ホンマ!気楽おっさんの蓼科偶感

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「本居宣長」・・・ゆかりの地④

2016年4月17日(日)

d0170835_9292062.jpg山室に千年の春の宿しめて 風に知られぬ花をこそ見め     宣長

「松阪ちとせの森」の一角に本居宣長の墓がある。ちょうどそこへ向かう山道の入り口に大きな案内図が設置されているが、そこに書かれた宣長の歌である。見上げると真っ白な山桜が風にそよいでいた。
その下で、山から下りてきた3人ずれに偶然出逢った。赤塚邦代さん、杉本喜一さん、小野隆行さんの3人である。

明治から大正にかけて活躍した土居光華(1847~1918)というジャーナリストで、作家でもあった政治家がいた。生まれは淡路島であるが、三重県から衆議院議員として出馬、地元に貢献した。彼はまた、晩年に本居宣長を顕彰すべく山室山を桜の名所にしようと尽力した人物でもある。
お会いした3人は、土居光華の功績をたたえようと、彼にまつわる多くの書簡類などを集め、大がかりな調査活動を行ってきた人たちである。赤塚さんは光華のひ孫にあたり、方々に散らばっていた貴重な史料を取りまとめた。杉本さんはその重要な書簡文を要約解説した。そして松阪で工務店を営む小野さんは熱心なその支援者であった。14日の新聞にも大きく採りあげられていたが、その調査報告書がこのほど完成、松阪市教育委員会郷土史料室から発行したばかりで、宣長と同じ地に眠る土居光華の墓に報告して来た帰り道であった。

土居光華は政治を見据える優れた識見と先見の明を有し、深く幅の広い知識・教養に裏打ちされた名文家でありながら、(山下氏等も指摘されるように)今一つ不本意な生涯であったと思われる。遠慮の無い直言癖に見られる様に一本気な彼の性格は変幻自在な政界遊泳には或いは不向きであったかも知れない。しかし彼は最晩年まで中央の政治に重大な関心を抱く一方、本居宣長を顕彰すべく新吉野の計画に力を入れ、宣長の奥墓の近くに自らの奥墓も作られる事を望んだ。それは彼の尊王論からくる帰結であったのか。最晩年の彼の心に去来するものが何だったのか、今となっては泉下の彼にしか分からない。報告書論説あとがきより

d0170835_10164182.jpgこの報告書の史料編では、1882年(明治15)4月6日に、当時自由党総理だった板垣退助が岐阜で暴漢に襲われた事件について、側近の竹内網(吉田茂元総理の父)が報告した書簡や、自由民権運動家内藤魯一や孫文、あるいは尾崎行雄からの書簡など、多くの貴重な歴史的史料が報告されている。

この大切な史料を思いがけずに頂き、感謝するとともに、「失礼ですが、お孫さんにしては随分とお若いですね」と言うと、赤塚さんが「いや、ひ孫ですよ」「そうやわね、この新聞記事を読みながらうっかり”ひ”の字を洩らしてました」
皆で笑いながら別れた。まさに一期一会のひとときであった。
でも3人とも大きな仕事を成し遂げた、といった喜びがひしひしとこちらまで伝わってきた。
(2016年4月15日)


追記:
宣長のこの歌は、亡くなる1年前に門人たちとこの地に遊び、墓所を選定した時に詠ったものである。

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by kirakuossan | 2016-04-17 09:17 | | Trackback

「本居宣長」・・・ゆかりの地③

2016年4月16日(土)

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d0170835_21434997.jpg本居宣長(1730~1801)は、江戸時代の国学者と同時に、医者であった。松阪の木綿商小津家の次男として生まれる。兄が亡くなって家を継ぐことになるが、商売より医学に興味をいだき、22歳で京都へ遊学、医学・儒学・漢学や国学を学ぶ。契沖を慕い、儒学の師堀景山の影響もあって、荻生徂徠にも関心を持つ。京都には約5年ほど住み、勉学に励む。

「本居宣長先生修学の地」として京都市下京区綾小路通新町に塾跡の碑が立っている。ここは師堀景山の宅跡でもあって、医学は景山の弟子武川幸順から、古典は景山から直に教わり、契沖の万葉の研究と方法は宣長に大きな影響を与えることになる。京都から郷里松阪に戻り、28歳で開業することになる。(2016年4月14日)
昨日訪れた旧宅隣にある本居宣長記念館に、当時の医者の道具や診察の記録が丁寧に保存されている。宣長は相当に几帳面な人のようで、日記や整理表や診察記録などを見ればそのことがよくわかる。「久須里婆古」が面白いし、「済世録」にはこと細目に、日付・患者名・処方した薬、その量などが書き記されてある。
この記念館には、ほとんどの貴重な重文などが展示されており、『古事記伝』もガラス越しに見ることができる。
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d0170835_8132397.jpg(2016年4月15日)


つづく・・・.
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by kirakuossan | 2016-04-16 21:36 | | Trackback

「本居宣長」・・・ゆかりの地②

2016年4月15日(金)

松阪市殿町の松阪城跡内にある本居宣長の旧宅を訪ねた。
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本居宣長は12歳から亡くなる72歳までこの家に住んだ。医者であった宣長は昼は「店の間」で診察をし、「中の間」は待合室として使われた。そして一番奥の薄暗い部屋は「奥の間」と呼び、そこで弟子たちに講義をした。昼に往診にまわり、夕方帰ってから、町の人や、全国から訪ねてくる人々に『源氏物語』や『万葉集』を講釈した。そして皆が帰った後に、屋根裏を改築して作った二階の「鈴屋(すずのや)」と名が付いた書斎で『古事記伝』を書き続けた。玄関から入ってすぐの「店の間」から真正面に見える庭は、いかにも江戸情緒を彷彿させるものである。
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d0170835_21571791.jpg先に訪れた宣長の墓所。松阪の山室町にある妙楽寺、その寺の裏山にある。そこにたどり着くまでがかなり嶮しい山道を登っていくことになる。そしてようやく登りつめると視界がぱっと開ける。彼が遺言した山櫻は斜めになって、高さ30mは十分にあろうか、樹齢200余年の立派な姿を見せていた。ただ桜の花は一つもなく、もう散ってしまったのか?でも周囲を見渡しても散った桜の花びらは一枚も目にしなかったので、もしかすればこれから花開くのかもしれない。面白いことに、その斜めに太く伸びった木の下の方からまるで背丈でも測って植えたように、ちょうど墓石を覆うようにして新しい枝が茂っていた。山櫻をこよなく愛した本居さんもさぞかし喜んでいることだろう。
なお墓石の字は翁の直筆である。この丁寧に書かれた筆跡は、見覚えがあると思ったら、小林秀雄著の『本居宣長』の函に書かれた文字と同じものであった。
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山を下って来て、日当たりの良い広場に出ると、こちらは紅白の山桜が満開に近かった。
そして、ここで思いもよらぬ一期一会の出会いがあった。この話はまた後ほどに。


つづく・・・
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by kirakuossan | 2016-04-15 20:18 | | Trackback

「本居宣長」...ゆかりの地

2016年4月14日(木)

d0170835_11484572.jpg小林秀雄は、雑誌「新潮」から依頼を受けて、いよいよ永年の夢であった本居宣長について書きはじめることになる。しかし、宣長という謎めいた人物を書くにあたり、機が熟したかどうかは怪しいものであった。連載をどこから手を付けていいものやら思案している間に日が過ぎていった。ある朝、東京に出向く用事があって、鎌倉駅で電車を待ちながら、うららかな晩秋の日和を見ていると、ふと松阪に行きたくなり、大船で電車を降りて、そのまま大阪行きの列車に乗った。言うまでもなく、本居宣長は伊勢松坂の人である。

d0170835_11493448.jpg宣長は、墓は塚の上に芝を伏せ、随分固く致し、折々見回って、崩れを直せ、そして「植候櫻は、山櫻之随分花之野宜木を致吟味、植可申候、勿論、後々もし枯候はば、植替可申候」と遺言書に一等の山櫻を植えるよう自ら描いた画まで添え言い残した。これを小林秀雄は、宣長の人柄をよく現していて、彼の思想の結実であり、敢えて最後の述作と言いたい趣と考える。

これから『本居宣長』を読み始めるにあたって、小林秀雄と同じように小生も明日、松阪を訪れようと思う。目指すは、山室妙楽寺である。山櫻はもう散ってしまっただろうか。その前に、先に昼から京都へまず行っておこう。ここも宣長のゆかりの地である。



つづく・・・.
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by kirakuossan | 2016-04-14 10:34 | | Trackback

菅原道真公

2016年2月25日(木)

昌泰の変。菅原道真が大宰員外帥に左遷される。そのときの様子が『大鏡』の左大臣時平の章に書かれてある。では、『大鏡』に挑戦。

このおとどは、基経(もとつね)のおとどの太郎なり。御母、四品弾正尹人康(しほんだんじやうのゐんさねやす)親王の御女なり。醍醐の帝の御時、このおとど、左大臣の位にて年いと若くておはします。菅原のおとど右大臣の位にておはします。その折、帝御年いと若くおはします。左右の大臣に世の政(まつりごと)を行ふべきよし宣旨(せんじ)下さしめたまへりしに、その折、左大臣、御年二十八九ばかりなり。右大臣の御年五十七八にやおはしましけむ。ともに世の政をせしめたまひしあひだ、右大臣は才(ざえ)世にすぐれめでたくおはしまし、御心おきても、ことのほかにかしこくおはします。左大臣は御年も若く、才もことのほかに劣りたまへるにより、右大臣の御おぼえことのほかにおはしましたるに、左大臣やすからず思(おぼ)したるほどに、さるべきにやおはしけむ、右大臣の御ためによからぬこと出できて、昌泰四年正月二十五日、大宰権師(だざいのごんのそち)になしてたてまつりて、流されたまふ。

このおとど、子どもあまたおはせしに、女君達は婿とり、男君達は、皆ほどほどにつけて位どもおはせしを、それも皆方々に流されたまひてかなしきに、幼くおはしける男君、女君達慕ひ泣きておはしければ、小さきはあへなむと、おほやけもゆるさせたまひしぞかし。帝の御おきて、きはめてあやにくにおはしませば、この御子どもを、同じ方につかはさざりけり。かたがたにいとかなしく思し召して、御前の梅の花を御覧じて、
東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな

また、亭子(ていじ)の帝に聞こえさせたまふ、
流れゆく我は水屑(みくず)となりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ

なきことにより、かく罪せられたまふを、かしこく思し嘆きて、やがて山崎にて出家(すけ)、せしめたまひて、都遠くなるままに、あはれに心ぼそく思されて
君が住む宿の梢をゆくゆくとかくるるまでもかへりし見しはや

また、播磨国におはしましつきて、明石の駅(むまや)といふ所に御宿りせしめたまひて、駅の長(をさ)のいみじく思へる気色を御覧じて、作らしめたまふ詩、いとかなし。
駅長(えきちゃう)驚クコトナカレ、時ノ変改(へんがい)
一栄一落、是レ春秋



d0170835_18275166.jpg道真には子供がたくさんいたが、女男すべて方々に流された。なかには幼少の子がいたが、父を慕って泣いていたところ、道真は「小さい者は差し支えなかろう」ということで、連れていくのを許された。そのほかの子供たちはすべて違う方面に流された。このとき可愛がっていた梅を見て、道真が詠んだ歌が、有名な「東風吹かば~」。
やがて春になり、東風が吹くころになったら、おまえの懐かしい香りを、風に託して筑紫まで届けておくれ梅の花よ。主人がいないからといって、花を咲かす春を忘れるではないぞ。

また駅長が左遷する様子をみてたいそう嘆いているのを見て作った詩は・・・

駅長よ、そんなに驚くことはないぞ、時勢が変わり、今や私が配流(はいる)の身になって落ちていくことを。春に花咲き、秋に落ち葉が散るのは、自然の摂理、人の世の栄枯盛衰もまた同じものなのだから。
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ところで道真がなぜ配流の身になったかだが、諸説がある。ひとつは藤原時平による讒言とする説(醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀った)、そして宇多上皇と醍醐天皇の対立に捲き込まれたとする説など、いずれにしても道真の右大臣という破格の昇進に対して妬む廷臣が多くいたことは事実で、道真に引退して生を楽しむよう諭す者まで出るほどであったが、道真は聞き入れなかった。
こういうことはいつの時代も同じだなとつくづく思うし、かみさんに言わせれば韓国ドラマの筋書きとまったく同じだということになる。


また、雨の降る日、うちながめたまひて、
あめのしたかわけるほどのなければや着てし濡衣(むれぎぬ)ひるよしもなき

やがてかしこにてうせたまへる、夜のうちに、この北野にそこらの松を生ほしたまひて、わたり住みたまふをこそは、ただ今の北野宮と申して、現人神(あらひとがみ)におはしますれば、おほやけも行幸せしめたまふ。いとかしこくあがめたてまつりたまふめり。筑紫のおはしまし所は安楽寺と言ひて、おほやけより別当、所司(しょし)などなさせたまひて、いとやむごとなし。
内裏焼けて度々造らせたまふに、円融院の御時のことなり、工ども、裏板どもを、いとうるはしく鉋(かな)かきてまかり出でつつ、またの朝にまゐりて見るに、昨日の裏板にもののすすけて見ゆる所のありければ、梯に上りて見るに、夜のうちに、虫の食(は)めるなりけり。その文字は、

つくるともまたも焼けなむすがわらやむねのいたまのあはぬかぎりは

とこそありけれ。それもこの北野のあそばしたるとこそは申すめりしか。
かくて、このおとど、筑紫におはしまして、延喜三年、癸亥(みづのとゐ)二月二十五日にうせたまひしぞかし。御年五十九にて。

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道真が雨の降る日に詠んだ
雨の降り続く天の下一面は、乾いている所がないからであろうか、強いられたこの濡れ衣は、乾かし晴らしようがない・・・と。
ここで、北野天満宮が出てくるが、造っても造っても炎上する内裏から裏板に文字が浮かんだ。
内裏は幾度造り替えても、また焼けてしまうだろう。この無実の菅原の胸の痛みの傷口が合わぬ限りは。
このことは皆、この北野の神がなされたものだと人々は噂した。

こうしてこのおとど、菅原道真は筑紫に居たまま、延喜三年(903年)2月25日に亡くなった。享年59歳、配流の身になって僅か丸2年後のことであった。
道真が京の都を去る時に詠んだあの梅の香りが、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという。
894年に遣唐使の停止を建議した菅原道真は、翌895年には近江守を兼任することとなる。滋賀県にゆかりのあった人物でもあったわけだ。


『大鏡』は、平安時代後期に書かれた紀伝体の歴史物語(作者不詳とされるが、源顕房説がやや有力)
(梅の写真:2014年3月8日北野天満宮にて)
by kirakuossan | 2016-02-25 16:30 | | Trackback

無名の思想家の言葉

2016年1月15日(金)

岩手県盛岡市生まれで山を愛する牧師に太田愛人(1928~)という人がいる。彼が著したエッセイ『山麓の生活誌』が面白い。自分の生い立ちや若いころの思い出を語るところもよいが、著書の中にある「田園生活の系譜」という章を興味深く読んだ。
人間と自然の問題について多くの示唆に富んだ作品とし、社会学的に都市と農村の問題を提起するものとして佐藤春夫の『田園の憂鬱』を採りあげたあと、話題は島崎藤村に移る。

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詩人の同棲者は藁ぶきの田舎家の中で島崎藤村の『春』を読んでいる。藤村自身が青春の放浪時代にピリオドを打つつもりで信州の小諸に居を据えたのは明治三十二年四月であった。この小諸移住の動機として藤村は恩師木村熊二との出会いを挙げている。
「一つはまたそんな隠れたところに働いて居られた先生の田園生活に心ひかれたからである」。そして、自分自身の変革を小諸の地に期待しているのである。「もっと自分を新鮮に、そして簡素にすることではないか」とも書いているのが印象的である。
藤村は七年間小諸で生活し、自然描写を克明に記し、ラスキンの筆法に倣って『千曲川スケッチ』を書き、信州生活のかたみにしている。


ここに出てくる木村熊二は著者と同じく牧師で、妻とともに東京において明治女学校を創設する。たった24年の開校ではあったが、そこで藤村をはじめ、北村透谷や戸川秋骨らの若者が教壇に立ち、ほかに内村鑑三や津田梅子、さらには幸田露伴の妹で日本でのクラシック音楽の草創期のピアニストでもあった幸田延なども教鞭をとった。また木村熊二はその後、10年余であったが小諸義塾を開校した。その校舎はのちの小諸商業に引き継がれた。

d0170835_12213898.jpg著者は次に徳富蘆花に話を進め、「トルストイという巨人の生き方を日本において展開するために、蘆花は農の世界に没入していったのである。ある意味で、インテリにとって最も不得手な生活に挑戦する、と言ってもいいであろう。蘆花の文学の評価は時代とともに下がる一方であるが、それに反して蘆花の生き方や思想は現代も注目されつつある。一人の先駆者としての生き方がそこに見出されるからである」とする。
そして、話題は著者と同じく東北のひとりの無名の思想家へと移行していく。

昭和に入って、農村の不況が、一層都市への流出に拍車をかけ、やがて政治の渦を作り出して五・一五事件、二・二六事件の誘因となっていくのである。
こうした過程の中で、農に生活基盤を置き、都市から積極的に移住する人も少なくなかった。例えば、江渡狄嶺(えとてきれい)。大学出の江渡が自ら小作人の生活に入り、土からの視座をもって日本の社会を批判し、農業の行方を予言したことが、この頃になって評価されるようになってきている。父から勘当されながら、千歳船橋や高井戸に農地を求め、宗教的な背骨に支えられた生活は、蘆花がトルストイに魅せられたことを連想させられる。


青森県五戸町出身のクリスチャンで思想家江渡狄嶺(1880-1944)は、トルストイの影響で武蔵野に帰農し、実践と思想の統一を目ざし、宗教・哲学・芸術にわたる思索を行ない、晩年、「自己創造」と「自己充足」とを目標とするところの包括的思想である「場」の論に到達した。それは最後の「哲人」とも呼ばれ、「西田哲学を超えた百姓」「マルクスを超えた百姓」「絆の哲学」であると称された。

この人にこんな言葉がある・・・

「他の世界の理解がなく、自分の世界しか持たない人がある。
他の世界だらけで、自分の世界はチットも持たない人がある。
自分の世界はシッカと持ち、また、他の世界もシッカと理解している人がある。」


なにかとりとめのない話になったが、なぜか、江渡狄嶺の言葉が印象に残った。
by kirakuossan | 2016-01-15 10:28 | | Trackback

決してブレなかった男たち

2015年11月25日(水)

d0170835_11573236.jpgprincipleとは人が行動するための「根本方針」を指す。
白洲次郎はこのプリンシプルという言葉を大切にした。
「ブレない人間。そのためには自分の生き方の”軸”を持っていないといけない」 もっと解りやすい表現をすれば「何事にも筋を通す」というその精神。
今の日本の若い人に一番足りないのは勇気だ。「そういう事を言ったら損する」って事ばかり考えている。ここでの若い人というのは、今ではすべての日本人に当てはまるような気がする。

コーヒーはイタリアン・ローストで細かく深煎りしたものを好み、青山の紀ノ国屋でよく購入した。顔なじみだったコーヒー売り場の店員は、白洲の訃報を伝える新聞記事で初めて素性を知り驚愕するとともに「冗談好きで素敵なおじいさんだった」と語った。
この11月28日は白洲次郎の没30年にあたる。彼はまさにイタリアン・ローストのように苦みが強く,コクがしっかりと出た人間であった。

決してブレなかった人、それは古くは勝海舟であり、戦前戦後では保田與重郎(1910~81)であり、さらには小林秀雄(1902~83)、河上徹太郎(1902~80)、そして白洲次郎(1902~85)ではなかったか。

d0170835_1358888.jpg小林、河上、白洲はそれぞれ親しい関係にありまた同い年でもあった。河上徹太郎は白洲という男を「彼は一種の文明批評家、しかも実践的な文明批評家である。日本の政界、財界の“古い政治”をブチ壊してみたいといつも思っているのだろう」と評した。また小林秀雄の一人娘長女明子は、白洲次郎・正子の次男兼正の妻となり、この二人は後に姻戚関係にもなる。

そして白洲次郎は晩年、こうも言った。
夫婦円満でいる秘訣は何かと尋ねられて・・・「一緒にいないことだよ」と。
by kirakuossan | 2015-11-25 11:42 | | Trackback

「九転十起生」の女性実業家

2015年1月14日(水)

d0170835_20375522.jpgフレデリック・ショパンは1849年10月17日にパリで亡くなった。その翌日、しかし8時間の時差があるのでひょっとすれば同時刻ぐらいかもしれない、日本でひとりの女性が誕生した。明治を代表する女性実業家であり、教育者、社会運動家でもあった広岡浅子(1849.10.18~1919.1.14)。同じ日からしてまるでショパンの生まれかわりのような女性だ。
彼女は京都の油小路通出水で生まれ、20歳で明治維新を迎える。
1901年、52歳で日本女子大学校、のちの日本女子大学を設立、翌年、大同生命創業に参画した。彼女は奇しくも立命館を築いた二人とも関係が深かった。日本女子大学の設立発起人には私塾立命館を創設した西園寺公望も関わったし、一方、同じく立命館の創立者でもある中川小十郎は大同生命の創業などに尽力した。
1914年には避暑地として別荘を御殿場・二の岡に建設し、志ある女性を集めて勉強会を主宰する。そのなかに若き日の市川房枝や村岡花子らがいた。ペンネームは「九転十起生」、そして96年前の今日、「私は遺言はしない。普段言っていることが、皆遺言です」といって数々の功績を遺して世を去った。

d0170835_2130487.jpg今夕のNHKニュースで流していたが、その彼女の生涯をとらえた”朝ドラ”「あさが来た」 が9月下旬から放送を開始するとか。
普段はドラマを見ることはまずないが、最近では昨年春から放映された「花子とアン」だけは、珍しく時折見ることもあった。今度の広岡浅子を題材としたドラマもちょっと面白そうだ。
by kirakuossan | 2015-01-14 19:09 | | Trackback

『べルツの日記』 -5

2014年1月31日(金)
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(出典:NHK)


ドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツは、草津温泉を再発見し、世界に紹介した人物でも知られる。
彼は来日早々から日本の温泉の存在を知り、温泉の効能を医学的にも注目していて、とくに高く評価したのが強い酸性で雑菌が繁殖しにくい草津のお湯であった。
ベルツは、この草津温泉を何よりも愛し、日本で29年間滞在したなかで、何度もこの草津を訪れている。その時定宿にした旅館「一井」、今も湯畑のまえに姿を見せる。ついでだがその隣にあるのが「山本館」といって、ここも雰囲気のある老舗の温泉宿である。(自分も一昨年、この宿に世話になった)


明治三十七年
九月十九日
朝四時半頃、軽井沢を出発。大抵の兵士たちがもう目覚めていて、井戸や小川で手水を使うのに忙しかった。誰もかれも、丹念に歯ブラシを使っていた。わが国でも、農村の若い連中は毎朝、口をすすぐが、歯を磨くかどうか?
軽井沢から草津への道程は四十二キロある。この道を何度歩いたことか!それなのに今日は、この道程が初めて辛くなりそうだった。そこで急に、五十五の年齢を意識するわけである。この道が苦しいのは、山を上ったり下ったりして通じているせいも確かにある。しかしながら、日本中枢の山々を経ての旅路は素晴らしく―先ず日本最大の活火山浅間山のふもとに沿って、起伏のある草原を越え、次に小さい峠を経てマツ林を通り、ささやかな温泉場小瀬に向い、それから五時間は無人の境を往くのであって、小さいマツが辛うじて命をつないでいる、荒涼とした赤い溶岩の原であるが、それを通り越すと、今度は、カシやクリの立木がある。広々とした緑野で、ここは、その小川や樹木と共に、雄大な公園としての理想的な風景を形作っている。これを取囲む右側の山々は、大小様々の森林を有する広大な芝生の観を呈しているが、左側ではきげんの悪い巨人浅間が、すさまじい煙の雲を大空に吐き出している。

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草津には、無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、全く理想的な飲料水がある。こんな土地が、もしヨーロッパにあったとしたら、カルルスバードよりもにぎわうことだろう。<略>
草津は狭い盆地にある。初めてこの地を訪れた者には、日本の町というよりは、むしろチロール地方の村落が念頭にうかぶ。風雨で黒ずんだ木造の二階家は、周囲に縁側をめぐらし、往来に面して、正真正銘の枠組の破風があり、張り出した屋根、屋根板の上のおもしなど、一般にこの国では極めて珍しい風景を呈している。町の真中には、湯気を立てて猛烈に臭う、硫黄を含んだ熱湯の大噴泉がある。

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草津は、他のどこの温泉よりも、湯の温度が高く、入浴の度数が多い―摂氏四十六度ないし五十度で、毎日五回の入浴を通例とする。これを、少なくとも一ヵ月継続するのだ。凡そ二週間後には、大抵の入湯者の、皮膚の軟らかい箇所に、化膿性の発疹ができて、次第に広がってゆくが、これを「タダレ」と称する。それでもなお、入浴を続けなければならないのであって、これは、湯が強い酸を含んでいるため、苦痛である。引き続き入浴するうちに、発疹は再び良くなるが、後に患者が帰途、沢渡のアルカリ性の温泉で三、四日入浴すると、あらゆる痛みと烈しいかゆみが治まり、発疹はしごく簡単にいえてしまう。
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おしまい。
by kirakuossan | 2014-01-31 19:46 | | Trackback

『べルツの日記』 -4

2014年1月31日(金)
日本はロシアによる朝鮮半島の支配を防ぎ、日本の安全保障を守るため当時のロシア帝国との間で戦争が起きた。日露戦争である。1904年(明治37年)2月8日から約1年半にわたり繰り広げられたが、結局両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨むに至り、翌年の1905年(明治38年)9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。この時の様子を戦前からエルヴィン・フォン・ベルツ 『べルツの日記』では生々しく記されている。

明治三十六年
九月十五日
二ヵ月この方、日本とロシアとの間は、満州と韓国が原因で、風雲険悪を告げている。新聞紙や政論家の主張に任せていたら、日本はとくの昔に宣戦を布告せざるを得なかったはずだ。だが幸い、政府は傑出した桂内閣の下にあってすこぶる冷静である。日本が海陸共に勝った場合ですら、得るところはほとんど失うところに等しいことを見抜いているようだ。もっとも、この戦が避け難いものであり、日本人の考える如く、どの道一度は起こらなければならぬものとすれば、今が絶好の時機らしい。というのは、バルカンの紛争で、ロシアは相当大部隊の兵力を同方面に留め置くの余儀ない事情にあると伝えられているからだ。
露国近衛連隊の一士官と知合いになった。現在多数のロシア人が、自身を日本人に比べて、さほど無条件に優れているわけでもないと思っていることは注目に値する。くだんの士官は、ロシアが多分第一戦では敗北するだろうとすら自認した。そして「旅順ではすっかり包囲されてしまうが、満州ではゲリラ戦(?)で日本軍をくたくたに疲れさせることだろう」と。


九月二十五日
宮の下(箱根)へ向う汽車の中で、ハイカラな若い日本人に合う。語っていわく、民間の対露感情の激化はもう抑えきれない、政府は宣戦を布告すべきで、さもないと内乱が起る恐れがあるとか。「事実、天皇の位すら危ういほどです」と。こんな無責任な連中は気楽なものだ。ただ感情の赴くままに走り、このような戦争が極めて重大な責任を伴うことを全然念頭に置かないのだから。
日本の新聞の態度もまた懲罰に値するといわねばならぬ。時事や東京タイムスの如き最も名声ある新聞ですら戦争を、あたかも眼前に迫っているものの如く書き立てるのだ。交渉の時期は過ぎ去った、すべからく武器に物を言わすべし―と。しかしながら、勝ち戦であってさえその半面に、いかに困難な結果を伴うことがあるかの点には、一言も触れようとしない。
日英同盟に関しては全く音さたなしである。ジャパン・メイル紙はしつこく繰り返しドイツへほこ先を向け、読者の注意を日英同盟からはずそうと努めている。これには多数の日本人も、さすがに憤慨し出した。


十二月二十一日
政治的に一向カラッとしない空模様である。戦争はまずまず不可避だ。ロシアは日本をなめてかかっている。戦備は整えるし、韓国と清国では勝手気ままの仕放題という有様で、しかも一方ヨーロッパには、極めて平和的な報道をばらまいているのだ。
日本の株は、ロンドンにおいてすら、すべて下落している。だから、同地でも戦争を予想しているのだ。もちろんのこと、イギリスにすればこの戦争は、幾多の点で甚だ好都合である。ロシアは弱くなるし、日本も同様だから。


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(出典:NHK)


明治三十七年
二月五日
平和の見込みは、もはやなきも同然。ロシアは遼陽に兵力を集中し、続々と部隊を鴨緑江に進発せしめている。のみならず、アレキシェフ総督は、自己の判断により必要とあれば、直ちに宣戦を布告する全権を委ねられている、とすら伝えられている。もっとも、これは少々まゆつばものである。ロシアにすれば、日本の方から宣戦を布告させるのが、はるかに好都合だからだ。
昨日、宮中で、「重大な会議」があった。伊藤、山縣、松方、大山、井上の諸元老と各大臣が出席した。会議は長時間に及んだ。最終的の決定をみた模様である。事実、今が潮時だろう。何しろ英国から、あちらでは日本の眞の熱と力を疑い出したとの報道が、すでに来ているくらいだ。


二月六日
取引所の大暴落。大多数の株は、極めて堅い日本鉄道株の如きものまで、五分ないし八分かた下落した。多くの株は二ヵ月この方、二割五分も下落している!しかも戦争の起こる前に、すでにこの有様だ!戦争とはどんなものであるか、ましてやこのような戦争がどんなに金のかかるものであるかを、一たび日本人が見たり感じたりした暁には、一体どうなるというのだ!
陸、海軍の兵員は、訓練の修了後といえども、もはや除隊されない。市内の各区では、宿泊させる兵士の数が戸ごとに掲示されている。昨日、委員が自分のところへも来たが、しかしわが家は免除された!
秘密動員!
いよいよ最後の決定が近づいた!


二月七日
交渉決裂
戦争!
さあ戦争だ―ないしは、戦争も同然だ。
「日本側の再三にわたる厳重な督促にもかかわらず、いまだに何らの回答にも接せざるを以て、ここに日本は交渉を打切る!」旨、一咋夕、小林外相はローゼン男に通達した。


そしてついに開戦の火ぶたが切られた。
日露戦争の戦闘開始は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まった。
日本の指揮官は明治天皇の下、大山巌、黒木為楨、奥保鞏、乃木希典、野津道貫、川村景明、児玉源太郎、東郷平八郎。ロシア側の指揮官は、あの大津事件でのニコライ2世である。

ロシアは昔より不凍港を求め、南下政策を採ってきた。この戦争の動機もそれが一つであったロシアは、この敗北を期に極東への南下政策による侵略を断念した。その矛先は再びバルカンに向かうこととなる。このことは、同じくバルカンへの侵略を企てるオーストリア、ハンガリー諸国やドイツとの対立を招く結果となり、第一次世界大戦の引き金ともなった。


つづく・・・
by kirakuossan | 2014-01-31 13:52 | | Trackback

信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。


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