと徒士との間で鍔ぜり合いがくりひろげられている。同志たちは気持ちも動転しているらしく、白襷をつけている者はいても、白鉢巻をしている者はいない。合図の言葉「正」と「堂」を発する者もいない。
彦根藩士だけではなく、同志たちもうろたえている。剣術の稽古で最も重視される間合いなどすっかり忘れ、ただ刀を上下左右にふるうだけで、揉み合っている者もいる。
馬がいなないて走り出し、輿夫も後方についてた小者たちも道具をすて、悲鳴をあげて雪の中を這うようにして逃げ散る。
鉄之介は、恐れていた同志討ちが現実となったことを眼にし、恐怖に襲われた。
蓮田市五郎が増子金八と息をはずませながら斬り合い、他の者も同志と闘っている。鉄之介も、彦根藩士か同志か判別しがたく、血が所々で飛び散るのをかすんだ意識の中でながめているだけであった。
斬奸趣意書を老中屋敷に提出する役目を負った斎藤監物は、斬り合いにくわわらぬはずであったのに、いつの間にか紋付の羽織を脱ぎすて、素足で体を血に染めながら刀をふるっている。眼前の乱闘を見守っているのにたえきれず、刀を抜いて走り出したにちがいなかった。
彦根藩士も同志たちも、撃剣の姿勢はすっかり忘れているらしく、ただ刀をふるっている。刀の背で相手の頭をたたいている者もいれば、抱き合うようにして刃で顔を傷つけ合っている者もいる。
鉄之介は、それらの者の中で駕籠わきに立つ一人の彦根藩士の姿に戦慄をおぼえた。
その藩士は、いつの間にか雨合羽を脱いだらしく、刀の柄にも袋がない。小刀も左手にして、背をのばして立ち、大刀を上段にかまえた姿は、剣術の正しい姿勢をとっている。
その刀が稲田の体に振りおろされた。頬の肉がそぎ落とされ、さらに肩に食いこんだ。
仰向けに倒れた稲田が、掌で振りおろされる刀をふせぐ仕種をしたが、横にないだ刀で指が飛び散った。
佐野をはじめとした同志たちが、その藩士に前後左右から斬り込んだ。藩士は刀をふるい、同志たちの体は血に染まったが、膝をついた藩士に狂ったように刀をたたきつけた。
駕籠の周囲に警護する藩士は、一人もいなくなった。
鉄之介は、激しい乱闘がつづいているのに駕籠が置物のようにおかれ、扉もひらかれる気配がないのを不思議に思った。もしかすると、あらかじめ襲撃を察知して、中は無人なのか。
有村次左衛門と広岡子之次郎が、濠の方から駕籠に走り寄り、刀を突き入れるのを見た。
鉄之介には、駕籠でさえぎられて見えなかったが、有村が扉をひらいたらしく、うずくまって肩をしきりに動かしている。その動きに、やはり駕籠には井伊大老がいて、稲田の体あたりで致命傷を負い、外に出られなかったのだろうと、思った。
広岡は、有村の手もとを見つめていたが、急に有村が勢いよく立ち上った。顔も着物も血で染まっている。

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元悪ハ十分討留タリトモ、必ズ首級ヲ揚グベシ。
大老の体には太腿から腰にかけて弾丸が貫通し、これが致命傷となった。黒澤忠三郎が駕籠に向けて放つ短銃の発射音で残りの者が一斉に斬り込む手筈になっていたが、その最初の一発が命中したのであった。そのために大老は乱闘中も駕籠の外に出られなかった。このことは井伊家屋敷に遺体が運ばれ、彦根藩医の岡島玄達が調べた結果判明した。
ところで、藩主が自らの過失で死亡、または生前に跡目相続をせずに死んだ場合は、家名断絶という幕府の掟がある。今回の井伊直弼の死はまさにこれにあたり、井伊家はお取り潰しとなってしまう。
そこで老中安藤信睦は機敏な判断を下した。それは、彦根藩安泰のためにも、大老が死亡したことを隠し、負傷したことにしておいて、その間に跡目相続をして穏便に収めようとしたのである。


つづく・・・


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by kirakuossan | 2016-11-24 22:45 | ヒストリー | Trackback

桜田門外ノ変  ⑬

2016年11月23日(水)

吉村昭著「桜田門外ノ変」



安政七年三月三日は雪であった。牡丹雪が重なり合うように激しく降って、積雪は三寸ほどもあったというから季節外れの大雪であった。
総勢18名が愛宕山に結集、雪道の男坂を下って行く。左右に大名屋敷が立ち並び、新橋を渡って、やがて桜田門が霞んで見えた。さらに濠ぞいに進むと、西方向の濠ぞいの道の先に井伊直弼の広大な上屋敷のいかめしい門がかすかに見えた。


あたりは森閑としている。濠に動くものがみえるのは数羽の鴨であった。
桜田門の近くの濠端には、傘見世と称されている葭簀張りの茶店が二軒出ていた。
d0170835_9235746.jpgその付近は、登城する大名行列を見物する者たちでにぎわうので、それを見こんで、傘見世ではおでん、餅、酒、甘酒などを売る。ことに年頭と五節句には諸大名がぞくぞくと登城のため桜田門を入ってゆくので、必ず傘見世が出るのが常だったが、雛節句の日とは言え、大雪なので同志たち以外に人の姿はない。
鉄之介は、岡部とはなれて溝端に近づき、武鑑を懐から取り出した。二、三人ずつ散った同志たちも、大名行列見物をよそおって一様に武鑑を手にしていた。


この不意の大雪は吉なのか凶なのか。眼の前を尾張藩主の行列が通り過ぎていく。華やかな藩主の駕籠が短い橋を渡って桜田門の中に消えて行く。鉄之介はその行列を見ながら思った。一様に雨合羽を着ていて、動きが鈍そうである。不意をつかれて襲われるとなおさら動きにくそうである。それに雨除けのため、刀の鞘はみな羅紗の袋で覆われている。これも咄嗟の時にはすぐに刀が抜けないだろう。それをみて鉄之介は、自分たちに利があることを確信した。
しばらくして、やがて井伊家の屋敷の門がゆっくりと左右に開いた。


鉄之介は、不意に小刻みなふるえが体に起ったことに狼狽した。それは、所々に立つ同志たちの顔が例外なく血の色を失い、武鑑や傘がかすかにゆれているのを眼にしたからであった。舌で唇をしきりになめる者、すでに刀の柄をにぎっている者もいる。大事を前に、かれらは極度な緊張に襲われている。
落着くのだ、とかれは胸の中でつぶやいた。それは同志たちへの呼びかけであると同時に、自分自身へのものでもあった。
雪の中を粛然と行列が進んでくる。
供回りの徒士以上が二十数名、足軽以下四十名ほどであるのを、かれはたしかめた。鞍をつけた馬が、駕籠の後方に動いてくる。その背も雪に白くおおわれている。激しい降雪に、行列は白い紗をかけられたようにかすんでいた。
やがて、深い静寂の中で供揃えの雪をふむ足音がきこえてきた。
体のふるえがさらに増し、右手にした傘が音を立ててゆれはじめた。緊張にたえかねて前夜のとりきめも忘れた同志が、早くも抜刀して斬り込むような恐れにとらわれた。が、かれらは、石にでも化したように動かない。
供回りの徒士たちが近づいてきた。
霏々と降る雪に笠を前方にかたむけ、雪道に視線を落としながら雪をふんでくる。笠の下から白い呼気がみえていた。
二人の徒士が、鉄之介の眼の前をすぎ、その間に挟箱をかついだ小者が背を丸めて雪をふんでゆく。鉄之介は、徒士たちの刀の柄に黒い柄袋がはめられているのを見た。


鉄之介は口の中の激しい渇きを覚えながら行列の先頭に視線を向けた。桜田門の橋にむかうそのとき、一人の男が腰をかがめて近づいた。それはまちがいなく森五六郎であった。
突然、先供に乱れが生じた。



つづく・・・



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by kirakuossan | 2016-11-23 07:52 | ヒストリー | Trackback

桜田門外ノ変  ⑫

2016年11月22日(火)

吉村昭著「桜田門外ノ変」



「決行はいつ?」
関鉄之介は、金子孫二郎の顔に視線を据えた。
「三月三日」
金子が、即座に答えた。
大名の登城日は、年頭と五節句、それに定められた例日で、三月三日は上巳の節句で、井伊大老は必ず登城する。城に入る時刻は、四ツ(午前十時)までとされている。
三月三日といえば、明後日になる。
鉄之介は、大きくうなずき、
「襲撃場所は?」
「桜田門外」
金子が、鉄之介に視線をむけたまま答えた。
登城する大名は大手門または桜田門から入るが、井伊大老がいる彦根藩邸は外桜田にあり、行列は藩邸の門を出ると濠ぞいに東へ進み、桜田門から城内に入る。邸から門までの距離は短く、そこを襲撃場所に決定したという。
「襲撃の指揮は、関、お前がとる」
金子の言葉に、鉄之介は、一瞬、絶句したが、
「承知仕りました」と、張りのある声で答えた。

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ここで襲撃について5つの規約が定められた。

一、武監ヲ携へ、諸家ノ道具鑑定ノ体ヲ為スベシ
一、四、五人宛組合、互ニ応援スベシ
一、初メニ先供ニ討掛リ、駕籠脇ノ狼狽スル機ヲ見テ元悪ヲ討取ルベシ
一、元悪ハ十分討留タリトモ、必ズ首級ヲ揚グベシ
一、負傷スル者は自殺、又ハ閣老ニ至テ自訴ス。其余ハ皆京ニ徴行スベシ



一人ずつで斬り合うな、彦根藩士は武芸に長じた者ばかりだから、4~5人が束になって一人を攻める。そしてまず行列の先頭を進む者に突然斬りこめば相手は狼狽して、必ず駕籠から離れて先頭の方へ走るであろうから、この隙に手薄になった駕籠の側面から襲撃する。大老を殺害したあとは必ず首を打ち落とすこと。もし負傷すればその場で自害せよ。また軽傷の者は幕府に自首して、井伊大老討ち取りの意義を述べよ。無傷の者は一人残らず京に向って潜行せよ、といった規約である。ここで面白いのは、一番に挙げた、「武監ヲ携へ」という指示である。


武監とは大名武監で、須原屋などで出版され、各大名の氏名、本国、居城、石高、官位、家系、内室、家紋、旗指物などが記されている。
年頭または五節句には各大名が総登城し、その行列が大手門、桜田門にむかう情景は華やかなので、それを眼にしようと門外付近に集る好事家が多い、かれらは、供揃えをくんで近づく行列を、どこの大名かと武監でたしかめ、大名の乗る駕籠や諸道具を見るのを楽しみにしている。
襲撃する同志が武監を手にしていれば、大名行列を見物する者と考えて、井伊大老の従者も警戒しないはずであった。



いつの時代にも、こういったガイドブックみたいのがあって、もの好きな連中はこれを片手に、大名行列を興奮して見ていたのだろう。これには妙案と感心するとともに、思わず笑ってしまった。

そしてさらに具体的に総勢18士の役割分担が、鉄之介から指示が出た。
・大老の死を見届ける検視見届け役・・・岡部三十郎(43歳)
・斬奸趣意書を老中に提出する役・・・斎藤監物(39歳本人が執筆)
・先供に斬りかかる役目・・・森五六郎(剣術に長じた23歳)
・駕籠の両側から急襲する者
 右翼(お濠側)・・・佐野竹之助(21歳)、大関和七郎(26歳)、広岡子之次郎(20歳)、稲田重蔵(47歳)、森山繁之介(27歳)、海後磋磯之介(32歳)
 左翼(松平邸の塀側)・・・黒澤忠三郎(32歳)、山口辰之介(29歳)、杉山弥一郎(38歳)、増子金八誠(38歳)、蓮田一五郎(29歳)、鯉淵要人(51歳)、広木松之介(25歳)、有村次左衛門(23歳唯一の薩摩藩)
・短銃5挺を持つ者・・・関、斉藤、稲田、森、黒沢


鉄之介は、皆を見まわした。
「これで打ち合わせはすべて終った。明朝、六ツ半(七時)までに愛宕山上に勢揃いする」
緊張がとかれ、酒がはこびこまれた。
襲撃成功後、生きていた者は京へむかう。そのための旅費として、金子孫二郎から三両ずつが支給されていたが、潜伏中にそれに手をつけていた者もいた。
鉄之介は、一人一人に所持金の額をたずね、三両にみたない者には胴巻きの金を手渡した。
風がさらに強くなったらしく、雨戸がしきりに鳴る。
かれは、立ち上って別室に入ると、敷かれたふとんに身を横たえた。妻子の顔が、眼の前にうかぶ。襲撃の手筈は潜伏中にあれこれと練ったので、悔いはない。
かれは、眼をとじた。



この時、関鉄之介、35歳であった。



つづく・・・


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by kirakuossan | 2016-11-22 15:47 | ヒストリー | Trackback

桜田門外ノ変  ⑪

2016年11月22日(火)

吉村昭著「桜田門外ノ変」



1月25日は幕府邸の若年寄から老中に格上げになっていた安藤信睦が水戸藩に勅命書返納を命じた日であった。最終的に返納やむなきと慶篤が判断し、使いが江戸へ向かおうとするが、長岡宿に常駐する尊王攘夷の水戸藩士たちが道中をふさぎ妨害する。

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藩論は二つに割れた。
弘道館総裁会沢正志斉は、水戸家お取潰しの恐れありとして、ただちに勅命書を返還するよう主張し、あくまでも返納を阻止する長岡勢を武力征伐すべきだ、と斉昭に進言した。
これに対して元家老武田耕雲斎らは、返納に反対の立場をとった。
江戸からは急使いが相ついで水戸に、また、水戸からは家老らが返納の延期要請のために江戸へむかい、水戸街道は急使が重なり合うようにあわただしく往き来した。


そんな状況下にあって、御用人久木直次郎の暗殺未遂事件が惹起する。これは急進派の仕業とされ、会沢正志斉は、返納すべきと主張する重臣たちが次々に急進派に襲われることを危惧し、直ちに長岡勢を処分し、勅命書を返納することを重ねて建言する。この場に及んで事件に衝撃を受けた斉昭もついに長岡勢征伐を命じることになる。そして急進派を陰で操るとされた蟄居中の高橋、金子、さらに鉄之介らを禁固処分にして、長岡勢との絆を断とうとした。そしてただちに彼らに禁固を申し渡すべく、評定所への呼び出しをかけることになる。ここで禁固されれば、もちろん、すべての井伊直弼暗殺計画が頓挫することになる。それを避けるためには時間の猶予がない。


家の入口で案内をこう声がした。ふさが出て行く気配がし、訪れてきた者がすぐに家に上がったらしく、足音がして障子が開いた。
鉄之介は、思わず立ち上っていた。
親戚の石川信義であった。鉄之介は、石川の眼に険しい光がうかんでいるのを見た。
「評定所より私のもとに御用状があった。関鉄之介を召連れ出頭するように・・・と」
石川は立ったまま言った。
遂に来たか、と思った。やはり、高橋からの通報はまちがいなかったのだ。恐らく今に目付方の役人がここにもくるだろう。一刻の猶予も許されない。
「出奔する」
かれは坐ると、額の髪を剃刀で切った。
「脱け出すことなど出来はせぬ。必ず捕らわれる」
石川が口早に言った。
「なんの、恐るることなどありはしませぬ」
鉄之介は、部屋の隅に置かれた深編笠を手にして部屋の外に出た。
「後のことは、よろしく頼みます」
石川に顔をむけた鉄之介は、裏戸のかたわらに素速く近づき、外をうかがった。梅の植えられた狭い空地の彼方には、畠が広がっている。雪がちらついてきた。



その日の朝には関鉄之介以外にも、高橋多一郎、住谷寅之介、矢野長九郎、浜出平介らの急進派にも評定所から御用状が発せられていた。あらかじめ察知していた高橋は、早朝に家を抜け出し、同志の朝倉五郎衛門の家に身を隠した。
そして鉄之介は水戸から西への道を進み、笠間町にさしかかり、そして下館に入り、江戸に入ることに成功し、潜伏先である浅草龍泉寺町の遊郭に付随した茶屋岡田屋に着いた。
この場に及んで、鉄之介ら急進派は、幕府もとより同志水戸藩からも身を隠すこととなる。



つづく・・・



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by kirakuossan | 2016-11-22 10:41 | ヒストリー | Trackback

信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。


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