2017年 08月 23日
子規が愛した俳人 |
2017年8月23日(水)
夏菊は貧にして且いさぎよし 紅緑
子規門下の四天王と言われた俳人に、高浜虚子、河東碧梧桐、石井露月、佐藤紅緑がいる。
そのなかでとりわけ正岡子規が目を掛けたのは紅緑である。虚子は今までに何度か書いたが、なにか世渡り上手に映り、人物的に好きではない。師である正岡子規を後に「子規」と呼び捨てたり、夏目漱石とは格があまりにも違うにもかかわらず、自分と同一視するような横柄なところが感じられる。誰か現代の偉い人が云っていた。「人間的には嫌な奴だが、でも俳句は上手い」と。
紅緑は子規を「先生」と呼ぶようになったのは、明治28年(1895)、紅緑21歳のときである。それ以降、子規の没後も、必ず「子規先生」と呼び、決して「子規」と呼び捨てなどすることはなかった。ここに紅緑の人となりをが窺えるのである。
ところがそんな紅緑が20歳代半ばに大隈重信の進歩党に入党したり、自ら青年急進党なるものを立ち上げ、政治へのかかわりを深めていく。それを子規は「俗界の紅緑」と呼んだ。
商売の片手間に俳句をやる人がある、悪いとは言はないが純真の態度とは言えない。また俳句を以って口に糊している者もある。これも悪いとは言えないが、口に糊するだけでそれ以上に開拓する努力を怠れば、それは論外だ。
子規は「紅緑は俳句と生活とを一にしようとしている。恐らくは俳句は拙くなるだろうが、生活は善くなるだろう」
一方、紅緑自身は自らを「凡中の凡で、野心家で、浪費家で、傲慢で不節制で享楽主義者」と自虐的に分析する。
酒のめば悲しのまねば秋の暮 紅緑
子規が愛したのはもちろん「清浄無垢」の「俳句の紅緑」であった。しかし、「俳壇を去ることが私の取るべき道」と紅緑は結論を出す。そして彼は人気作家への道を歩んでいく。「少年小説」の分野で昭和初期に圧倒的な支持を受け、大ヒットした小説『あゝ玉杯に花うけて』が生まれる。
参考:『佐藤紅緑 子規が愛した俳人』(復本一郎著岩波書店刊)
何でまた急に聞いたこともない俳人佐藤紅緑の話か?ということだが、実は今日、図書館に陳列されていたこの書物が偶然目にとまり借りて来ることにした。
なお余談だが、紅緑と先妻との間に詩人サトウハチロー、二人目の妻女優三笠万里子との間には作家の佐藤愛子がいる。
by kirakuossan
| 2017-08-23 21:58
| 文芸
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