2016年 11月 18日
熱心な先生 |
2016年11月18日(金)
17年ぶりに小学校の同窓会が開かれる。4,5,6年と3年間編成替えなしに同じクラスであったからそれだけに思い出も多い。担任のU先生は大学を出て間もない若い男の先生だった。教育熱心で、情熱に燃えた、バオタリティーに満ちた先生だった。その先生も聞くところによると80歳を越えられたということだ。
熱心な先生ということで、ふと蓮田善明のことが思い出された。
とかく型破りの教師で、桃太郎の童話を漢文で教えたり、教科書以外の本を使い、生徒に興味を持たせたり、またある時は、クラスの生徒全員を引きつれて近くの城跡を訪れ、そこで作文や詩、あるいは水彩画など、生徒たちの自由に任せた自由時間も設けたりして、心の通った教育を施した。そんなところからも子供たちから慕われ、尊敬された。
蓮田善明(1904~1945)は国語教員であるかたわら、詩人、国文学者、そして優れた文芸評論家であった。戦前の混乱時に、思想家としての優れた見識を持ち合わせ、三島由紀夫の思想形成に多大な影響を与えた。蓮田の作品は筑摩書房から出ている現代日本文學大系全集にも掲載されているが、その巻に一緒に掲載された保田与重郎、亀井勝一郎といった人物からみても、この人の実力ぶりがはかれる。
1927年、広島高等師範学校を卒業すると、28年岐阜県立第二中学校(現・岐阜県立加納高等学校)に教員として赴任し、翌29年4月には長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)に転任する。そこで3年間教鞭をとったあと、向学心に燃え、27歳で広島文理科大学(現・広島大学の文学部)国語国文学科に入学した。ちょうどこの年に上海事変が始まり、五・一五事件が起こった。
戦中は南方戦線に出征、終戦直後、上官たちが天皇に対しての認識を手のひらを返したように投げやりな態度をみせるなか、それに対して「そんな莫迦なことは断じてない。日本が続くかぎり、日本民族が存続するかぎり、天皇が最高であり、誰が教えなくとも、日本の子供であるかぎり、天皇を至尊と讃える」と激しく反論した。とくに中条豊馬大佐の軍人らしからぬ、豹変ぶりには多くの青年将校らも憤ったが、蓮田は「国賊!」と叫び、大佐を射殺したあと、自らも命を絶った。
古代の雪を愛でし君は その身に古代を現じて 雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす
三島由紀夫「故蓮田善明への献詩」
ところで諏訪清陵高は、岩波書店創業者の岩波茂雄や作家の新田次郎、あるいは音楽家を数多く撮った写真家木之下晃などの卒業生を輩出した文武両道を目指す有数の名門校である。蓼科からビーナスラインで霧ケ峰を越え、諏訪の町まで急坂を下り、国道20号線の元町に出ると「真澄」の蔵元があるが、その突き当りを左に折れたところに校舎がある。
岩波現代文庫から現代語訳「古事記」が蓮田の訳で出ている。一度手にしてみようと思う。
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17年ぶりに小学校の同窓会が開かれる。4,5,6年と3年間編成替えなしに同じクラスであったからそれだけに思い出も多い。担任のU先生は大学を出て間もない若い男の先生だった。教育熱心で、情熱に燃えた、バオタリティーに満ちた先生だった。その先生も聞くところによると80歳を越えられたということだ。
熱心な先生ということで、ふと蓮田善明のことが思い出された。
とかく型破りの教師で、桃太郎の童話を漢文で教えたり、教科書以外の本を使い、生徒に興味を持たせたり、またある時は、クラスの生徒全員を引きつれて近くの城跡を訪れ、そこで作文や詩、あるいは水彩画など、生徒たちの自由に任せた自由時間も設けたりして、心の通った教育を施した。そんなところからも子供たちから慕われ、尊敬された。
蓮田善明(1904~1945)は国語教員であるかたわら、詩人、国文学者、そして優れた文芸評論家であった。戦前の混乱時に、思想家としての優れた見識を持ち合わせ、三島由紀夫の思想形成に多大な影響を与えた。蓮田の作品は筑摩書房から出ている現代日本文學大系全集にも掲載されているが、その巻に一緒に掲載された保田与重郎、亀井勝一郎といった人物からみても、この人の実力ぶりがはかれる。
1927年、広島高等師範学校を卒業すると、28年岐阜県立第二中学校(現・岐阜県立加納高等学校)に教員として赴任し、翌29年4月には長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)に転任する。そこで3年間教鞭をとったあと、向学心に燃え、27歳で広島文理科大学(現・広島大学の文学部)国語国文学科に入学した。ちょうどこの年に上海事変が始まり、五・一五事件が起こった。
戦中は南方戦線に出征、終戦直後、上官たちが天皇に対しての認識を手のひらを返したように投げやりな態度をみせるなか、それに対して「そんな莫迦なことは断じてない。日本が続くかぎり、日本民族が存続するかぎり、天皇が最高であり、誰が教えなくとも、日本の子供であるかぎり、天皇を至尊と讃える」と激しく反論した。とくに中条豊馬大佐の軍人らしからぬ、豹変ぶりには多くの青年将校らも憤ったが、蓮田は「国賊!」と叫び、大佐を射殺したあと、自らも命を絶った。
古代の雪を愛でし君は その身に古代を現じて 雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす
三島由紀夫「故蓮田善明への献詩」
ところで諏訪清陵高は、岩波書店創業者の岩波茂雄や作家の新田次郎、あるいは音楽家を数多く撮った写真家木之下晃などの卒業生を輩出した文武両道を目指す有数の名門校である。蓼科からビーナスラインで霧ケ峰を越え、諏訪の町まで急坂を下り、国道20号線の元町に出ると「真澄」の蔵元があるが、その突き当りを左に折れたところに校舎がある。
岩波現代文庫から現代語訳「古事記」が蓮田の訳で出ている。一度手にしてみようと思う。
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by kirakuossan
| 2016-11-18 20:18
| 偶感
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