2016年 10月 25日
戦艦武蔵 |
2016年10月25日(火)
艦の長さ・・・263m
最大幅・・・38.9m
排水量・・・満載状態71,100トン
航続距離・・・(16ノットで)7,200浬(13,334km)
速力・・・27ノット(時速50km/h)
軸馬力・・・150、000馬力
主砲・・・46cm(18インチ)砲三連装三基計9門
副砲・・・15.5cm砲12門
搭載飛行機・・・6機
乗員数・・・2,300名
これはイギリスの主力戦艦ネルソンの214m、長門の213mより50mも長い。最大幅もネルソンの32m、長門の29mより10m長い。これほどの大きさになると操舵には高度な技術を要する。舵を曲げても、1分40秒も経ってからようやく舵がきき始める。全速時なら、この間に1.4kmも走ってしまうのだ。物量的には圧倒的な優位にあるアメリカ海軍、そのアメリカでもこれほどの規模の戦艦は造れなかった。それは太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河をどうしても通らなければならないという制約があったからだ。日本がアメリカに対抗できるためにも規模の大きさを追及するしかなかった。そのことはより大きな主砲を装備できることを可能にし、敵より遠くへ飛ばすことができるため、より早く打つことができる。主砲46cm、砲身21mを持つことは疑いもなく世界戦艦史上最大の威力を秘めた戦艦を意味した。その第一号艦を「大和」と呼び、第二号艦を「武蔵」と呼んだ。「大和」は国営の呉工廠で、「武蔵」は民間の長崎造船所で建造された同型の兄弟艦であった。
そして レイテ沖海戦において アメリカ軍機は「武蔵」一艦のみに集中攻撃をかけてきた。
昭和十二年七月七日、盧溝橋に端を発した中国大陸の戦火は、一カ月後には北平を包みこみ、次第に果てしないひろがりをみせはじめていた。
その頃、九州の漁業界に異変が起っていた。
初め、人々は、その異変に気づかなかった。が、それは、すでに半年近くも前からはじまっていたことで、ひそかに、しかしかなりの速さで九州一円の漁業界にひろがっていた。
初めに棕櫚(しゅろ)の繊維が姿を消していることに気づいたのは、有明海沿岸の海苔養殖業者たちであった。かれらは、海水の冷える頃、つまり九月末から十月はじめにかけて、海中に浮遊している海苔の胞子を附着させるため、浅い海に竹竿を林立させ、そこに棕櫚製の網を海面に水平に張る。その例年の張りかえを行うために棕櫚の網を注文したのだが、意外にも漁具商には一筋の棕櫚繊維もないことが発見された。・・・
吉村昭の『戦艦武蔵』は、壮大で、壮絶で、しかも緻密な筆致でスリリングでもあり、なかなか面白い小説である。小説というより記録文学といった方が正しいだろう。題からして、単なる戦争の場面が想像されるが、極秘で「武蔵」の建造が進められる過程が大半で、この小説の面白い部分であり、また核心部分でもある。進むうちに読者を自然と惹きこませて行き、気がつけば小説の中にどっぷりと入り込み、いかにも自分も”極秘”を守らなければならないような奇妙な錯覚にとらわれる。そして徐々に戦争の恐ろしさ、虚しさ、残酷さを、神話的象徴としての「武蔵」を通してを浮かび上がらせる。それに書き出しが実に上手い。突然「棕櫚」を持ち出し、これが何を暗示するのか推理的にも読ませる。
著者吉村昭は当時建艦に携わった三菱重工業長崎造船所の技師が秘蔵しておいた30冊に及ぶ大学ノートを基にこの小説を書いた。もともと戦争記録にまったく関心のない著者が大作を書くきっかけになった心境をあとがきで綴る。
私は、戦争を解明するのには、戦時中に人間たちが示したエネルギーを大胆に直視することからはじめるべきだという考えを抱いていた。そして、それらのエネルギーが大量の人命と物を浪費したことに、戦争というものの本質があるように思っていた。戦争は、一部のものがたしかに煽動してひき起こしたものかも知れないが、戦争を根強く持続させたのは、やはり無数の人間たちであったにちがいない。あれほど厖大な人命と物を消費した巨大なエネルギーが、終戦後言われているような極く一部のものだけでは到底維持できるものではない。このことは戦時中少年であった私は直接眼にしてきたし、その体験を通して、戦争についての作品を書いてみたいとねがっていた私は、日誌から噴き出る熱っぽい空気にあの奇妙な一時期のまぎれもない姿を見いだしたような気がして、武蔵について少しずつ知識を持ちはじめるようになった。そして、ようやく武蔵こそ、私の考えている戦争そのものの象徴的な存在のように思えて来たのだ。
戦争を題材にした小説で今までで最も感銘を受けた一冊である。
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艦の長さ・・・263m
最大幅・・・38.9m
排水量・・・満載状態71,100トン
航続距離・・・(16ノットで)7,200浬(13,334km)
速力・・・27ノット(時速50km/h)
軸馬力・・・150、000馬力
主砲・・・46cm(18インチ)砲三連装三基計9門
副砲・・・15.5cm砲12門
搭載飛行機・・・6機
乗員数・・・2,300名
これはイギリスの主力戦艦ネルソンの214m、長門の213mより50mも長い。最大幅もネルソンの32m、長門の29mより10m長い。これほどの大きさになると操舵には高度な技術を要する。舵を曲げても、1分40秒も経ってからようやく舵がきき始める。全速時なら、この間に1.4kmも走ってしまうのだ。物量的には圧倒的な優位にあるアメリカ海軍、そのアメリカでもこれほどの規模の戦艦は造れなかった。それは太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河をどうしても通らなければならないという制約があったからだ。日本がアメリカに対抗できるためにも規模の大きさを追及するしかなかった。そのことはより大きな主砲を装備できることを可能にし、敵より遠くへ飛ばすことができるため、より早く打つことができる。主砲46cm、砲身21mを持つことは疑いもなく世界戦艦史上最大の威力を秘めた戦艦を意味した。その第一号艦を「大和」と呼び、第二号艦を「武蔵」と呼んだ。「大和」は国営の呉工廠で、「武蔵」は民間の長崎造船所で建造された同型の兄弟艦であった。
そして レイテ沖海戦において アメリカ軍機は「武蔵」一艦のみに集中攻撃をかけてきた。
昭和十二年七月七日、盧溝橋に端を発した中国大陸の戦火は、一カ月後には北平を包みこみ、次第に果てしないひろがりをみせはじめていた。
その頃、九州の漁業界に異変が起っていた。
初め、人々は、その異変に気づかなかった。が、それは、すでに半年近くも前からはじまっていたことで、ひそかに、しかしかなりの速さで九州一円の漁業界にひろがっていた。
初めに棕櫚(しゅろ)の繊維が姿を消していることに気づいたのは、有明海沿岸の海苔養殖業者たちであった。かれらは、海水の冷える頃、つまり九月末から十月はじめにかけて、海中に浮遊している海苔の胞子を附着させるため、浅い海に竹竿を林立させ、そこに棕櫚製の網を海面に水平に張る。その例年の張りかえを行うために棕櫚の網を注文したのだが、意外にも漁具商には一筋の棕櫚繊維もないことが発見された。・・・
吉村昭の『戦艦武蔵』は、壮大で、壮絶で、しかも緻密な筆致でスリリングでもあり、なかなか面白い小説である。小説というより記録文学といった方が正しいだろう。題からして、単なる戦争の場面が想像されるが、極秘で「武蔵」の建造が進められる過程が大半で、この小説の面白い部分であり、また核心部分でもある。進むうちに読者を自然と惹きこませて行き、気がつけば小説の中にどっぷりと入り込み、いかにも自分も”極秘”を守らなければならないような奇妙な錯覚にとらわれる。そして徐々に戦争の恐ろしさ、虚しさ、残酷さを、神話的象徴としての「武蔵」を通してを浮かび上がらせる。それに書き出しが実に上手い。突然「棕櫚」を持ち出し、これが何を暗示するのか推理的にも読ませる。
著者吉村昭は当時建艦に携わった三菱重工業長崎造船所の技師が秘蔵しておいた30冊に及ぶ大学ノートを基にこの小説を書いた。もともと戦争記録にまったく関心のない著者が大作を書くきっかけになった心境をあとがきで綴る。
私は、戦争を解明するのには、戦時中に人間たちが示したエネルギーを大胆に直視することからはじめるべきだという考えを抱いていた。そして、それらのエネルギーが大量の人命と物を浪費したことに、戦争というものの本質があるように思っていた。戦争は、一部のものがたしかに煽動してひき起こしたものかも知れないが、戦争を根強く持続させたのは、やはり無数の人間たちであったにちがいない。あれほど厖大な人命と物を消費した巨大なエネルギーが、終戦後言われているような極く一部のものだけでは到底維持できるものではない。このことは戦時中少年であった私は直接眼にしてきたし、その体験を通して、戦争についての作品を書いてみたいとねがっていた私は、日誌から噴き出る熱っぽい空気にあの奇妙な一時期のまぎれもない姿を見いだしたような気がして、武蔵について少しずつ知識を持ちはじめるようになった。そして、ようやく武蔵こそ、私の考えている戦争そのものの象徴的な存在のように思えて来たのだ。
戦争を題材にした小説で今までで最も感銘を受けた一冊である。
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by kirakuossan
| 2016-10-25 07:25
| 文芸
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