ホンマ!気楽おっさんの蓼科偶感

カテゴリ:偏見版「倶楽シック全集」(完)( 95 )

偏見版『倶楽シック音楽全集』-50② ショスタコーヴィチ

2015年10月28日(水)

d0170835_15554229.jpg【第100巻】20世紀最大の交響曲作曲家
ショスタコーヴィチ
 Ⅱ

彼は交響曲を15曲書いた。これはベートーヴェン以降、ドヴォルザークもブルックナーもシベリウスもそしてマーラーさえも成し得なかった数の多さである。それは大した偉業には違いないのだが果してそうだろうか。

ショスタコーヴィチ音楽の背景には常にスターリンの存在があった。スターリンが亡くなる1953年までに書かれた交響曲第10番までは自分の思うような音楽が作れなかったといっても良いと思う。それに対するレジスタンスは彼の心の中では抑えきれずに曲想に現れたと僕は見る。たとえば、第7番「レニングラード」の第一楽章、表題からして実に魅力的だが、内容はその逆で、最初から登場するあの単調な奇妙なリズムは政府を茶化しているように聞こえるし、ベートーヴェンやマーラーと肩を並べる記念すべき第9番のシンフォニーが僅か30分にも満たない、しかもこれも面白い主題で実に軽い音楽に仕上げてしまっている(これは先人がみな第9番で終わっているところから自分は終わらないように単なる通過点にするためとも言われるが・・・)
結論から言って彼自身の交響曲との決別は第6番の最終楽章であったと僕は思っている。この交響曲は第3楽章で終わっている。第3楽章が最終楽章なのである。それは決して尻切れではなく完結している。そこでジエンドなのである。
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第5番は「革命」の表題がついていてよく聴いたが、第6番はまったく知らない。初めて聴いたのは1973年5月21日、幻の指揮者エフゲニー・ムラヴィンスキーが手兵のレニングラード・フィルを率いて初来日した、京都での日本初公演であった。
その時、チャイコフスキーの第5番は勿論凄い演奏であったが、前半のプログラムのショスタコーヴィチ第6番の印象も負けず劣らず鮮烈であった。
僕の中にはそれ以来、ロシア音楽=ムラヴィンスキー=レニングラード・フィル=ショスタコーヴィチ第6番なのである。


交響曲第6番 ロ短調 Op. 54
サンクトペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団(旧レニングラード・フィル)
ユーリ・テミルカーノフ(指揮)


意外なのは1953年のスターリン没後、50歳を越えて書いた第11番以降の交響曲には彼の持ち味が逆に出なくなったことである。それは妻ニーナ、母ソーフィヤの相次ぐ死とも関連するのかもしれないが、より”暗く”、”晦渋”な作風へと移っていくようにみえる。第14番「死者の歌」なんて題からしてもいかにも陰鬱である。その証拠に、後半の交響曲は現在においてほとんどが注目されず、演奏の機会も極めて少ない。皮肉な言い方をすれば、スターリンがいたからこそ彼の音楽が存在しえたのかもしれない。


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d0170835_1715488.jpgこれで5年間書き続けて来た 独断と偏見の音楽史、偏見版『倶楽シック音楽全集』も、50人の作曲家による全100巻を迎え完結できた。
最後はロシアの作曲家ショスタコーヴィチで締めくくったがちょうどその完結祝いに合わせたかのように、先日ロシアへ旅行に行かれた小笠原さんからロシアのお土産を、今日かみさんが貰ってきた。拝謝。



交響曲第6番 ロ短調 Op. 54 最終楽章. Presto



~完結~
.
.
.

追記:
2016年2月18日(木)
気楽おっさんの『倶楽シック音楽全集』
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by kirakuossan | 2015-10-28 15:39 | 偏見版「倶楽シック全集」(完) | Trackback

偏見版『倶楽シック音楽全集』-50① ショスタコーヴィチ

2015年10月28日(水)
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【第99巻】20世紀最大の交響曲作曲家
ショスタコーヴィチ Ⅰ 1906~1975 ソ連

ブリテンが20世紀のイギリス最大の作曲家であればドミートリイ・ショスタコーヴィチは20世紀最大のソ連作曲家といえるだろう。また彼は特に交響曲作家としても名高く、マーラー、シベリウスに次ぐ大作曲家ともいえる。
1919年、ペテルブルク音楽院に若くして入学、ピアノと作曲を専攻した。1925年19歳で早くも交響曲第1番を作曲し世に認められた。2年後、第1回ショパン国際ピアノコンクールに出場した経歴も持つ。この時は同じソ連から出場した レフ・オボーリンが優勝、同じくグリゴリー・ギンズブルクが4位に入ったが、ショスタコーヴィチは選から漏れている。
作曲活動の方は順調に進み、西欧の革新的な音楽技法を駆使、舞台音楽を中心に多くの楽曲を作曲した。ところが交響曲第4番を書き終えたころ、『プラウダ』で批判を受け、自己批判を余儀なくされる。第5番以降は政府の求める「社会主義リアリズム」に沿った楽曲を発表することになる。皮肉にも彼の交響曲の中で最も高い人気があるのはこの第5番である。その後も「ジダーノフ批判」など紆余曲折があったが、一貫してソ連国内にとどまり作曲活動を行った。彼ほど時の政治に翻弄された作曲家はいないだろう。
よくショスタコーヴィチの音楽は暗いと指摘されるが、そういった政治的背景にあるのは当然と言えよう。でも彼にも明るく、愉しい曲も残されている。初めて聴いた時は、今まで聴いてきた彼の音楽とは正反対にあるもので少なからずカルチャーショックを受けたものである。

ジャズ組曲第2番

この曲は1938年、32歳の時に書かれた。プラウダ批判を受けた直後であったが、長女ガリーナが、次いで長男マクシムが生誕して家族に恵まれ、交響曲第5番の初演が成功、本人の名誉を回復された。翌年にはムソルグスキー生誕100周年記念祭の準備委員会の委員長となり、レニングラード音楽院で教授にも就任するなど人生の中でも一番充実していた時かもしれない。そんな幸福感が満ちた思いがする作品である。中でも第6曲ワルツ第2番は特に有名である。
by kirakuossan | 2015-10-28 12:02 | 偏見版「倶楽シック全集」(完) | Trackback

偏見版『倶楽シック音楽全集』-49 ブリテン

2015年10月28日(水)

d0170835_914926.jpg【第98巻】20世紀イギリス最大の音楽家
ブリテン 1913~1976 イギリス。
20世紀に活躍したイギリス最大の音楽家がベンジャミン・ブリテンである。ピアニストであり指揮者でもあった。彼の作品で直ぐに思い起こすのが「青少年のための管弦楽入門」であり、次に「戦争レクイエム」である。でもどちらも耳にしたことはまずない。
「青少年・・・」は「ピーターと狼」ではないが、最初から敬遠するし、「レクイエム」の方はちょっと聴いて、その暗さに埋没しそうになって途中でやめてしまう。


彼の作品の中で一番音楽を感じるのは室内楽である。それは、9歳の時に最初の弦楽四重奏曲を完成させるなど、幼い時期から音楽の才能を示していたとされるが、十分に納得のいくところである。ここに挙げる15歳に作曲したへ長調の四重奏曲は、少年ブリテンの意気揚々とした健康的な明るさと期待感に満ちている。

弦楽四重奏曲 ヘ長調

もうひとつは28歳の作品。青年ブリテンのちょっと構えた、悩み多き20代の香りがする新鮮な音楽である。

弦楽四重奏曲第1番 ニ長調 Op. 25


ブリテン自身平和主義者で第二次世界大戦の兵役を拒否してアメリカに滞在したために、戦後イギリスに戻っても英国王室から「サー」の称号を貰えなかった唯一の著名なイギリスの作曲家であったが、亡くなる直前の1976年には「サー」より上の「ロード」の称号(終身だが)を授与された。なお音楽家としてこの栄誉を受けたのはブリテンが初めてであった。長く栄誉を受け取れなかった背景には彼が同性愛者という事実もあったであろう。



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ところで2010年8月11日よりスタートさせた偏見版『倶楽シック音楽全集』もようやく終結を迎えようとしている。当初の<とりきめ>通り、全100巻、50人の作曲家で完結である。


2010年8月11日(水)
独断と偏見の「クラシック音楽全集」を立ち上げる。
<とりきめ>
①全100巻とする。
②1巻はCD72分に収まる範囲とする(全7200分-120時間-丸5日分)
③一応あらましの音楽史に沿って作成する。
④選定において交響曲等長いものは楽章単位でもよいこととする。
⑤選定基準は好き嫌いが優先する。
⑥音楽史上重要なものでも嫌いであれば省く。その逆もある。

⑦オペラは序曲もしくはアリアとする。


こうして振り返ると、①③⑤⑥の<とりきめ>は踏襲できた。
さあ急ごう、あと2巻。最後は50人目のショスタコヴィッチでうまい具合に締めくくりである。
by kirakuossan | 2015-10-28 08:02 | 偏見版「倶楽シック全集」(完) | Trackback

偏見版『倶楽シック音楽全集』-48 ガーシュウィン

2015年10月27日(火)

【第97巻】最もアメリカ人らしい音楽家
d0170835_14413396.jpgアメリカが生んだ”完璧な音楽家”と称されるジョージ・ガーシュウィン1898~1937 はポピュラー音楽とクラシック音楽の両面で活躍した。
貧しかった彼は独学で音楽を学んだが、後にラヴェルに教えを乞うが彼の才能を見てとり「あなたは既に一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要はないでしょう」とラヴェルが語ったというエピソードはあまりにも有名である。


d0170835_1522916.jpgなんといってもガーシュインの代表作といえばこの2曲につきる。ここではジャズの演奏でも定評のあるアンドレ・プレヴィンの演奏で挙げる。

ラプソディ・イン・ブルー
パリのアメリカ人
アンドレ・プレヴィン(ピアノ)
ロンドン交響楽団


「ラプソディー・イン・ブルー」はジャズとクラシックを融合させたいわば「シンフォニックジャズ」の作品として世界的に認められた。また、「パリのアメリカ人」は20代に過ごした活気あふれるパリでの印象を現した標題音楽である。
「ラプソディー・イン・ブルー」が初演されたのは1924年2月12日。ニューヨークのエオリアンホールでの「近代音楽の試みの夕べ」に集まった中にはストラヴィンスキーやヤンシャ・ハイフェッツなど著名な音楽家や批評家が多勢いた。大半が興味半分と冷やかし半分で集まったが、冒頭のクラリネットが鳴り出すや、その様相は一変した。ガーシュイン弱冠26歳の時である。
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さらにもうひとつ彼が遺した音楽で忘れてならないのが「ポーギーとベス」である。これはミュージカルの先駆的な存在として評価が高い。数多くのミュージカル、そして映画音楽や歌曲と、彼の才能は際限なく開かれた。彼はユダヤ系ロシアの移民の血を引いたが、アメリカで育った、最もアメリカ人らしい音楽家であった。
by kirakuossan | 2015-10-27 14:37 | 偏見版「倶楽シック全集」(完) | Trackback

偏見版『倶楽シック音楽全集』-47 レスピーギ

2015年10月27日(火)

d0170835_7355284.jpg【第96巻】イタリア古典主義の旗手
イタリアの作曲家を一人忘れていた。オットリーノ・レスピーギ 1879~1936イタリア。
レスピーギといえば、例のローマーの松と噴水と、それに祭り、と通り相場は決まっていたのだが、その名ほど意外と彼のことを本当はよく知らない。それで今回改めて「ローマ三部作」をしっかりと聴き直すことと、それ以外の作品にも初めて触れてみることにした。そこで再認識できたことは、なるほどといおうか、やはりというか「三部作」の魅力がどうも解らない。どれもそれほど心揺り動かす作品ではないということだ。


いくつかある管弦楽曲のなかで比較的よかったのは組曲「ロッシニアーナ」。どことなくユーモラスで、ところどころの美しいメロディが心を惹いたが、種明かしは、この原曲はロッシーニのバガテル「老いのあやまち」から採られている。ロッシーニが晩年に意に任せて書いたあのピアノ曲が編曲されているのだ。他にもバッハやラフマニノフ、グレゴリオ聖歌から採った作品も存在する。
彼独自の作品から挙げれば、鳥を模倣したバロック音楽で同名のバレエ音楽の原曲でもある 組曲「鳥」P.154が愉しい。それと古楽から採った3つの組曲からなる「リュートのための古風な舞曲とアリア」だろう。

d0170835_9563922.jpg当時、フランス六人組がウィーン古典派の軽やかさへの回帰をめざしたのに対し、レスピーギはイタリア古楽の復興を標榜した。彼はイタリア古典主義の旗手であったのだ。

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20世紀前半フランスで活躍した作曲家の集団「六人組」(左より:ダリウス・ミヨー、ジョルジュ・オーリック、アルテュール・オネゲル、ジェルメーヌ・タイユフェール、フランシス・プーランク、ルイ・デュレ)
オネゲルやプーランクなどもこの『倶楽シック音楽全集』に含めようかとも思ったが、そこまでには至らず、ここで紹介するにとどめる。
by kirakuossan | 2015-10-27 07:30 | 偏見版「倶楽シック全集」(完) | Trackback

偏見版『倶楽シック音楽全集』-46 プロコフィエフ

2015年10月26日(月)
d0170835_10354699.jpg【第95巻】社会主義リアリズムの音楽
イーゴリ・ストラヴィンスキーより一世代若い作曲家の一人にセルゲイ・プロコフィエフ 1891~1953 ロシア がいる。
彼ほど環境に大きく作用された作曲家も少ないだろう。ペテルグルグ音楽学校出身の彼は最初、極めて先鋭的な楽曲に手を染めた。革命後はアメリカに渡り、成功せずにのちにパリに居住するなどして西側諸国で20年の時を過ごす。
やがて40歳半ばで社会主義下のソヴィエトに帰国する。それ以降は国策に沿った音楽活動を続け、社会主義リアリズム音楽の作品を多く書くことになる。聴くうえで難しい音楽が多い中で、比較的叙情性やあるいは大衆性を併せ持ち聴きやすいのが「古典」の呼び名でよく知られる交響曲第1番だろう。この作品は革命の嵐が揺れ動くころ、1917年、プロコフィエフ26歳の時の作曲で、翌年初演を果たした直後に彼はアメリカへの亡命を決意する。そうした心中揺れ動く中で生まれた音楽で代表作の一つである。

交響曲第1番 ニ長調 「古典」 Op. 25

交響曲は7曲書いたが、大衆性からはほど遠く、第1番とは打って変わって第2番、3番は激しく静聴に堪えないし、第4番は冗長、第5番、6番、7番は意味不明に終わった。5曲のピアノ協奏曲やよく知られる組曲「3つのオレンジへの恋」Op. 33bisといった楽曲も残念ながら僕には着いていけない。
ピアニストでもあった彼が18歳で一番最初に作曲したピアノソナタ第1番ヘ短調。この最初のソナタからして彼の波乱万丈の人生を予感することが出来るのである。
戦後まもなくから10年余続いた前衛芸術(抽象的で晦渋な作風)の作曲家を非難する「ジダーノフ批判」のやり玉に彼もショスタコーヴィチ、ミャスコフスキー、ハチャトゥリアン、カバレフスキーらとともに名が挙がった。
そして1953年3月5日、皮肉にもスターリンが亡くなったその同じ日にプロコフィエフもこの世を去った。
by kirakuossan | 2015-10-26 08:44 | 偏見版「倶楽シック全集」(完) | Trackback

偏見版『倶楽シック音楽全集』-45 バルトーク

2015年5月28日(木)
【第94巻】新古典主義の音楽
d0170835_90185.jpgバロック、古典派そしてロマン派、印象派、現代音楽と実に様々な音楽に親しんでいるが、そのなかで僕にとって体質的にどうしても受け容れられにくい音楽がある。それはドビュッシーであり、シマノフスキであり、そしてもうひとつバルトークの音楽である。バルトークや、その弟子でもあるコダーイなどは祖国ハンガリーやルーマニアの民族音楽を長年研究して、それらを楽曲に取り入れたものも数多くあってどちらかといえば、そういった土着性の強い舞曲などの音楽は元来好きな方なのに・・・


バルトーク・ベーラ 1881~1945 ハンガリー。彼はバーンシャーグに生まれ、ニューヨークで没した。本人が「若い頃の自分にとって、理想はベートーヴェンだった」と回想しているようにドイツ・オーストリア音楽の強い影響から出発し、ブラームスの影響も受け、さらにリヒャルト・シュトラウスにひろがる。ただその後、ドホナーニの忠告もあって祖国ハンガリーの作曲家として生きる道を模索することとなり、方向転換を図ることとなる。

作品群はたいへん多岐にわたるが、彼の作品でもっとも有名なのは50歳代半ばに書いた「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」だろう。ほかに弦楽四重奏曲や声楽、ピアノ曲などハンガリーを謳ったものが多数あるが、これらのなかでもっとも好むのは最晩年の作品である「管弦楽のための協奏曲」である。音楽史的には新古典主義の流れを汲むと評されるが、いまだに何度聞いてもバルトークは難しい。僕にとって最後まで聞き通せるのはこの曲ぐらいだ。


管弦楽のための協奏曲 BB 123
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヘルベルト・フォン・カラヤン

交響曲のような規模を備えているが、彼自身の試みは、オーケストラの各楽器をあたかも独奏楽器のように扱ったり、tuttiと室内楽的アンサンブルが交錯するような楽曲構造をとったものであくまでも「協奏曲」と言う名が相応しいとされる。全5楽章から構成されており、その表題はバルトーク自身が付与した。
第1楽章 Introduzione(序章)
第2楽章 Giuoco delle coppie(対の遊び)
第3楽章 Elegia(悲歌)
第4楽章 Intermezzo interrotto(中断された間奏曲)
第5楽章 Finale(終曲)
by kirakuossan | 2015-05-28 11:00 | 偏見版「倶楽シック全集」(完) | Trackback

偏見版『倶楽シック音楽全集』-44 ストラヴィンスキー

2015年3月9日(月)
d0170835_10163676.jpg【第93巻】原始主義時代の音楽
ストラヴィンスキー 1882~1971 ロシア。
それは僕にとってはあまりにも衝撃的な音楽であった。今までモーツァルトやベートーヴェンに慣らされてきた耳が、一瞬我を疑った。42年前の2月のことだった。それと同じ衝撃、あるいはそれ以上の大きな衝撃を受けたのは、遡ることさらに60年、1913年5月のパリ・シャンゼリゼー劇場での聴衆であった。それは音楽の冒涜以外の何物でもなかった。「春の祭典」の初演、作曲者ストラヴィンスキーは当日その会場にいた。そしてこう回顧する。
私は、第4か第5列目の右手に座っていた。今では指揮者モントゥーの背中の方が舞台の光景より生き生きと心にのこっている。彼は、そこで見たところ、ワニみたいに無神経に、犯しがたく立っていた。彼が管弦楽をとにかく終りまでやりぬいたというのは、いまだに、いつもほとんど信じられない気がするくらいだ。猛烈な騒ぎが始まると、私は席にいたたまれなくなり、舞台の裏にまわった。

イーゴリ・ストラヴィンスキーは20世紀の芸術に広く影響を及ぼした音楽家のひとりである。生涯に、原始主義、新古典主義、セリー主義と、作風を次々に変え続けた。その中でも初期に作曲された3つのバレエ音楽がとみに優れ、知れ渡っている。「火の鳥」、「ペトルーシュカ」、「春の祭典」であるが、なかでも3番目に書きあげた「春の祭典」はもっともインパクトが強く、聴く者を圧倒する。この音楽は、複雑なリズムのクラスター、ポリフォニー、不協和音に満ちていて、聴衆は初見で「音楽の冒涜以外の何物でもない」と評した。

d0170835_10381831.jpgそんな恐ろしい音楽を、興味半分恐いもの見たさ半分でレコードを手にした。当時躍進著しい新鋭ピエール・ブーレーズがクリーヴランド管弦楽団を指揮した演奏で、レコードジャケットからして鮮烈な印象を持った。今ではさほどの驚きもしないが、20歳半ばに初めて接した音楽「春の祭典」、そしてこのブーレーズ盤、僕のクラシック音楽の視野を一気に拡げてくれた貴重な一枚であったことには変わりない。

1959年彼が77歳の時、N響を指揮するため日本を訪れ、1か月ほど滞在したことがある。その時、演奏会を行うまえに鎌倉や箱根を訪れ、そして京都へ入り、ここ石山寺にも参拝している。この来日時に当時の若手作曲家であった武満徹を見出して世界に紹介するきっかけともなった。
ここではこのような音楽はもっとも得意であろうと思われるラトル盤で聴いてみる。

バレエ音楽「春の祭典」
バーミンガム市交響楽団
サイモン・ラトル(指揮)
by kirakuossan | 2015-03-09 09:43 | 偏見版「倶楽シック全集」(完) | Trackback(1)

偏見版『倶楽シック音楽全集』-43② ラフマニノフ

2015年2月25日(水)

d0170835_22471552.jpg【第92巻】ロシア・ロマン派の旗手
ラフマニノフ :Ⅱ 
ラフマニノフの最大の作品といえば、出世作にもなったピアノ協奏曲第2番であることは議論の余地のないところである。これは彼に留まらず、ロシアのロマン派音楽を代表する曲の一つに数えらる。1901年、写真にある28歳の時の作曲。
自信喪失に陥り、創作不能の状態となって1899年にイギリスに渡ったラフマニノフは、ピアノ協奏曲の作曲依頼を受け創作を開始する。紆余曲折のあと、書きあげるが、この曲を通して数年間にわたるうつ病とスランプを抜け出すことが出来、あらゆる手を尽くしたニコライ・ダーリ博士に献呈された。
この曲は、映画「逢びき」に使われたり、フィギュアスケートでの定番曲になったりして、かえって曲の神秘性が脅かされるが、でもそれを乗り越えて聴くに堪える名曲といえよう。


ラフマニノフ:
ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 Op. 18
アンドレイ・ガヴリーロフ(ピアノ)
フィラデルフィア管弦楽団
リッカルド・ムーティ(指揮)
by kirakuossan | 2015-02-25 22:11 | 偏見版「倶楽シック全集」(完) | Trackback

偏見版『倶楽シック音楽全集』-43① ラフマニノフ

2015年1月15日(木)
【第91巻】ロシア・ロマン派の旗手
ラフマニノフ :Ⅰ 1873~1943 ロシア

d0170835_111948.jpgチャイコフスキー的な西欧ロマン主義に立脚した作風を見せたセルゲイ・ラフマニノフだが、そこには彼独自のセンチメンタリズムと抒情性が同居する。3つの交響曲を遺しているが、1895年に完成させた最初の交響曲第1番は、当時聴衆に受け入れられず、初演は大失敗に終った。それは相反する国民楽派の拠点であったペテルブルクで行われたために、モスクワ楽派のラフマニノフにとってはアゲインストの風が吹いたかもしれない。第1番初演の失敗後、そのショックで自信を失い神経衰弱に陥るが、でもラフマニノフはこの作品に終生愛着を持ち続け、いつかどこかで改訂して再び世に出したいと願っていたが、それも亡命などにより実現はしなかった。

ところがこの曲が再び蘇ることになる。作曲者没後の1945年、レニングラード国立図書館で初演の際のパート譜一式が発見されたのがきっかけとなって、スコアが復元され、アレクサンドル・ガウク指揮ソヴィエト国立交響楽団により復活初演され、大成功を収める。これを機にロシアにおけるラフマニノフの評価が再燃することになり、さらに3年後、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団によって演奏され好評を得たことなどにより、世界的に知られるようになったのである。
今こうして聴いてみると、彼が22歳の若い時に書いた初々しい第1番は新鮮な魅力に満ち満ちている。そして第3楽章の甘美なメロディーで有名な第2番を12年後に、さらにドラマティックで優美な3番目の交響曲はさらに30年後の63歳に書き上げることになるが、この初々しい第1番がもっとも好きである。
ただこれも演奏によってはずいぶん違いを見せ、凡演では魅力のない作品に終ってしまう。でも今聴いているヴァルター・ヴェラーの棒によると、音楽は完全に蘇るのである。

d0170835_1124179.jpgラフマニノフ:
交響曲第1番 ニ短調 Op. 13
バーゼル交響楽団
ヴァルター・ヴェラー(指揮)



1895年の初演後、彼の苦悩が癒されるまでには5年の月日が必要であった。そして自信を取り戻し、いよいよ彼の代表作であるあの数々のピアノによる作品を生みだすこととなる。
by kirakuossan | 2015-01-15 10:01 | 偏見版「倶楽シック全集」(完) | Trackback

信州の名峰蓼科山麓の女神湖近くの山荘"tutti”は標高1650mにある。これほどの高地にある別荘は日本でもそう多くはない。だから平地とは気温が10℃も違うのです。


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d0170835_9203688.jpgシマノフスカ:
夜想曲 変ロ長調

グリンカ:
歌曲「ひばり」

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