2017年 02月 20日
2月生まれの文学者が多い。 |
2017年2月20日(月)
今日は志賀直哉の誕生日である。1883年(明治16)だから生誕134年というわけだが、この間から毎日のように著名な小説家や歌人の誕生日が続いている。とくに2月生まれが多いのではないか。まあしかし確率からして12等分しての9名だからそうも多くはないのかもしれないが、でもビッグな名前は2月に揃っている。
二葉亭四迷(3日)井伏鱒二(15日)夏目漱石(9日)森 鷗外(17日)島崎藤村(17日)志賀直哉(20日)石川啄木(20日)高浜虚子(22日)与謝野鉄幹(26日)
ちなみに私と同じ3月生まれはどうか、というと・・・芥川龍之介(1日)有島武郎(4日)和辻哲郎(11日)高村光太郎(13日)樋口一葉(25日)、さらに4月生まれは・・・佐藤春夫(9日)小林秀雄(11日)中原中也(29日)。4月は意外と少ない。こうしてみると2月生まれはやはり多いということか。
ところで志賀直哉は城崎温泉との関わり合いがあまりにも印象にあるが、温泉好きであったようで、また療養にも出かけることもあって、結構各地の温泉に出向いている。34歳(大正5年)に山中温泉、38歳別府温泉、40歳草津温泉で療養、43歳で山陰と山口を旅し、恐らくこの界隈の温泉に入っているだろう。49歳には戸倉、小川、和倉、山代の各温泉に、58歳には宇奈月、62歳にまた別府温泉に・・・といったあんばいだ。
信州の温泉には1916年、34歳の8月、湯田中渋温泉郷の一角である上林温泉に暫く滞在している。このことはほとんど知られていないが、間違いないようである。上林温泉は長野県下高井郡山ノ内町にある温泉で、ちょうど渋温泉の上流に位置する。そのさらに奥が猿が入浴することで有名な地獄谷野猿公苑がある。 上林温泉に滞在した1916年(大正5)は「城の崎にて」「和解」を発表する1年前で、長女慧子が夭折するという悲しい出来事もあった年で、上林、山中の温泉滞在のあと、秋の京都と奈良を訪れている。
沓掛にて
-芥川君のこと-
芥川君とは七年前に七度しか会った事がなく、手紙の往復も三四度あったか、なかったか、未だ友とはいへない関係だったが、互いに好意を持ち合って居た。
七年程前、浅草の活動小屋で初めて芥川君を見た。瀧井孝作君と一緒に来てゐて、私は二間程離れた所に一人で居た。丁度「暗夜行路」といふ小説を大阪毎日の通俗欄の為めに書きかけてゐた時だったが、新聞社の註文は関西の読者は低級だから調子を下し、面白く書いて呉れと云ふやうな事で、それが私には面白くなかったので「改造」の編集員だった瀧井君に若し「改造」に出してくれるなら、その方に出したい、と-その話を私は二人の傍へ行ってした。知らない芥川君のゐる所でそんな話はいやだったが、拘泥するのもいやで、私はその話を簡単にして、直ぐ自分の席へ還った。瀧井君は紹介しようとしなかったので、雑誌の口絵で芥川君とは知ってゐたが、私達は挨拶をしなかった。芥川君が私の作物に好意を持ってゐて呉れる事は朧気に知ってゐて、紹介すればお互いに御辞儀したかも知れなかったが、瀧井君が気軽にさういふ事をする性質でなく、そのまま別れた。~
(昭和2年9月 志賀直哉)
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今日は志賀直哉の誕生日である。1883年(明治16)だから生誕134年というわけだが、この間から毎日のように著名な小説家や歌人の誕生日が続いている。とくに2月生まれが多いのではないか。まあしかし確率からして12等分しての9名だからそうも多くはないのかもしれないが、でもビッグな名前は2月に揃っている。
二葉亭四迷(3日)井伏鱒二(15日)夏目漱石(9日)森 鷗外(17日)島崎藤村(17日)志賀直哉(20日)石川啄木(20日)高浜虚子(22日)与謝野鉄幹(26日)
ちなみに私と同じ3月生まれはどうか、というと・・・芥川龍之介(1日)有島武郎(4日)和辻哲郎(11日)高村光太郎(13日)樋口一葉(25日)、さらに4月生まれは・・・佐藤春夫(9日)小林秀雄(11日)中原中也(29日)。4月は意外と少ない。こうしてみると2月生まれはやはり多いということか。
ところで志賀直哉は城崎温泉との関わり合いがあまりにも印象にあるが、温泉好きであったようで、また療養にも出かけることもあって、結構各地の温泉に出向いている。34歳(大正5年)に山中温泉、38歳別府温泉、40歳草津温泉で療養、43歳で山陰と山口を旅し、恐らくこの界隈の温泉に入っているだろう。49歳には戸倉、小川、和倉、山代の各温泉に、58歳には宇奈月、62歳にまた別府温泉に・・・といったあんばいだ。
信州の温泉には1916年、34歳の8月、湯田中渋温泉郷の一角である上林温泉に暫く滞在している。このことはほとんど知られていないが、間違いないようである。上林温泉は長野県下高井郡山ノ内町にある温泉で、ちょうど渋温泉の上流に位置する。そのさらに奥が猿が入浴することで有名な地獄谷野猿公苑がある。
沓掛にて
-芥川君のこと-
芥川君とは七年前に七度しか会った事がなく、手紙の往復も三四度あったか、なかったか、未だ友とはいへない関係だったが、互いに好意を持ち合って居た。
七年程前、浅草の活動小屋で初めて芥川君を見た。瀧井孝作君と一緒に来てゐて、私は二間程離れた所に一人で居た。丁度「暗夜行路」といふ小説を大阪毎日の通俗欄の為めに書きかけてゐた時だったが、新聞社の註文は関西の読者は低級だから調子を下し、面白く書いて呉れと云ふやうな事で、それが私には面白くなかったので「改造」の編集員だった瀧井君に若し「改造」に出してくれるなら、その方に出したい、と-その話を私は二人の傍へ行ってした。知らない芥川君のゐる所でそんな話はいやだったが、拘泥するのもいやで、私はその話を簡単にして、直ぐ自分の席へ還った。瀧井君は紹介しようとしなかったので、雑誌の口絵で芥川君とは知ってゐたが、私達は挨拶をしなかった。芥川君が私の作物に好意を持ってゐて呉れる事は朧気に知ってゐて、紹介すればお互いに御辞儀したかも知れなかったが、瀧井君が気軽にさういふ事をする性質でなく、そのまま別れた。~
(昭和2年9月 志賀直哉)
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by kirakuossan
| 2017-02-20 13:04
| 文芸
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