2016年 11月 07日
桜田門外ノ変 ② |
2016年11月7日(月)
水戸藩では徳川斉昭を中心とした藤田東湖、会沢正志斎(1782~1863)らの改革派と旧態依然の旧い体制を維持しようとする元家老結城朝道を中心とした門閥派が激しく争っていたが、二転三転のすえ、改革派が実権を執るようになった。水戸藩士関鉄之介も改革派に属し、20歳で弘道館に入学、会沢正志斎の訓話を熱心に聞き、感動する。
改革派は軍備強化と異国対策に情熱をそそいだが、それは藩領内の大津浜(北茨城市)で起こった異国人上陸騒ぎが、水戸藩に大きな脅威と衝撃を与えたからである。文政7年(1824)5月28日の八ツ(午後2時)すぎ事件は起きた。二隻でやって来た異国人の12名が上陸、会沢たちは文化4年に来襲したロシア艦も二隻であったので、てっきりロシアが日本へ侵攻してきたと判断した。すぐに彼らをうまく導きよせ土蔵に軟禁した。
会沢は、かれらの容姿を記録させ、筆を手にした藩士が、「猿の如く、丈高く、髪の毛ちぢれ、赤」、皮膚の色については「色白きもあり、又、殊に黒きも御座候。是は黒人と申し候由」と、記した。
「かれらの言語はわからず、いずれの国の者どもかをただすため、地図をひろげて指ささせた。まちがいなくオロシアの者と思っていたが、指さした地は意外にもエゲレス(イギリス)国であった」
そして月が替わり8日の朝、異国の大船から橋船がおろされて20人ほどが岸に上がった。そこで異国人はなにか言い、身振り手振りして何かを懇願しているようだが意味が解らない。ここでのやりとりがまた面白い。
「異国人は、捕えられた者どもをお返しいただきたいと申しているように思われます」と、言った。
会沢たちは、番人と徒目付を浜に残して陣幕の中にもどり、先手総頭と協議した。
異国人の上陸は水戸から江戸藩邸に急報され、幕府にも報告されていた。驚いた幕府は、代官古山善吉と普請役元締格河久保忠八郎を大津浜に急派することになり、一行がすでに出発したことが大津浜にもつたえられていた。さらに、異国人たちがロシア人と推測されていたので、幕府は、文化四年、千島のエトロフ島に来襲したロシア艦の乗組員と戦った経験のあるロシア通の普請役間宮林蔵とオランダ通詞吉雄忠次郎、足立左内を随行させていた。
捕えた異国人たちの処置は、当然、古山代官が決定することであり、一行がくるまで待つべきだと判断し、十分の余裕をみて二十日後にくるようにと異国人に回答することになった。
幕の外に出た会沢が徒目付に、二十日後にくれば、その折に正式な回答をする、と異国人につたえるよう命じた。徒目付に指示された番人が、異国人に近づいて寝る仕種を二十回繰返し、二十日後に再びここにくるようにという身ぶりをしてみせた。その意味がわかったらしく、異国人たちは身を寄せ合って相談していたが、一人が進み出ると、十回、寝る仕種をした。
番人が、「十日後にして欲しいと申しております」と、会沢に報告した。
しかし、会沢は、きびしい口調で、あくまでも二十日後とつたえるよう指示し、番人は異国人にその仕種をした。
異国人は、十日後を執拗にもとめたが、ようやく承服したらしくボートに引き返した。九艘のボートは本船にもどり、しばらくすると四隻の異国船が北方海上にむかい、水平線下に没した。
異国人が捕鯨のために日本近海にやって来たというが、会沢は信用しない。水戸の藩領は長い海岸線で太平洋に直面しており、外敵が侵攻してくるのに格好な上陸地である。「藩の海岸は、外敵の侵攻地になる。これを片時も忘れてはならない」と弘道館の訓話で『新論』を述べた。そして会沢は、外敵を武力で排除するには、天皇崇拝による国民の精神的な団結が不可欠であるとし、ここに「尊王攘夷」の思想が生まれることになる。関鉄之介もこの『新論』を感動して受け入れ、水戸藩のみならず日本を守るための不動の正論であると信じた。
つづく・・・
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吉村昭著「桜田門外ノ変」
水戸藩では徳川斉昭を中心とした藤田東湖、会沢正志斎(1782~1863)らの改革派と旧態依然の旧い体制を維持しようとする元家老結城朝道を中心とした門閥派が激しく争っていたが、二転三転のすえ、改革派が実権を執るようになった。水戸藩士関鉄之介も改革派に属し、20歳で弘道館に入学、会沢正志斎の訓話を熱心に聞き、感動する。
改革派は軍備強化と異国対策に情熱をそそいだが、それは藩領内の大津浜(北茨城市)で起こった異国人上陸騒ぎが、水戸藩に大きな脅威と衝撃を与えたからである。文政7年(1824)5月28日の八ツ(午後2時)すぎ事件は起きた。二隻でやって来た異国人の12名が上陸、会沢たちは文化4年に来襲したロシア艦も二隻であったので、てっきりロシアが日本へ侵攻してきたと判断した。すぐに彼らをうまく導きよせ土蔵に軟禁した。
会沢は、かれらの容姿を記録させ、筆を手にした藩士が、「猿の如く、丈高く、髪の毛ちぢれ、赤」、皮膚の色については「色白きもあり、又、殊に黒きも御座候。是は黒人と申し候由」と、記した。
「かれらの言語はわからず、いずれの国の者どもかをただすため、地図をひろげて指ささせた。まちがいなくオロシアの者と思っていたが、指さした地は意外にもエゲレス(イギリス)国であった」
そして月が替わり8日の朝、異国の大船から橋船がおろされて20人ほどが岸に上がった。そこで異国人はなにか言い、身振り手振りして何かを懇願しているようだが意味が解らない。ここでのやりとりがまた面白い。
「異国人は、捕えられた者どもをお返しいただきたいと申しているように思われます」と、言った。
会沢たちは、番人と徒目付を浜に残して陣幕の中にもどり、先手総頭と協議した。
異国人の上陸は水戸から江戸藩邸に急報され、幕府にも報告されていた。驚いた幕府は、代官古山善吉と普請役元締格河久保忠八郎を大津浜に急派することになり、一行がすでに出発したことが大津浜にもつたえられていた。さらに、異国人たちがロシア人と推測されていたので、幕府は、文化四年、千島のエトロフ島に来襲したロシア艦の乗組員と戦った経験のあるロシア通の普請役間宮林蔵とオランダ通詞吉雄忠次郎、足立左内を随行させていた。
捕えた異国人たちの処置は、当然、古山代官が決定することであり、一行がくるまで待つべきだと判断し、十分の余裕をみて二十日後にくるようにと異国人に回答することになった。
幕の外に出た会沢が徒目付に、二十日後にくれば、その折に正式な回答をする、と異国人につたえるよう命じた。徒目付に指示された番人が、異国人に近づいて寝る仕種を二十回繰返し、二十日後に再びここにくるようにという身ぶりをしてみせた。その意味がわかったらしく、異国人たちは身を寄せ合って相談していたが、一人が進み出ると、十回、寝る仕種をした。
番人が、「十日後にして欲しいと申しております」と、会沢に報告した。
しかし、会沢は、きびしい口調で、あくまでも二十日後とつたえるよう指示し、番人は異国人にその仕種をした。
異国人は、十日後を執拗にもとめたが、ようやく承服したらしくボートに引き返した。九艘のボートは本船にもどり、しばらくすると四隻の異国船が北方海上にむかい、水平線下に没した。
異国人が捕鯨のために日本近海にやって来たというが、会沢は信用しない。水戸の藩領は長い海岸線で太平洋に直面しており、外敵が侵攻してくるのに格好な上陸地である。「藩の海岸は、外敵の侵攻地になる。これを片時も忘れてはならない」と弘道館の訓話で『新論』を述べた。そして会沢は、外敵を武力で排除するには、天皇崇拝による国民の精神的な団結が不可欠であるとし、ここに「尊王攘夷」の思想が生まれることになる。関鉄之介もこの『新論』を感動して受け入れ、水戸藩のみならず日本を守るための不動の正論であると信じた。
つづく・・・
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by kirakuossan
| 2016-11-07 12:21
| ヒストリー
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