2017年 05月 24日
「文学温泉紀行」 7日目 |
2017年5月24日(水)
元湯泉薬湯は6:00から開いている。
笑顔で「夕べはよく眠れましたか?」と・・・
番台には長命館の女将さんが坐っている。
5分前に行ったのにもう先客が数名雑談をしていた。今朝も熱かった。足の先がじんじんとくる。
泉温:49.7℃、泉質:ナトリウム・塩化物泉
日本の百名湯~温泉津温泉
松田忠徳
日本海に面した温泉津は、リアス式海岸の美しい入り江の奥に港を持ち、江戸時代には石見銀山の銀の積み出し港として栄えた。
温泉津港の東に石見銀山が発見されたのは鎌倉末期。関ケ原の戦いの後、徳川家の天領となり、海外にも輸出されるなど、石見の銀は江戸幕府三百年の財政を支えた。廃鉱になったのは大正十二年(1923)。最盛期には周辺に二十万もの人口を抱えたという。その後、山陰本線の開通もあって、港の方は寂れる一方であったが、温泉津のもうひとつの顔、湯の町の方のにぎわいは途絶えることはなかった。
承平四年(934)ごろ成立した百科事典的な『倭名類聚抄』に「温泉津」の地名が記されている。「温泉(ゆ)という小村にある津(みなと)」という意味である。温泉津温泉「元湯」を経営する伊藤家に残る『温泉記』によると、温泉津の発見は七世紀にまでさかのぼるから、山陰でも有数の古湯なのである。
湯治場の風情を色濃く残す温泉街が、旧銀山街道沿いに五、六百㍍続く。大正か明治時代にでもタイムスリップしたような、渋いモノトーンの街並みである。
狭い通りに石州瓦の小さな温泉宿が十五軒前後、軒を連ね、その間に土産物屋、瀬戸物屋、古刹、共同浴場などが点在する。
北海道や東北の古い屋敷で現在でも見かける、その昔「はんど」と呼ばれていた飴色の大きな水がめは、四百年の歴史を刻む温泉津焼で、ここから北前船で運ばれたもの。かつてはここに回船問屋や商家が軒を連ねていたのであろうが、なまこ壁の内藤豪商屋敷がかろうじて往時の面影を今に伝えているだけだ。
温泉街に二軒の共同浴場がある。明治五年(1872)の浜田地震によって湧き出したサビ色の「藤乃湯」もいいが、やはり温泉津の元祖「元湯」がピカ一だ。老舗旅館「長命館」の経営者でもある伊藤家の先祖伊藤重佐が「元湯」が元湯を開いたのは室町時代。弘治元年(1555)重佐は広島の毛利元就の子、元康によって湯主に命じられた。以来、現館主、伊藤昇介氏で十九代目。
長命館の外湯でもある元湯はいぶし銀の見事な風呂だ。鉄分と炭酸ガスを含んだ含土類食塩泉は、見るからに”温泉力”があった。泉源からわずか一、二㍍、源泉一〇〇%の新鮮な湯が、年季の入った湯船から惜しみなくあふれる。もちろん自然湧出の、理想的な風呂だ。
「旅館は温泉に来る人の宿泊施設。本来、主役は温泉そのもの。ところが今は施設、料理が主で、温泉は二の次」一九代目。厳しいが名言であろう。
(作家・札幌国際大教授)
昨日行くだった予定の石見銀山を今朝訪問した。知らなかったが、銀山の坑道を観るだけでなく、武家屋敷や町家、あるいは代官所ゾーンなどもあって、これらをみな歩いて見て回ると6~7kmにも及び、3時間ほど費やしてしまった。こんな調子だから昨日の夕方ならとてもじゃないがゆっくりと観られなかっただろう。
本因坊文裕が挑戦者本木克弥八段に白番中押し勝ちしたようだ。
by kirakuossan
| 2017-05-24 05:49
| 文学温泉紀行
|
Trackback