2017年 06月 19日
本物の柿の種の色に近い「柿ピー」 |
2017年6月19日(月)
昨日娘が送ってくれた「柿ピー」がこの船橋屋織江のものだ。昭和8年創業の手焼き煎餅屋で、ここの花吹雪というピーナッツの入った昔ながらの煎餅は抜群に美味い(前に娘から貰ったが)。
柿ピーのことは知ってますよね?ぴりっと辛い柿の種と、ふっくらと甘い香りのあるピーナッツが混じっていて、それをうまく配分し、組み合わせながら食べていく。誰が考えたのか知らないけれど、よく思いついたよね。ちょっと普通では考えつかないとりあわせだ。考えついた人にノーベル平和賞をあげたいとまでは言わないけれど(たとえ言っても相手にしてくれないだろうけれど)、卓越したアイデアだと思う。
柿の種が漫才でいう「つっこみ」なら、ピーナッツは「ぼけ」にあたるわけだけど、ピーナッツにはピーナッツの洞察があり、人柄があり、ただの頷き役では終わっていないところがよい。柿の種のつっこみをさらっと受けて、鋭く切り返すこともある。
柿の種はそのへんを承知の上で、自分の役割を意識的にいくぶん過剰に演じている。まことに絶妙のコンビというべきか、あうんの呼吸がとれている。
だから、と言いわけするのではないけれど、ビールを飲みながら柿ピーを食べていると、きりがないですね。気がつくと一袋空になっていたりする。それにあわせて(喉が渇くから)ビールもついつい飲んでしまう。困ったものだ。こうなると、ダイエットも何もあったものではない。
ただそのように優れた食品である柿ピーにも、問題がまったくないわけじゃない。そのひとつは「他者が介入してくると、柿の種とピーナッツの減り方のバランスが狂ってしまう」ことである。たとえばうちの奥さんはピーナッツが好きなので、一緒に食べると、柿ピーの中のピーナッツばかりが一方的にぽりぽり食べて、その結果柿の種だけが余ってしまうことになる。僕がそのことで文句を言うと、「だって、あなたは豆類ってあまり好きじゃないじゃない。柿の種が多い方がいいんでしょう?」と言い返される。たしかに僕はピーナッツよりは、柿の種の方が好きだ。それは進んで認める(僕はだいたいにおいて甘いものより辛いものの方が好きなのだ)。
でも柿ピーを食べるときには、僕は自分の内なる欲望をできる限り抑え、柿の種とピーナッツをなるべく公平に扱うように努めている。自分の中に半ば強制的に「柿ピー配分システム」を確立し、そのとくべつな制度(レジーム)の中に、偏屈でささやかな個人的喜びを見いだしているのである。世の中には甘いものと辛いものがあって、両者は互いに協力しあって生きているのだという世界観を、あらためて確認する。しかしそんなややこしい精神作業をよその人に理解してもらうのは、正直言って大変に面倒だ。だから「いやあ、まあそうなんだけど・・・」と口ごもりながら、いじいじ柿の種ばかり食べている。
うーん、一夫一妻制ってむずかしいんだよね。今日も柿ピーを食べながら、つくづくそう思う。
村上春樹著『村上ラヂオ』より「柿ピー問題の根は深い」
作家村上春樹氏は大磯の住人である。昭和の終わりころから東京より移り住んで来た。JR大磯駅近くに邸宅があると、たしか以前大磯に住む娘から聞いたことがある。そんな村上氏の小説の中で、よく大磯が出てくる。たとえば『夢のサーフシティ』がそうだが、ほかにエッセイ集の『村上ラヂオ』にでてくる「柿ピー」の店も彼のお気に入りの店で、「大磯の国道沿いにある「船橋屋」というお煎餅屋さんの柿ピーはなかなかおいしいですよ。柿の種のつやがよくて、ピーナッツが香ばしく新鮮です」とあちこちで紹介しているらしい。
昨日娘が送ってくれた「柿ピー」がこの船橋屋織江のものだ。昭和8年創業の手焼き煎餅屋で、ここの花吹雪というピーナッツの入った昔ながらの煎餅は抜群に美味い(前に娘から貰ったが)。
「柿ピー」の柿の種の色艶がよく、そういえば本当の柿の種の色に近い。それに、じーちゃんとばーちゃんが店を切り盛りしているそうで、「柿ピー」の袋、表と裏でシールが逆に貼ってあるのもこれまた愛嬌だ。
by kirakuossan
| 2017-06-19 15:45
| 文芸
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