2016年 11月 23日
桜田門外ノ変 ⑬ |
2016年11月23日(水)
吉村昭著「桜田門外ノ変」
安政七年三月三日は雪であった。牡丹雪が重なり合うように激しく降って、積雪は三寸ほどもあったというから季節外れの大雪であった。
総勢18名が愛宕山に結集、雪道の男坂を下って行く。左右に大名屋敷が立ち並び、新橋を渡って、やがて桜田門が霞んで見えた。さらに濠ぞいに進むと、西方向の濠ぞいの道の先に井伊直弼の広大な上屋敷のいかめしい門がかすかに見えた。
あたりは森閑としている。濠に動くものがみえるのは数羽の鴨であった。
桜田門の近くの濠端には、傘見世と称されている葭簀張りの茶店が二軒出ていた。その付近は、登城する大名行列を見物する者たちでにぎわうので、それを見こんで、傘見世ではおでん、餅、酒、甘酒などを売る。ことに年頭と五節句には諸大名がぞくぞくと登城のため桜田門を入ってゆくので、必ず傘見世が出るのが常だったが、雛節句の日とは言え、大雪なので同志たち以外に人の姿はない。
鉄之介は、岡部とはなれて溝端に近づき、武鑑を懐から取り出した。二、三人ずつ散った同志たちも、大名行列見物をよそおって一様に武鑑を手にしていた。
この不意の大雪は吉なのか凶なのか。眼の前を尾張藩主の行列が通り過ぎていく。華やかな藩主の駕籠が短い橋を渡って桜田門の中に消えて行く。鉄之介はその行列を見ながら思った。一様に雨合羽を着ていて、動きが鈍そうである。不意をつかれて襲われるとなおさら動きにくそうである。それに雨除けのため、刀の鞘はみな羅紗の袋で覆われている。これも咄嗟の時にはすぐに刀が抜けないだろう。それをみて鉄之介は、自分たちに利があることを確信した。
しばらくして、やがて井伊家の屋敷の門がゆっくりと左右に開いた。
鉄之介は、不意に小刻みなふるえが体に起ったことに狼狽した。それは、所々に立つ同志たちの顔が例外なく血の色を失い、武鑑や傘がかすかにゆれているのを眼にしたからであった。舌で唇をしきりになめる者、すでに刀の柄をにぎっている者もいる。大事を前に、かれらは極度な緊張に襲われている。
落着くのだ、とかれは胸の中でつぶやいた。それは同志たちへの呼びかけであると同時に、自分自身へのものでもあった。
雪の中を粛然と行列が進んでくる。
供回りの徒士以上が二十数名、足軽以下四十名ほどであるのを、かれはたしかめた。鞍をつけた馬が、駕籠の後方に動いてくる。その背も雪に白くおおわれている。激しい降雪に、行列は白い紗をかけられたようにかすんでいた。
やがて、深い静寂の中で供揃えの雪をふむ足音がきこえてきた。
体のふるえがさらに増し、右手にした傘が音を立ててゆれはじめた。緊張にたえかねて前夜のとりきめも忘れた同志が、早くも抜刀して斬り込むような恐れにとらわれた。が、かれらは、石にでも化したように動かない。
供回りの徒士たちが近づいてきた。
霏々と降る雪に笠を前方にかたむけ、雪道に視線を落としながら雪をふんでくる。笠の下から白い呼気がみえていた。
二人の徒士が、鉄之介の眼の前をすぎ、その間に挟箱をかついだ小者が背を丸めて雪をふんでゆく。鉄之介は、徒士たちの刀の柄に黒い柄袋がはめられているのを見た。
鉄之介は口の中の激しい渇きを覚えながら行列の先頭に視線を向けた。桜田門の橋にむかうそのとき、一人の男が腰をかがめて近づいた。それはまちがいなく森五六郎であった。
突然、先供に乱れが生じた。
つづく・・・
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吉村昭著「桜田門外ノ変」
安政七年三月三日は雪であった。牡丹雪が重なり合うように激しく降って、積雪は三寸ほどもあったというから季節外れの大雪であった。
総勢18名が愛宕山に結集、雪道の男坂を下って行く。左右に大名屋敷が立ち並び、新橋を渡って、やがて桜田門が霞んで見えた。さらに濠ぞいに進むと、西方向の濠ぞいの道の先に井伊直弼の広大な上屋敷のいかめしい門がかすかに見えた。
あたりは森閑としている。濠に動くものがみえるのは数羽の鴨であった。
桜田門の近くの濠端には、傘見世と称されている葭簀張りの茶店が二軒出ていた。その付近は、登城する大名行列を見物する者たちでにぎわうので、それを見こんで、傘見世ではおでん、餅、酒、甘酒などを売る。ことに年頭と五節句には諸大名がぞくぞくと登城のため桜田門を入ってゆくので、必ず傘見世が出るのが常だったが、雛節句の日とは言え、大雪なので同志たち以外に人の姿はない。
鉄之介は、岡部とはなれて溝端に近づき、武鑑を懐から取り出した。二、三人ずつ散った同志たちも、大名行列見物をよそおって一様に武鑑を手にしていた。
この不意の大雪は吉なのか凶なのか。眼の前を尾張藩主の行列が通り過ぎていく。華やかな藩主の駕籠が短い橋を渡って桜田門の中に消えて行く。鉄之介はその行列を見ながら思った。一様に雨合羽を着ていて、動きが鈍そうである。不意をつかれて襲われるとなおさら動きにくそうである。それに雨除けのため、刀の鞘はみな羅紗の袋で覆われている。これも咄嗟の時にはすぐに刀が抜けないだろう。それをみて鉄之介は、自分たちに利があることを確信した。
しばらくして、やがて井伊家の屋敷の門がゆっくりと左右に開いた。
鉄之介は、不意に小刻みなふるえが体に起ったことに狼狽した。それは、所々に立つ同志たちの顔が例外なく血の色を失い、武鑑や傘がかすかにゆれているのを眼にしたからであった。舌で唇をしきりになめる者、すでに刀の柄をにぎっている者もいる。大事を前に、かれらは極度な緊張に襲われている。
落着くのだ、とかれは胸の中でつぶやいた。それは同志たちへの呼びかけであると同時に、自分自身へのものでもあった。
雪の中を粛然と行列が進んでくる。
供回りの徒士以上が二十数名、足軽以下四十名ほどであるのを、かれはたしかめた。鞍をつけた馬が、駕籠の後方に動いてくる。その背も雪に白くおおわれている。激しい降雪に、行列は白い紗をかけられたようにかすんでいた。
やがて、深い静寂の中で供揃えの雪をふむ足音がきこえてきた。
体のふるえがさらに増し、右手にした傘が音を立ててゆれはじめた。緊張にたえかねて前夜のとりきめも忘れた同志が、早くも抜刀して斬り込むような恐れにとらわれた。が、かれらは、石にでも化したように動かない。
供回りの徒士たちが近づいてきた。
霏々と降る雪に笠を前方にかたむけ、雪道に視線を落としながら雪をふんでくる。笠の下から白い呼気がみえていた。
二人の徒士が、鉄之介の眼の前をすぎ、その間に挟箱をかついだ小者が背を丸めて雪をふんでゆく。鉄之介は、徒士たちの刀の柄に黒い柄袋がはめられているのを見た。
鉄之介は口の中の激しい渇きを覚えながら行列の先頭に視線を向けた。桜田門の橋にむかうそのとき、一人の男が腰をかがめて近づいた。それはまちがいなく森五六郎であった。
突然、先供に乱れが生じた。
つづく・・・
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by kirakuossan
| 2016-11-23 07:52
| ヒストリー
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