2014年4月18日(金)『フルトヴェングラー 生涯と芸術』
この書物は、著者猿田悳(さるた とく) 1926年茨城生れ、1951年東大独文科卒、現在慶応義塾大学助教授。昭和36年5月15日第1刷発行 発行所音楽之友社 ¥230 とある。
滋賀県立図書館に昭和36年8月19日に備え付けられ、最初の読者が昭和36年9月27日に借り出し、二人目が年が明けて翌37年1月16日、次がおよそ1年後の38年3月5日、その次が39年1月22日・・・とおおよそ年間に一人づつが借り出して読まれた歴史を刻む。そしてちょうど20人目の読者が51年2月10日に借り出して読まれた後、およそ15年にわたる現役を終え、お役目ごめんとなり、お蔵入りとなった。そして今回実に38年ぶりに、薄暗い埃をかぶった部屋から取り出されて陽の目を見ることになったわけだ。
こうした人間と書物の出会いは不思議なもので、なにか一つの運命みたいなものを感じてしまう。『フルトヴェングラー 生涯と芸術』(猿田悳著:音楽之友社刊)(昭和36年発行)
芸術フルトヴェングラーの芸術は、たしかに図式の一方に置かれるような意味をもっているが、高度な芸術作品を一様に呼んではならないので、まして音は言葉にならぬ。彼のヴァーグナーからラプトゥスだけを聞いてはなるまい。「エロイカ」を聴いてヒューマニズムだけに気をとられてもどうも確かでない。音楽の聴き方というのはどんなものなのか。考えているよりも容易なことではないように思える。うっかりすると娯楽にまで落ちこんでしまう。
フルトヴェングラーの音楽が気儘でも歪曲でもないことは今ではもう自明のことになっている。彼の様式が何もかもロマンティックではない、という意見も正しい。たしかなのは彼の気質はロマンティックだった、ということだ。そして芸術家の気質が作品において果す役割は決定的である。ここで「うっかりすると娯楽にまで落ちこんでしまう。」という一節に妙に心惹かれる。そうなんだクラシック音楽という芸術は”娯楽”ではなかったのだ。だから奥深く、ある時には他では経験できないような”恍惚”の世界に入り込んだりするのだ。この平易な言葉をいともたやすく真正面から言いきるところにこの著者の凄みがあるように思えるのである。この人はやはり只者ではなかったのだ。この辺りの文章が、実に感銘を与えられるようなところなので長いが敢て引用する。
運命とか、人間の存在の中にうごめく非合理な力とかいう時、「デモーニッシュ」という言葉がある。使いふるされた手垢だらけのような気がするのは、感覚が病的だからで、実は思うほど無用な言葉ではない。古人はこんな言葉を大切にした。ただ私たちがこの種の言葉に信頼がおけなくなってしまったのが病的なのだ。
ダイモニオンというギリシャ人の言葉は、別に不吉にも悪にも関係なく、ただ神々と人間との間に立つ精霊のようなものだった。ソクラテスが用いたのはむしろ私たちとは反対にもっぱら理性、良識といった意味だった。だがこれに今日のような意味をはじめてあたえたのは、外ならぬゲーテである。ゲーテはなるほど古典主義者と呼ばれるが、彼の生涯はこの奇怪な言葉との戦いだった。彼はこう考える。―自然や人生や歴史の奥底ではたらく、推測しがたい神秘な力、いつも矛盾の形でしか現われず、なんともさっぱり理性で名づけようもなく、善意であったり、悪意が見えたり、偶然のようでもあり、神の摂理のような因果を示したりする力。―
ゲーテ自身は自分の中にそんなものはないがそれに支配されている、という。彼がまさにデモーニッシュと感じたのは、ナポレオンやバイロン、音楽家ではモーツァルト、そして何よりもまずベートーヴェンだった。こんなデーモンに憑かれた人間に対しては畏敬の念を持たなくではいけない、というのはここには神が支配していて、未来の理解のために種を播くのである、などという。
これらのゲーテの象徴的な言葉から私たちは何もはっきりしたことをつかむことはできないだろう。ここは定義というほどのものはない。各人、頭の中で思い思いに想像してみるよりほかはない。話は変わるが、フルトヴェングラーは2200回のコンサートで1045回のベートーヴェンを上演したとされている。これはある意味異常な数字としてとらえることができようが、ただ聴衆が嗜好しただけでこれだけのものを披露したとは考えにくい。彼の真意はどこにあったのだろうか。
彼が引用したゲーテの言葉を加えておくべきだろう。「もし誰か私に何事かを訴えることがあるとするなら、それは明確で、単純であって欲しい。疑惑的なものは私自身の内心にありあまるほど持ち合わせているのだから」
彼はこう言いたいのだ。ベートーヴェンが、いわねばならぬことをできるだけ簡潔に表現したこと、表現の透明さと明瞭さに常に飽きを知らぬ努力をかたむけたことを、彼が聴衆の前に誇り高い孤高の芸術家としておごろうともせず、見てくれがしの自負もなく、むしろ即物的な仕方で常に聴衆のためにできるだけ明白に表現しようとしたこと、聴衆をすぐれた共演者と考え、むしろ完全な聴衆を要求したこと、そのために彼の作品の正しい演奏はある一つの信仰教会のごときものを創り出したことを伝えようとしているのである。フルトヴェングラーが、その「ベートーヴェンと私たち」という51年の論文を結ぶに当って、「歓喜の歌」から「兄弟よ・・・」をベートーヴェンが歌うとき、それは説教者の言葉でも、デマゴーグの言葉でもなく、彼が生涯かけて生きて来たものだ。これこそ今日人間が彼の歌に感動する理由を成すであろう、と記すとき、私たちは結局、平凡な、ほこりのまみれたヒューマニズムという言葉に返って行く。ベートーヴェンの曲がいくら多いといっても、それも必ずしも全曲をまんべんなくというようなことではなかったようだ。はじめのうちは「第3」と「第5」の大作をとりあげることが多かった。後年には「第4」も頻繁に演奏するようになり、「第6」についても25年以降に初めて顔を出すことになる。
彼が限られた数曲に何年かを打ち込んでともに過す習慣を思えば、むしろ大作に対する努力だけを見るべきだろう。数年打ち込んで、しばらくまた放棄して手を触れぬ、という仕方は彼にその曲の新鮮さを保たせるのに役立ったようである。数少ないレパートリーで、たとえばベートーヴェンの二、三の主要なシンフォニーと「ティル・オイレンシュピーゲル」と通俗曲二,三という程度でシーズンに入り、それをベルリーンでも、ヴィーンでもライプツィヒでも或は旅行の折も取りあげて振る、という習癖がある。そしてまた数年放棄しておく。彼の表現をかりれば、「手もなくやる」というのを何よりも怖れたのである。著者が調べあげた数字がある。「フルトヴェングラーが指揮したベートーヴェンの曲」だが、
一番多いのが「第5番」で148回、次に「第7番」で130回、以下、「第3番」(88回)、「第1番」(77回)、「エグモント序曲」(72回)、「第6番」(66回)、「第9番」(61回)、「レオノーレ第3番」(57回)・・・と続く。「第4番」は41回、「第2番」にいたっては23回しか振っていない。
それにさらに興味深い数字を挙げている。「1940年までの30年間にとりあげた作曲家」であるが、前述のように全2200回のうちベートーヴェンが断トツに多い1045回であるが、次に多かったのが、約その半分の519回のブラームス、その次がシュトラウス(もちろんリヒャルトの方だろう)の320回、そしてヴァーグナーの319回、以下、ハイドン200回、モーツァルト173、シューベルト171回、シューマン164回・・・となっている。凡そイメージ通りだが、あらためて思い出すのは、フルトベングラーはバッハは振らなかったな、ということだ。157回に留まり、ブルックナーも意外に少なく、153回で第10位であった。
2200回のうち、ほぼ半数に達する、ベートーヴェンと、バッハ、モーツァルトの示す数字とはややおどろきを禁じえぬ。ベートーヴェンを不用意にロマン派呼ばわりするのは、彼の師ヴァルター・リーツラーのいましめるところであり、彼自身も論稿で否定的ないい方をしているが、もし多様な意味づけを許されるならこの数字は彼のベートーヴェン像を示すものであり、両者を結ぶのはロマン的充溢だと呼んで差支えあるまい。「エロイカ」より「第五」が倍近い数字だというのは、トスカニーニのその反対の数字とともに、私たちのフルトヴェングラー像とは抵触するものだ。「第一」が4番目に位し、偶数番をことごとく合せても「第五」一曲と大差ないのも、或はまたあの美しい「第二」が最下位に置かれるのも意外である。なぜ「第一」に劣るのか。ハイドンがモーツァルトを凌駕していることがその解答になるのか。暗示は多様だが危険である。