2016年 10月 29日
フィクションでないだけに、真の面白さをより体験できる。 |
2016年10月29日(土)
1959年に「鉄橋」、と「貝殻」、1962年「透明標本」、同年「石の微笑」と4度芥川賞候補になるがいずれも受賞を果たせなかった。その後、同じ学習院の文芸部で知り合った妻の津村節子が1965年に受賞することになる。そんな無名作家が1973年、突如力作「戦艦武蔵」を世に出し、一躍その存在が知れることになる。
最後の原稿は一気に一晩で四十二枚書き上げた。できて女房に「できた、できた」といって書斎から出ようとしたら、腰がくだけて座り込んでしまった。腰が抜けたというヤツですよ。ふっふっふっ・・・。
どうしても立てないで、こちらはエヘラ、エヘラ笑っているだけ。でもね、あとで原稿を読み返してみたんだけど、ちっともおかしくないの。迫力があるから、文章はキチンとしているしね。
このことを彼のエッセイで幾度か面白可笑しく紹介されている。
吉村昭作品の魅力は、埋もれた人物や事象を細かくあぶり出し、より生々しく記録されていく。決して人目に触れることがなかった歴史の細部がクリアに再現され、そこにこそドラマがある。それはフィクションでないだけに、真の面白さをより体験できるところにある。
吉村昭はどことなくユーモラスな人でもあったようだ。そのこともいくつかのエッセイから感じとれる。そしてそこにあるのはいつも自然で真実があり、彼のは読み飽きしないのである。吉村の人柄を妻津村節子が「ひとり旅」の序文で紹介している。
この集が、とうとう吉村昭の最後の著作物になってしまった。彼が死去したのは平成十八年の夏の盛りであったが、その前年はまるで物に憑かれたように新聞連載『彰義隊』のゲラ直しをしながら各誌各新聞にエッセイの連載を書き続け、短篇小説の取材のために仙台へ行ったり東京地裁に行ったりしていた。この年エッセイ集二冊、長篇二冊を上梓している。~
この中のエッセイ「一人旅」を『ひとり旅』として表題にしたのは、彼が研究家の書いた著書も、公的な文書もそのまま参考にせず、一人で現地に赴き、独自の方法で徹底的な調査をし、資料はむこうからくる、と自負するほど思いがけない発見をしているその執念と、余計なフィクションを加えずあくまで事実こそ小説であるという創作姿勢が全篇に漲っているからである。
彼の遺作のゲラや死後出版される著作物は私が読むことになり、この集などもそれぞれ当時のことが思い起こされる辛い仕事になった。物を書く女は最悪の妻と思っていたが、せめてこれが彼にしてやれる最後の私の仕事になった。
この集に記されている一番古い戦記小説『戦艦武蔵』執筆時のこと、無名の新人が一流文芸雑誌に四百二十枚一挙掲載されることになったその死物狂いの様子を今も胸苦しく思い出す。
歴史小説では先人に司馬遼太郎(1923~1996)がいるが、司馬遼がある意味、フィクション部分も加味したようなドラマチックな書き方をするが、吉村昭(1927~2006)は、あくまでも実録に添った仔細な文章を綴る。この二人は記録文学の双璧ともいえるが、面白い逸話がある。吉村が1997年に第1回司馬遼太郎賞に選出されたがこれを辞退した。それだけ自負があったのであろう。
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1959年に「鉄橋」、と「貝殻」、1962年「透明標本」、同年「石の微笑」と4度芥川賞候補になるがいずれも受賞を果たせなかった。その後、同じ学習院の文芸部で知り合った妻の津村節子が1965年に受賞することになる。そんな無名作家が1973年、突如力作「戦艦武蔵」を世に出し、一躍その存在が知れることになる。
最後の原稿は一気に一晩で四十二枚書き上げた。できて女房に「できた、できた」といって書斎から出ようとしたら、腰がくだけて座り込んでしまった。腰が抜けたというヤツですよ。ふっふっふっ・・・。
どうしても立てないで、こちらはエヘラ、エヘラ笑っているだけ。でもね、あとで原稿を読み返してみたんだけど、ちっともおかしくないの。迫力があるから、文章はキチンとしているしね。
このことを彼のエッセイで幾度か面白可笑しく紹介されている。
吉村昭作品の魅力は、埋もれた人物や事象を細かくあぶり出し、より生々しく記録されていく。決して人目に触れることがなかった歴史の細部がクリアに再現され、そこにこそドラマがある。それはフィクションでないだけに、真の面白さをより体験できるところにある。
吉村昭はどことなくユーモラスな人でもあったようだ。そのこともいくつかのエッセイから感じとれる。そしてそこにあるのはいつも自然で真実があり、彼のは読み飽きしないのである。吉村の人柄を妻津村節子が「ひとり旅」の序文で紹介している。
この集が、とうとう吉村昭の最後の著作物になってしまった。彼が死去したのは平成十八年の夏の盛りであったが、その前年はまるで物に憑かれたように新聞連載『彰義隊』のゲラ直しをしながら各誌各新聞にエッセイの連載を書き続け、短篇小説の取材のために仙台へ行ったり東京地裁に行ったりしていた。この年エッセイ集二冊、長篇二冊を上梓している。~
この中のエッセイ「一人旅」を『ひとり旅』として表題にしたのは、彼が研究家の書いた著書も、公的な文書もそのまま参考にせず、一人で現地に赴き、独自の方法で徹底的な調査をし、資料はむこうからくる、と自負するほど思いがけない発見をしているその執念と、余計なフィクションを加えずあくまで事実こそ小説であるという創作姿勢が全篇に漲っているからである。
彼の遺作のゲラや死後出版される著作物は私が読むことになり、この集などもそれぞれ当時のことが思い起こされる辛い仕事になった。物を書く女は最悪の妻と思っていたが、せめてこれが彼にしてやれる最後の私の仕事になった。
この集に記されている一番古い戦記小説『戦艦武蔵』執筆時のこと、無名の新人が一流文芸雑誌に四百二十枚一挙掲載されることになったその死物狂いの様子を今も胸苦しく思い出す。
歴史小説では先人に司馬遼太郎(1923~1996)がいるが、司馬遼がある意味、フィクション部分も加味したようなドラマチックな書き方をするが、吉村昭(1927~2006)は、あくまでも実録に添った仔細な文章を綴る。この二人は記録文学の双璧ともいえるが、面白い逸話がある。吉村が1997年に第1回司馬遼太郎賞に選出されたがこれを辞退した。それだけ自負があったのであろう。
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by kirakuossan
| 2016-10-29 06:38
| 文芸
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