2018年 03月 18日
不思議な短編小説 |
2018年3月18日(日)
藤野厳九郎先生と青年・魯迅はわずか7歳ちがいである。
中国は弱国である。それゆえ中国人は当然低能児である。点数が六十点以上あるのは本人の能力ではない。彼らがそう疑ったのも無理はない。だが、わたしはつづいて中国人が銃殺されるのを参観する運命にでくわしたのである。~
この歓声は、一枚を見るごとにいつもあがったが、わたしにとっては、その声はとくに耳を刺すようにきこえた。その後、中国に帰ってきてからも、わたしは銃殺される罪人をのどかに見物している人たちを見たが、彼らはまたどうしてか酒に酔ったように喝采するのである。――ああ、もはや何をか思うべき。だが、そのときその場で、わたしの考えは変わってしまったのだった。
第二学年のおわりになると、わたしは藤野先生を訪ねていって、医学の勉強をやめ、そしてこの仙台を去りたいと思っていることを告げた。彼の顔には悲しみの色が浮んだようであった。何かいいたそうであったが、ついに何もいわなかった。~
出発する数日前、彼はわたしを自分の家に呼んで、一枚の写真をくれた。裏には「惜別」という二字が書いてあった。そしてわたしにも写真をくれるようにといった。だがわたしはそのときたまたま写真をとっていなかった。彼はあとで写したら送ってくれるように、また、ときどき手紙でその後の情況を知らせてくれるようにと、何度もいった。
「資治通鑑」に興味を持ち、1か月ぶりに図書館へ行くと、なぜか魯迅に関する書物が多く陳列されていた。中から、表紙に「阿Q正伝」「藤野先生」と大きな字で書かれた文庫本も一緒に借りてきた。
夜、寝る前に、短篇の「藤野先生」を読んでみた。ちょうど文庫本で10ページほどの、ごく短い小説だが、読み終え、妙な心もちになる。なんだろう? たったこれだけの、しかも他愛無い内容のものだが、不思議と心に残る。日本や中国では教科書になって読まれているという。
一通の手紙も一枚の写真も送らずじまいである。彼のほうから見るならば、一別以来杳として消息なしである。
だが、なぜか知らないが、わたしはいまでもときどき彼のことを思い出す。わたしがわたしの師であると思いをきめている人の中で、彼はもっともわたしを感激させ、わたしを励ましてくれた一人なのである。おりにふれてわたしはいつもこう考える。彼のわたしに対する熱心な希望、倦むことのない教えは、小にしていえば、中国のためであり、中国に新しい医学がおこることを希望してである。大にしていえば、学術のためであり、新しい医学が中国へ伝わることを希望してである。彼の人格は、わたしの眼の中と心の中において偉大である。彼の姓名は多くの人々の知るところではないかもしれないが。~
彼の写真だけはいまもなおわたしの北京の寓居の東側の壁に、机に向かって掛けてある。夜、仕事に倦み疲れて、なまけごころがおこってくると、いつも、顔を上げて、灯火のなかに、彼の黒い、痩せた、いまにも抑揚のひどい口調で話しだしそうな顔を眺めると、わたしにはたちまち良心がおこり、勇気が加えられるのである。そこで煙草に火をつけ、ふたたび「正人君子」の連中に深く憎まれる文字を書きつづけるのである。
(一九二六年十月十二日)
魯迅(1881~1936)は
中国の近代文学史にひときわ高く聳える存在であり、革命家でもあった。
by kirakuossan
| 2018-03-18 07:14
| 文芸
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