2016年 12月 01日
小説は、読むときの年齢によって作品の感じ方が変わるか。 |
2016年12月1日(木)
『戦艦武蔵』『桜田門外ノ変』と読み続けてきて、最近すっかり吉村昭という歴史小説家にはまっている。はたして次は何を読もうか、と思案しながら、エッセイ集『私の好きな悪い癖』という面白そうな表題の本を古本屋で見つけて読んでみると、そこに「戦戦競競」という章があって、旧知の編集者が出版社を中央公論社から岩波書店に変わり、さらに平凡社に移り、突然電話が掛かってきた。平凡社から今度新書を創刊することになったが、そこで一冊書いてくれとの依頼があり、それは彼が各地で講演してきた”尊敬する作家”について書けとのことだった。だがいくら何でも自分のような一小説家がそんな大作家の作品について文芸評論をするような大それた本は書けないと最初断ったが、結局書くこととなった。その本が『わが心の小説家たち』(平凡社新書)である。
吉村氏がどんな作家を尊敬しているのかと興味を持ち、本屋で新書を探したが、廃版なのかどこにも見当たらない。仕方なく図書館で借りてくることにした。
歴史小説家である吉村昭は、「史実から眼をそむけて面白さを先行させるような歴史小説は、歴史小説ではなく時代小説というべきです」といったスタンスにあって、彼はまず最初に森鷗外を採りあげている。
ここでは短編小説『護持院の敵討ち』を例に出し、鷗外の徹底した史実調査に敬服している。他に『高瀬舟』などもあげ、語る。
私は、ある刑務所の歴史を調べている学者に会ったことがあるのですが、そのときにこの『高瀬舟』の話になりました。『高瀬舟』について、その刑法学者は「森鷗外という人は、刑法、当時の処刑、処罰というものの内容を実によく知っている」と言っていました。同心の言葉遣いとか衣服とか、それから貧しさとか生活臭とか、そういうものが実によく出ているというのです。
私も、『高瀬舟』を読んでみて、その背景というものが非常に鮮明に出ていると思うのです。先ほども申しましたように、史実を絶対ゆるがせにしないで書いた作家というのは、本当に森鷗外以外にいないのじゃないかと思います。
ここで昨年春に一生懸命読んだ史伝『澁江抽齋』を思い出した。
そして次に志賀直哉を採りあげている。ここでは『城の崎にて』を紹介したあと、『暗夜行路』が出てくる。
さて、これから『暗夜行路』という作品をとりあげます。この『暗夜行路』という小説は、志賀直哉のただ一つの長編小説です。この作品は途中で中断しまして、志賀直哉が二十五年もかかってやっと完成した小説で、非常に苦労したということを志賀直哉は告白しています。
私は、学生時代、これを読みました。それから、三十歳になったころに、また読みました。その二度とも、平板で、冗長で、ちっとも感心しませんでした。やはり志賀直哉は短編作家なのだ、長編小説の才能はなくて、二十五年もかかってやっとこれだけのものしか書けなかったのか、などというようなことまで私は考えました。
ところが、ずっとあとの四十代半ばになって、昭和四十八年ですか、雑誌「太陽」の編集者から「『暗夜行路』は小説の舞台が転々と変わっていますから、その舞台を訪ねて、一種の紀行文のかたちで志賀直哉を論ずるというような文章を書いてくれないか」と依頼を受けました。それまでの私は、いい作品じゃないという印象があったものですから、「ちょっと待ってください」と言って、答えを保留して、もう一度読み直しました。
そうしたら、これが実にいい作品だった。小説というものは、読むときの年齢によって作品の感じ方というものは変わるのです。私は若いときはだめだったのですが、四十代の半ばになって、やっとこの『暗夜行路』というのは傑作だということが分かったわけです。
ということで吉村昭は最初に尾道を訪れ、金比羅山へ行き、高松へ立ち寄り、とするわけです。本著では他に川端康成、梶井基次郎、太宰治、それに岡本かの子や平林たい子、林夫美子などの女流作家もでてくる。
この『暗夜行路』の文章を読んでいて、また俄かに好奇の気持ちが湧いてきた。自分も『暗夜行路』は過去二、三度読み始めては途中で投げ出しているが、ここで読むときの年齢によって感じ方が違うとあり、「やっとこの『暗夜行路』というのは傑作だということが分かったわけです」に心動かされた。それに10月に奈良を訪れ、志賀直哉の旧居「高畑サロン」を拝観して、ここでも感動し、彼がその旧居で『暗夜行路』を書き上げたということも思い出した。
で、今から、早速読んでみよう。そしてもし感動したら、一度その地を順に歩いてみようとも思う。
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吉村氏がどんな作家を尊敬しているのかと興味を持ち、本屋で新書を探したが、廃版なのかどこにも見当たらない。仕方なく図書館で借りてくることにした。
歴史小説家である吉村昭は、「史実から眼をそむけて面白さを先行させるような歴史小説は、歴史小説ではなく時代小説というべきです」といったスタンスにあって、彼はまず最初に森鷗外を採りあげている。
ここでは短編小説『護持院の敵討ち』を例に出し、鷗外の徹底した史実調査に敬服している。他に『高瀬舟』などもあげ、語る。
私は、ある刑務所の歴史を調べている学者に会ったことがあるのですが、そのときにこの『高瀬舟』の話になりました。『高瀬舟』について、その刑法学者は「森鷗外という人は、刑法、当時の処刑、処罰というものの内容を実によく知っている」と言っていました。同心の言葉遣いとか衣服とか、それから貧しさとか生活臭とか、そういうものが実によく出ているというのです。
私も、『高瀬舟』を読んでみて、その背景というものが非常に鮮明に出ていると思うのです。先ほども申しましたように、史実を絶対ゆるがせにしないで書いた作家というのは、本当に森鷗外以外にいないのじゃないかと思います。
ここで昨年春に一生懸命読んだ史伝『澁江抽齋』を思い出した。
そして次に志賀直哉を採りあげている。ここでは『城の崎にて』を紹介したあと、『暗夜行路』が出てくる。
さて、これから『暗夜行路』という作品をとりあげます。この『暗夜行路』という小説は、志賀直哉のただ一つの長編小説です。この作品は途中で中断しまして、志賀直哉が二十五年もかかってやっと完成した小説で、非常に苦労したということを志賀直哉は告白しています。
私は、学生時代、これを読みました。それから、三十歳になったころに、また読みました。その二度とも、平板で、冗長で、ちっとも感心しませんでした。やはり志賀直哉は短編作家なのだ、長編小説の才能はなくて、二十五年もかかってやっとこれだけのものしか書けなかったのか、などというようなことまで私は考えました。
ところが、ずっとあとの四十代半ばになって、昭和四十八年ですか、雑誌「太陽」の編集者から「『暗夜行路』は小説の舞台が転々と変わっていますから、その舞台を訪ねて、一種の紀行文のかたちで志賀直哉を論ずるというような文章を書いてくれないか」と依頼を受けました。それまでの私は、いい作品じゃないという印象があったものですから、「ちょっと待ってください」と言って、答えを保留して、もう一度読み直しました。
そうしたら、これが実にいい作品だった。小説というものは、読むときの年齢によって作品の感じ方というものは変わるのです。私は若いときはだめだったのですが、四十代の半ばになって、やっとこの『暗夜行路』というのは傑作だということが分かったわけです。
ということで吉村昭は最初に尾道を訪れ、金比羅山へ行き、高松へ立ち寄り、とするわけです。本著では他に川端康成、梶井基次郎、太宰治、それに岡本かの子や平林たい子、林夫美子などの女流作家もでてくる。
この『暗夜行路』の文章を読んでいて、また俄かに好奇の気持ちが湧いてきた。自分も『暗夜行路』は過去二、三度読み始めては途中で投げ出しているが、ここで読むときの年齢によって感じ方が違うとあり、「やっとこの『暗夜行路』というのは傑作だということが分かったわけです」に心動かされた。それに10月に奈良を訪れ、志賀直哉の旧居「高畑サロン」を拝観して、ここでも感動し、彼がその旧居で『暗夜行路』を書き上げたということも思い出した。
で、今から、早速読んでみよう。そしてもし感動したら、一度その地を順に歩いてみようとも思う。
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by kirakuossan
| 2016-12-01 11:16
| 文芸
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