2017年 03月 05日
「文学温泉紀行」準備編⑪ 鳥取の温泉 |
2017年3月5日(日)
「文学温泉紀行」
島崎藤村に「山陰土産」という紀行文がある。そのなかで大阪を発ってから途中滋賀辺りを通り、若い頃のことを思い出し、瀬田や石山を回顧する場面が冒頭に出てくる。
朝曇りのした空もまだすゞしいうちに、大阪の宿を發つたのは、七月の八日であつた。夏帽子一つ、洋傘一本、東京を出る前の日に「出來」で間に合はせて來た編あげの靴も草鞋をはいた思ひで、身輕な旅となつた。
こんなに無雜作に山陰行の旅に上ることの出來たのはうれしい。もつとも、今度は私一人の旅でもない。東京から次男の鷄二をも伴つて來た。手荷物も少なく、とは願ふものの、出來ることなら山陰道の果までも行つて見たいと思ひ立つてゐたので、着更へのワイシヤツ、ヅボン下、寢衣など無くてかなはぬ物の外に、二三の案内記をも携へてゆくことにした。私達は夏服のチヨツキも脱いで、手提かばんの中に納めてしまつた。鷄二は美術書生らしい繪具箱を汽車のなかまで持ち込んで、いゝ折と氣にいつた景色とでもあつたら、一二枚の習作を試みて來たいといふ下心であつた。畫布なぞは旅の煩ひになるぞ、さうは思つても、それまで捨ててゆけとはさすがに私もいへなかつた。かうして私達二人は連れ立つて出かけた。汽車で新淀川を渡るころには最早なんとなく旅の氣分が浮んで來た。
關西地方を知ることの少い私に取つては、ひろ/″\とした淀川の流域を見渡すだけでもめづらしい。私も年若な時分には、伊賀、近江の一部から大和路へかけてあの邊を旅したことがあつて、殊に琵琶湖のほとりの大津、膳所、瀬田、石山あたりは當時の青年時代のなつかしい記憶のあるところであり、好きな自然としては今でもあの江州の地方をその一つに思ひ出すくらゐであるが、それから三十年あまりこのかた、私の旅といへば、兎角足の向き易い關東地方に限られてゐた。私は西は土佐あたりまでしか知らない。山陰山陽方面には全く足を踏みいれたことがない。山陰道とはどんなところか。
「山陰土産」は、城崎に始まり、香住、浦富海岸、鳥取、三朝温泉、そして松江から津和野へ出る紀行文が綴られる。この中で三朝温泉に触れた箇所が出てくる。
雨を衝いて二里ばかりの道を乘つていつた。次第に山も深い。川がある。橋がある。三朝川は私達の沿うて上つて行つた溪流だが、いつの間にか河上の方から流れてくる赤く濁つた水を見た。
三朝川は前を流れてゐた。私達は三朝温泉の岩崎といふ旅館に一夜を送り、七月十三日の朝を迎へて、宿の二階の廊下のところへ籐椅子なぞを持ち出しながら、しばらく對岸の眺望を樂しんで行かうとした。雨もあがつて、山氣は一層旅の身にしみた。河の中洲を越すほど溢れてゐた水もいつの間にか元の瀬にかへつた。こゝで聽く溪流の音はいかにも山間の温泉地らしい思ひをさせる。河鹿の鳴聲もすゞしい。ゆふべは私は宿の女中の持つて來て見せた書畫帖の中に、田山花袋君の書いたものを見つけてうれしく思つた。大正十二年この地に遊ぶとある。さうか、あの友達もこの宿に泊つて旅の時を送つて行つたのかと思つた。
大正十二年といへば私達の忘れられない年だ。おそらくあの友達がこの地に遊んだのは、東京へ震災の來る前の夏のことであつたらう。あれから最早かなりの月日がたつ。私達の眼にある三朝川、白く黄ばんだ土手の上の趣のある道、兩岸に相對する温泉宿、これらの眺めはあの友達の來て見たころと同じやうであらうか。そこの河原へは鶺鴒が來た、鮎を釣る男も來た、こゝの橋の下へは村の娘達が無心なまるはだかで水を泳ぎに來た。と私達は眼にあるものを指していふことも出來たけれど、あの友達の來て見たころはこれよりもつと野趣のある土地であつたらうか。温泉地としての三朝の發展は十數年このかたのことと聞く。三徳山行の參詣者達のために昔風の温泉宿があつた以前のことに比べると、今の三朝は別天地の觀があるともいふ。こゝは諸方から入り込む浴客を相手としての温泉宿と商家と、それから周圍に散在する多くの農家とから成り立つ。温泉地としての三朝の經營は、温泉宿や商家の負擔であるばかりでなく、農家の負擔でもある。そこから村の惱みも起ると聞く。村の人達の間にはまた土地の強い執着があつて、たとひ他から來て別莊でも建てようとするものが、坪百圓で地所を讓り受けたいといひ出しても、頑としてさういふ相談に應じないといふ話も聞く。三朝は將來どうなつてゆくのか。温泉地としての城崎を熱海あたりに比べていいものなら、こゝは箱根あたりに近いところにでもなつて行きつゝあるのか。
第8日
5月25日(木) (予定)
08:00 道の駅「あらエッサ」出発
⇓(R9・R179)
09:00 倉吉市(11:00)白壁土蔵群・赤瓦、打吹公園
⇓(R313)
11:30 関金温泉(13:00)共同浴場:鳥取県倉吉市関金町関金宿1227-1
⇓(R313)
14:00 三朝温泉(17:00) 依山楼岩崎(鳥取県東伯郡三朝町三朝365-1)TEL:0858-43-0111(14:00~21:00) 河原風呂(川原の温泉:24時間・無料)
⇓(R9)
17:30 道の駅「神話の里・白うさぎ」
道の駅「神話の里・白うさぎ」鳥取県鳥取市白兎613
TEL:0857-59-6700 にて車中泊 (走行距離:100km)通算950km
三朝温泉
源義朝の家来が白狼に導かれて発見したと伝わる。三朝の名は、三晩泊まって三回朝を迎えると、どんな難病も治るというところからで、ラドンを多量に含む湯は肌ざわりがよく効能の良さで知られる。三徳川の両岸に旅館が立ち並び、温泉街は三朝橋周辺に広がり、伝統的な和風旅館が多く、情緒ある温泉街が形成されている。河原風呂と公衆浴場菩薩の湯は三朝橋のたもとにある。
本格的な療養温泉でもあり、温泉医療のメッカとしても知られる。観光と療養という両極性を持った温泉である。
泉質:放射能泉(含放射能-ナトリウム-塩化物泉、単純放射能泉ほか)
泉温:36.5~86.1度
関金温泉
放射能泉で、三朝温泉に次いで日本国内第2位のラドン放射能を有する。関金温泉と三朝温泉の湯が放射能を帯びている理由は長年不明だったが、1955年に近くで水成ウラン鉱が発見され、これに由来することが判明した。関金温泉には、湯の美しさから「銀の湯」「しろがねの湯」との古名があり、伯耆民談記にも「銀湯」として登場する。
倉吉
市内には打吹玉川地区をはじめ土蔵が多く、白壁土蔵の街として知られている。伯耆の小京都と称される。
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☆ここまでで8日間を越える旅程だが、調べているだけでもかなりの高密度である。これはとてもじゃないが北陸から越後へ回り、草津温泉を経て蓼科の別荘へ入るというのは強行スケジュール(しかも車中泊)過ぎて無理であろう。
で、次の城崎温泉を終え、その足で翌日帰津するというコースが、9泊10日でちょうどよいぐらいだろうと考える。
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「文学温泉紀行」
島崎藤村に「山陰土産」という紀行文がある。そのなかで大阪を発ってから途中滋賀辺りを通り、若い頃のことを思い出し、瀬田や石山を回顧する場面が冒頭に出てくる。
朝曇りのした空もまだすゞしいうちに、大阪の宿を發つたのは、七月の八日であつた。夏帽子一つ、洋傘一本、東京を出る前の日に「出來」で間に合はせて來た編あげの靴も草鞋をはいた思ひで、身輕な旅となつた。
こんなに無雜作に山陰行の旅に上ることの出來たのはうれしい。もつとも、今度は私一人の旅でもない。東京から次男の鷄二をも伴つて來た。手荷物も少なく、とは願ふものの、出來ることなら山陰道の果までも行つて見たいと思ひ立つてゐたので、着更へのワイシヤツ、ヅボン下、寢衣など無くてかなはぬ物の外に、二三の案内記をも携へてゆくことにした。私達は夏服のチヨツキも脱いで、手提かばんの中に納めてしまつた。鷄二は美術書生らしい繪具箱を汽車のなかまで持ち込んで、いゝ折と氣にいつた景色とでもあつたら、一二枚の習作を試みて來たいといふ下心であつた。畫布なぞは旅の煩ひになるぞ、さうは思つても、それまで捨ててゆけとはさすがに私もいへなかつた。かうして私達二人は連れ立つて出かけた。汽車で新淀川を渡るころには最早なんとなく旅の氣分が浮んで來た。
關西地方を知ることの少い私に取つては、ひろ/″\とした淀川の流域を見渡すだけでもめづらしい。私も年若な時分には、伊賀、近江の一部から大和路へかけてあの邊を旅したことがあつて、殊に琵琶湖のほとりの大津、膳所、瀬田、石山あたりは當時の青年時代のなつかしい記憶のあるところであり、好きな自然としては今でもあの江州の地方をその一つに思ひ出すくらゐであるが、それから三十年あまりこのかた、私の旅といへば、兎角足の向き易い關東地方に限られてゐた。私は西は土佐あたりまでしか知らない。山陰山陽方面には全く足を踏みいれたことがない。山陰道とはどんなところか。
「山陰土産」は、城崎に始まり、香住、浦富海岸、鳥取、三朝温泉、そして松江から津和野へ出る紀行文が綴られる。この中で三朝温泉に触れた箇所が出てくる。
雨を衝いて二里ばかりの道を乘つていつた。次第に山も深い。川がある。橋がある。三朝川は私達の沿うて上つて行つた溪流だが、いつの間にか河上の方から流れてくる赤く濁つた水を見た。
三朝川は前を流れてゐた。私達は三朝温泉の岩崎といふ旅館に一夜を送り、七月十三日の朝を迎へて、宿の二階の廊下のところへ籐椅子なぞを持ち出しながら、しばらく對岸の眺望を樂しんで行かうとした。雨もあがつて、山氣は一層旅の身にしみた。河の中洲を越すほど溢れてゐた水もいつの間にか元の瀬にかへつた。こゝで聽く溪流の音はいかにも山間の温泉地らしい思ひをさせる。河鹿の鳴聲もすゞしい。ゆふべは私は宿の女中の持つて來て見せた書畫帖の中に、田山花袋君の書いたものを見つけてうれしく思つた。大正十二年この地に遊ぶとある。さうか、あの友達もこの宿に泊つて旅の時を送つて行つたのかと思つた。
大正十二年といへば私達の忘れられない年だ。おそらくあの友達がこの地に遊んだのは、東京へ震災の來る前の夏のことであつたらう。あれから最早かなりの月日がたつ。私達の眼にある三朝川、白く黄ばんだ土手の上の趣のある道、兩岸に相對する温泉宿、これらの眺めはあの友達の來て見たころと同じやうであらうか。そこの河原へは鶺鴒が來た、鮎を釣る男も來た、こゝの橋の下へは村の娘達が無心なまるはだかで水を泳ぎに來た。と私達は眼にあるものを指していふことも出來たけれど、あの友達の來て見たころはこれよりもつと野趣のある土地であつたらうか。温泉地としての三朝の發展は十數年このかたのことと聞く。三徳山行の參詣者達のために昔風の温泉宿があつた以前のことに比べると、今の三朝は別天地の觀があるともいふ。こゝは諸方から入り込む浴客を相手としての温泉宿と商家と、それから周圍に散在する多くの農家とから成り立つ。温泉地としての三朝の經營は、温泉宿や商家の負擔であるばかりでなく、農家の負擔でもある。そこから村の惱みも起ると聞く。村の人達の間にはまた土地の強い執着があつて、たとひ他から來て別莊でも建てようとするものが、坪百圓で地所を讓り受けたいといひ出しても、頑としてさういふ相談に應じないといふ話も聞く。三朝は將來どうなつてゆくのか。温泉地としての城崎を熱海あたりに比べていいものなら、こゝは箱根あたりに近いところにでもなつて行きつゝあるのか。
第8日
5月25日(木) (予定)
08:00 道の駅「あらエッサ」出発
⇓(R9・R179)
09:00 倉吉市(11:00)白壁土蔵群・赤瓦、打吹公園
⇓(R313)
11:30 関金温泉(13:00)共同浴場:鳥取県倉吉市関金町関金宿1227-1
⇓(R313)
14:00 三朝温泉(17:00) 依山楼岩崎(鳥取県東伯郡三朝町三朝365-1)TEL:0858-43-0111(14:00~21:00) 河原風呂(川原の温泉:24時間・無料)
⇓(R9)
17:30 道の駅「神話の里・白うさぎ」
道の駅「神話の里・白うさぎ」鳥取県鳥取市白兎613
TEL:0857-59-6700 にて車中泊 (走行距離:100km)通算950km
三朝温泉
源義朝の家来が白狼に導かれて発見したと伝わる。三朝の名は、三晩泊まって三回朝を迎えると、どんな難病も治るというところからで、ラドンを多量に含む湯は肌ざわりがよく効能の良さで知られる。三徳川の両岸に旅館が立ち並び、温泉街は三朝橋周辺に広がり、伝統的な和風旅館が多く、情緒ある温泉街が形成されている。河原風呂と公衆浴場菩薩の湯は三朝橋のたもとにある。
本格的な療養温泉でもあり、温泉医療のメッカとしても知られる。観光と療養という両極性を持った温泉である。
泉質:放射能泉(含放射能-ナトリウム-塩化物泉、単純放射能泉ほか)
泉温:36.5~86.1度
関金温泉
放射能泉で、三朝温泉に次いで日本国内第2位のラドン放射能を有する。関金温泉と三朝温泉の湯が放射能を帯びている理由は長年不明だったが、1955年に近くで水成ウラン鉱が発見され、これに由来することが判明した。関金温泉には、湯の美しさから「銀の湯」「しろがねの湯」との古名があり、伯耆民談記にも「銀湯」として登場する。
倉吉
市内には打吹玉川地区をはじめ土蔵が多く、白壁土蔵の街として知られている。伯耆の小京都と称される。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
☆ここまでで8日間を越える旅程だが、調べているだけでもかなりの高密度である。これはとてもじゃないが北陸から越後へ回り、草津温泉を経て蓼科の別荘へ入るというのは強行スケジュール(しかも車中泊)過ぎて無理であろう。
で、次の城崎温泉を終え、その足で翌日帰津するというコースが、9泊10日でちょうどよいぐらいだろうと考える。
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by kirakuossan
| 2017-03-05 09:52
| 文学温泉紀行
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