2016年 10月 06日
モーツァルトの不思議 |
2016年10月6日(木)
いつも思うことだが、モーツァルトはピアノ関連の楽曲にすぐれた作品が多いように思う。朝によく聴くイングリット・ヘブラーのピアノ・ソナタはどれも心和むし、27曲のピアノ協奏曲は堂々とオーケストラと渡り合い、しかもそれぞれに異なった趣をもった極致の出来ばえである。そんなモーツァルトの音楽を、ピアノ以外でも、もちろん交響曲やディヴェルティメントやセレナーデ、あるいはオペラも含めて、聴衆を魅了する。それは他の作曲家とは少し様子が違い、普段クラシック音楽をほとんど耳にしない俄かファンなどもこぞって演奏会に出向く。それはモーツァルトだから聴こうかな、といった風である。
そんなモーツァルトだが、不思議なことに生前は彼の音楽はウィーンの聴衆の好みに合うような曲ではなく、言うほどには世間では認められなかった。信じられないが本当のようである。そのことは彼の作品の多くが楽譜出版されたのは死後であるという事実が示す。ベートーヴェンは若くしてベストセラーの作曲家となり、友人に宛てた手紙にも「書くそばから出版屋に望まれて売れていく。中には一曲を出版屋の取り合いになったりする」とある。ハイドンにしたって最初はたしかにエステルハージ家お抱えの音楽家に過ぎなかったが、40歳を越えたあたりから、オーストリアやドイツはもちろんフランスやイギリスの楽譜出版社から引っ張りだこになったぐらいだ。それにひきかえモーツァルトは、たとえば27曲あるピアノ・コンチェルトだが、第1番を除いて他はすべて自筆の原稿が残っているが、このなかで生前に楽譜出版されたのは1/4ほどのわずかに7曲しかなかった。あの有名な第26番「戴冠式」でさえも未発表であった。
ところが不思議なことにあれほどさっぱり売れなかったモーツァルトの楽譜は皮肉にも彼が亡くなった直後から売れ出すようになる。それは亡くなる年の1791年に作曲した最後のオペラ『魔笛』の大成功がきっかけとなって評判を生んだためだ。初演は1791年9月30日、ヴィーデン劇場で行なわれ、モーツァルトは妻に「アントニオ・サリエリが愛人カヴァリエリとともに公演を聴きに来て大いに賞賛した」と手紙を書いている。定かでないが「才能を妬んでモーツァルトを毒殺した」とも噂されたサリエリのことを最後の手紙で書いていることも皮肉だが、その2か月後にモーツァルトは帰らぬ人となった。彼は死の床にあっても『魔笛』の上演の様子を気にしていたという。
そしてモーツァルト人気が今のように本格的になるのは、後のドイツ・ロマン派の音楽家や思想家たちによって注目され始めてからのことである。生前当時の聴衆の好みに合わず、後になってから神聖化された意味ではバッハに似ているともいえる。
ここで幸いに思うのは、売れなかった多くの未発表の楽譜をモーツァルトの未亡人からひとまとめにして買ってくれた音楽出版者で作曲家のヨハン・アントン・アンドレという人物がいたことだ。もしそんな機会がなく、方々に散逸してしまっていたら、今頃、あの魅惑のピアノ・コンチェルトの多くを我々が耳にすることは決してなかったであろう。その270にも及ぶ大量の自筆譜にはいくつかのピアノ・コンチェルトのほか、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』や『フィガロの結婚』、『魔笛』なども含まれていた。それこそ今月29日、びわ湖ホールでのプラハ歌劇場の『魔笛』公演大いに楽しみにしているが、その『魔笛』さえ永遠に聴くことができなかったかもしれないのである。
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いつも思うことだが、モーツァルトはピアノ関連の楽曲にすぐれた作品が多いように思う。朝によく聴くイングリット・ヘブラーのピアノ・ソナタはどれも心和むし、27曲のピアノ協奏曲は堂々とオーケストラと渡り合い、しかもそれぞれに異なった趣をもった極致の出来ばえである。そんなモーツァルトの音楽を、ピアノ以外でも、もちろん交響曲やディヴェルティメントやセレナーデ、あるいはオペラも含めて、聴衆を魅了する。それは他の作曲家とは少し様子が違い、普段クラシック音楽をほとんど耳にしない俄かファンなどもこぞって演奏会に出向く。それはモーツァルトだから聴こうかな、といった風である。
そんなモーツァルトだが、不思議なことに生前は彼の音楽はウィーンの聴衆の好みに合うような曲ではなく、言うほどには世間では認められなかった。信じられないが本当のようである。そのことは彼の作品の多くが楽譜出版されたのは死後であるという事実が示す。ベートーヴェンは若くしてベストセラーの作曲家となり、友人に宛てた手紙にも「書くそばから出版屋に望まれて売れていく。中には一曲を出版屋の取り合いになったりする」とある。ハイドンにしたって最初はたしかにエステルハージ家お抱えの音楽家に過ぎなかったが、40歳を越えたあたりから、オーストリアやドイツはもちろんフランスやイギリスの楽譜出版社から引っ張りだこになったぐらいだ。それにひきかえモーツァルトは、たとえば27曲あるピアノ・コンチェルトだが、第1番を除いて他はすべて自筆の原稿が残っているが、このなかで生前に楽譜出版されたのは1/4ほどのわずかに7曲しかなかった。あの有名な第26番「戴冠式」でさえも未発表であった。
ところが不思議なことにあれほどさっぱり売れなかったモーツァルトの楽譜は皮肉にも彼が亡くなった直後から売れ出すようになる。それは亡くなる年の1791年に作曲した最後のオペラ『魔笛』の大成功がきっかけとなって評判を生んだためだ。初演は1791年9月30日、ヴィーデン劇場で行なわれ、モーツァルトは妻に「アントニオ・サリエリが愛人カヴァリエリとともに公演を聴きに来て大いに賞賛した」と手紙を書いている。定かでないが「才能を妬んでモーツァルトを毒殺した」とも噂されたサリエリのことを最後の手紙で書いていることも皮肉だが、その2か月後にモーツァルトは帰らぬ人となった。彼は死の床にあっても『魔笛』の上演の様子を気にしていたという。
そしてモーツァルト人気が今のように本格的になるのは、後のドイツ・ロマン派の音楽家や思想家たちによって注目され始めてからのことである。生前当時の聴衆の好みに合わず、後になってから神聖化された意味ではバッハに似ているともいえる。
ここで幸いに思うのは、売れなかった多くの未発表の楽譜をモーツァルトの未亡人からひとまとめにして買ってくれた音楽出版者で作曲家のヨハン・アントン・アンドレという人物がいたことだ。もしそんな機会がなく、方々に散逸してしまっていたら、今頃、あの魅惑のピアノ・コンチェルトの多くを我々が耳にすることは決してなかったであろう。その270にも及ぶ大量の自筆譜にはいくつかのピアノ・コンチェルトのほか、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』や『フィガロの結婚』、『魔笛』なども含まれていた。それこそ今月29日、びわ湖ホールでのプラハ歌劇場の『魔笛』公演大いに楽しみにしているが、その『魔笛』さえ永遠に聴くことができなかったかもしれないのである。
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by kirakuossan
| 2016-10-06 12:01
| クラシック
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