2016年 10月 19日
久々の吉本隆明 |
2016年10月19日(水)
小林秀雄の『真贋』という短い評論はよく知っているが、吉本隆明にも『真贋』と題した書物があった。図書館で吉村昭の小説を探していて偶然にもその本を見つけた。
久々に吉本隆明だが、この『真贋』という本、中を開けてみると、本物と贋物、批評眼、善悪二元論の限界・・・などと表題はいかにも吉本流らしい難解な文章を連想するが、実はこれが全く逆で、晩年に書かれたせいか、この人にしては随分くだけた平易な文章の随筆集である。「本物と贋物」という章から二つ挙げてみると・・・
人の器の大小
進歩派と保守派という分け方をすれば、進歩派の人間のほうが器が小さく、人望を集めることが難しいような気はします。進歩派の中でも誰からも悪口を聞かないという人を探すほうが難しいでしょう。少なくとも、いまの共産党、社民党にはいないと思います。
でも、一世代前の進歩派の人たちには、人望の厚い人がいました。僕が好きだったのは、文学関係だからと言ったらそれまでですが、中野重治です。彼は、共産党が分裂するまでは中央委員でした。もちろん文学者としても優秀な作品を書いてきた人で、戦後文学者の中でも何人かのうちに入るくらい優れていました。その考えについても、時にちょっと違うぞ、と思うところもありましたが、全般的には好きな人でした。
共産党の中央委員だった神山茂夫という人も好きな一人でした。彼は、アジア型の名残を持っていた人物で、よく言えば包容力があり、悪く言えば大雑把なところがありました。あの時代によくあるように、時には保守か進歩かで他人を排斥したり、規律についてうるさく言うこともあったのですが、ほかの人に比べれば、その度合いが少なかった人だったのです。
僕は筑摩書房の『現代日本思想大系』の「ナショナリズム」という項の編集と解説を頼まれたときに、石原慎太郎も、神山茂夫も入れようと思いました。神山茂夫には「天皇制に関する理論的諸問題」といういい論文があったので、ぜひそれを入れたいと思ったのです。
石原さんからはすぐにOKの返事があったのですが、神山さんには電話で「俺は石原君と同じ項に出るのは嫌だ」と断られそうになってしまいました。僕は困りながらも「いや、いくらどう言われても俺の責任にしてくれればいいから掲載したい。<天皇制に関する理論的諸問題>はいい論文だからぜひ」と言ってどうにか説得して、最後は何とか承知してもらったという記憶があります。
ここに出てくる中野重治、神山茂夫は戦後共産党から離脱し、志賀義雄や鈴木市蔵らとともに「日本のこえ」派を旗揚げし、1964年には日本共産党を除名された。この二人は『日本共産党批判』を出版、最期まで日本の左翼運動・文学運動で活動した。筑摩書房の思想大系の話は半世紀前のことだが、築地市場の豊洲移転問題の石原慎太郎が登場したり、神山茂夫の「天皇制に関する」論文も、今のこの時期の争点に偶然にも重なる。
それにしても小池氏もやりますな、他人事のように逃れる都知事の前々々任者に対して「都合の悪いことを教えていただかないと」「これまでの作家生活や都知事を続けたご功績を無になさらないようにしていただきたい」と厳しく言い放った。
田中角栄の魅力
新潟県の長岡のある文芸雑誌の集まりに、何回か良寛の話をしてくれと頼まれて行ったことがあります。呼んでくれたのは、かつて全学連をやっていて、いまはあのあたりの高校や中学の先生となり、同人雑誌をつくっている人たちでした。
長岡で実際に話をしてわかったのは、少なくとも、長岡、あるいは新潟地区では、学生運動をやったような激しい連中でも、田中角栄のことを悪く言う人はいないということです。
そんな経験からわかるのですが、田中角栄はアジア型の政治家として、日本最後の人だったというのが僕の評価です。
日本のアジア型政治家の最初の人は西郷隆盛です。それはどういうことかというと、いわゆる根拠地型です。つまり、郷土の期待を担って、中央に出てきて政治をやるというタイプの政治家のことです。
西郷が故郷に帰って在野の人間になってからも、まわりの故郷の人たちはずっと西郷を尊敬し、大切に思っていました。西南戦争で中央政府と戦うことになっても、必死で西郷を守ろうとしたのです。これは、根拠地型、アジア型政治家の特徴です。
その名残を最後まで引き継いだのが、田中角栄だったというわけです。その後も、何度か長岡行って、元学生運動の闘士の連中と話をしましたが、本当に一人として田中角栄の悪口を言う者はいない。それはただ、故郷のために道路をつくったからといった単純な理由だけではないものを感じました。
この本は2006年、ちょうど10年前、吉本隆明が亡くなる6年前の80歳を越えた時に書いている。今では”吉本ばななのお父さん”の方が通りがいいくらいになったが、半世紀前は、それこそ学生運動家たちにとってバイブル的な存在の人物であった。当時、高橋和己や吉本隆明の本を小脇に携えて歩くのが一つのステータスシンボルでもあった。当の私めも例に洩れず何冊か買って読もうとしたが、何を読んでも難しすぎて、まるきりチンプンカンプンであった。
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小林秀雄の『真贋』という短い評論はよく知っているが、吉本隆明にも『真贋』と題した書物があった。図書館で吉村昭の小説を探していて偶然にもその本を見つけた。
久々に吉本隆明だが、この『真贋』という本、中を開けてみると、本物と贋物、批評眼、善悪二元論の限界・・・などと表題はいかにも吉本流らしい難解な文章を連想するが、実はこれが全く逆で、晩年に書かれたせいか、この人にしては随分くだけた平易な文章の随筆集である。「本物と贋物」という章から二つ挙げてみると・・・
人の器の大小
進歩派と保守派という分け方をすれば、進歩派の人間のほうが器が小さく、人望を集めることが難しいような気はします。進歩派の中でも誰からも悪口を聞かないという人を探すほうが難しいでしょう。少なくとも、いまの共産党、社民党にはいないと思います。
でも、一世代前の進歩派の人たちには、人望の厚い人がいました。僕が好きだったのは、文学関係だからと言ったらそれまでですが、中野重治です。彼は、共産党が分裂するまでは中央委員でした。もちろん文学者としても優秀な作品を書いてきた人で、戦後文学者の中でも何人かのうちに入るくらい優れていました。その考えについても、時にちょっと違うぞ、と思うところもありましたが、全般的には好きな人でした。
共産党の中央委員だった神山茂夫という人も好きな一人でした。彼は、アジア型の名残を持っていた人物で、よく言えば包容力があり、悪く言えば大雑把なところがありました。あの時代によくあるように、時には保守か進歩かで他人を排斥したり、規律についてうるさく言うこともあったのですが、ほかの人に比べれば、その度合いが少なかった人だったのです。
僕は筑摩書房の『現代日本思想大系』の「ナショナリズム」という項の編集と解説を頼まれたときに、石原慎太郎も、神山茂夫も入れようと思いました。神山茂夫には「天皇制に関する理論的諸問題」といういい論文があったので、ぜひそれを入れたいと思ったのです。
石原さんからはすぐにOKの返事があったのですが、神山さんには電話で「俺は石原君と同じ項に出るのは嫌だ」と断られそうになってしまいました。僕は困りながらも「いや、いくらどう言われても俺の責任にしてくれればいいから掲載したい。<天皇制に関する理論的諸問題>はいい論文だからぜひ」と言ってどうにか説得して、最後は何とか承知してもらったという記憶があります。
ここに出てくる中野重治、神山茂夫は戦後共産党から離脱し、志賀義雄や鈴木市蔵らとともに「日本のこえ」派を旗揚げし、1964年には日本共産党を除名された。この二人は『日本共産党批判』を出版、最期まで日本の左翼運動・文学運動で活動した。筑摩書房の思想大系の話は半世紀前のことだが、築地市場の豊洲移転問題の石原慎太郎が登場したり、神山茂夫の「天皇制に関する」論文も、今のこの時期の争点に偶然にも重なる。
それにしても小池氏もやりますな、他人事のように逃れる都知事の前々々任者に対して「都合の悪いことを教えていただかないと」「これまでの作家生活や都知事を続けたご功績を無になさらないようにしていただきたい」と厳しく言い放った。
田中角栄の魅力
新潟県の長岡のある文芸雑誌の集まりに、何回か良寛の話をしてくれと頼まれて行ったことがあります。呼んでくれたのは、かつて全学連をやっていて、いまはあのあたりの高校や中学の先生となり、同人雑誌をつくっている人たちでした。
長岡で実際に話をしてわかったのは、少なくとも、長岡、あるいは新潟地区では、学生運動をやったような激しい連中でも、田中角栄のことを悪く言う人はいないということです。
そんな経験からわかるのですが、田中角栄はアジア型の政治家として、日本最後の人だったというのが僕の評価です。
日本のアジア型政治家の最初の人は西郷隆盛です。それはどういうことかというと、いわゆる根拠地型です。つまり、郷土の期待を担って、中央に出てきて政治をやるというタイプの政治家のことです。
西郷が故郷に帰って在野の人間になってからも、まわりの故郷の人たちはずっと西郷を尊敬し、大切に思っていました。西南戦争で中央政府と戦うことになっても、必死で西郷を守ろうとしたのです。これは、根拠地型、アジア型政治家の特徴です。
その名残を最後まで引き継いだのが、田中角栄だったというわけです。その後も、何度か長岡行って、元学生運動の闘士の連中と話をしましたが、本当に一人として田中角栄の悪口を言う者はいない。それはただ、故郷のために道路をつくったからといった単純な理由だけではないものを感じました。
この本は2006年、ちょうど10年前、吉本隆明が亡くなる6年前の80歳を越えた時に書いている。今では”吉本ばななのお父さん”の方が通りがいいくらいになったが、半世紀前は、それこそ学生運動家たちにとってバイブル的な存在の人物であった。当時、高橋和己や吉本隆明の本を小脇に携えて歩くのが一つのステータスシンボルでもあった。当の私めも例に洩れず何冊か買って読もうとしたが、何を読んでも難しすぎて、まるきりチンプンカンプンであった。
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by kirakuossan
| 2016-10-19 21:30
| 文芸
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