2016年 10月 04日
加藤周一と信州で出逢った人たち 4 |
2016年10月4日(火)
1970年代に詩人福永武彦(1918~79)は、信濃追分の油屋の裏手の林に住んで(その家の前には、半ば草に蔽われた小川が流れていた)、閑かに病身を養い、小鳥の声を聞いたり、草花を写生したり、ゴーギャンの画集を眺めたりしていた。信濃追分は彼のタヒチだったのかもしれない。アレクサンドル・デュマ(父)の小説を読んでいたこともある。デュマは『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』など波瀾万丈の歴史冒険小説の作家として有名だが、福永はその文章がよく、会話の扱いが面白い、と言っていた。
私は70年代を外国で暮らしていたので、夏の追分へ戻ることは稀で、彼に会うことも少なかった。
加藤周一の信濃追分の別荘の近くには1歳年長の福永武彦も住んでいたが、加藤が帰国して福永と久しぶりに顔を合わして、彼の衰弱ぶりに驚き、すぐに有能な外科医を手配し、胃の手術に成功するが、その翌日福永は脳内出血で急死する。
加藤は学生時代から文学に関心を寄せ、在学中に中村真一郎や福永武彦らと「マチネ・ポエティク」を結成、その一員として韻律を持った日本語詩を発表した。福永とはその頃からの旧い付き合いであった。また福永は中村真一郎とともに堀辰雄の薫陶を受け、『堀辰雄全集』の編纂にかかわったこともあった。
1988年に福永の小説『世界の終り』のイタリア語訳が出た。その小さな本は実に美しく仕上がっていて、もしイタリアの文化とイタリア語をあれほど好んだ福永が生きていたら、どんなに喜んだろうか、と思われた。
La Fine del Mondo Introduzione di Kato Shuichi ,A cura di Graziana Canova Marsilio ,Venezia 『世界の終り』 序文・加藤周一 グラチアーナ・カノーヴァ監訳 マルシリオ社 ヴェネチア
彼は私がその本のために書いた序文を批判しながら、破顔一笑したことであろう。私は彼ほど友情に厚い人物を他に知らない。
中村真一郎(1918~1997)は学生の頃から夏を浅間山麓の高原で過ごすことが多かった。彼が東京で寄宿していた家の別荘が千ヶ滝にあり、そこへ来たこともあり、堀辰雄を訪ねて追分の油屋に泊まっていたこともある。堀さんの崇拝者の一人であった関西の青年の父親が、息子のために買った旧軽井沢の家(誰かがその家を「熊の家(ベア・ハウス)」と名付けた)に何人かの若者たちと共同生活をしていたこともある。それは遠い昔、われわれが大学を卒業して間もない頃、戦中から戦後にかけての話である。
中村真一郎は小説家や詩人とそして文芸評論家としても知られた存在だった。彼が最後まで関心をもちつづけたのが、小説の方法で、欧米の「20世紀小説」と呼ばれた文学動向に関心をもち、自らの作品の文体表現にまで生かすことを終生の課題とした。
話し相手としての中村真一郎は多くの人々に、有ること無いこと取りまぜて面白おかしく喋りつづける愉快な語り手として記憶されているだろう。しかしそれだけではなく、彼には実に豊かで新鮮な独創的着想があった。戦後の詩壇で脚韻を含む「定型詩」の意味を強調したのは彼であり、小説について「方法論」の鋭い意識を導入したのも彼である。また新しい視点から古典文芸を読んで独創的な解釈を示したのは、「色好み」の観点からみた平安朝文芸や文学的「サロン」の考えに導かれた江戸時代の文人の交流についての著作からもあきらかだろう。彼との接触から受ける知的刺激は、著作を通しても会話においても、すばらしく、余人を以て換え難かった。私は今も失われし中村真一郎をもとめて、彼との時間を思い出すことが多い。あまりに短かかりし信州の夏の光のきらめきと共に。
加藤周一著『高原好日』より。。。
つづく・・・
.
1970年代に詩人福永武彦(1918~79)は、信濃追分の油屋の裏手の林に住んで(その家の前には、半ば草に蔽われた小川が流れていた)、閑かに病身を養い、小鳥の声を聞いたり、草花を写生したり、ゴーギャンの画集を眺めたりしていた。信濃追分は彼のタヒチだったのかもしれない。アレクサンドル・デュマ(父)の小説を読んでいたこともある。デュマは『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』など波瀾万丈の歴史冒険小説の作家として有名だが、福永はその文章がよく、会話の扱いが面白い、と言っていた。
私は70年代を外国で暮らしていたので、夏の追分へ戻ることは稀で、彼に会うことも少なかった。
加藤周一の信濃追分の別荘の近くには1歳年長の福永武彦も住んでいたが、加藤が帰国して福永と久しぶりに顔を合わして、彼の衰弱ぶりに驚き、すぐに有能な外科医を手配し、胃の手術に成功するが、その翌日福永は脳内出血で急死する。
加藤は学生時代から文学に関心を寄せ、在学中に中村真一郎や福永武彦らと「マチネ・ポエティク」を結成、その一員として韻律を持った日本語詩を発表した。福永とはその頃からの旧い付き合いであった。また福永は中村真一郎とともに堀辰雄の薫陶を受け、『堀辰雄全集』の編纂にかかわったこともあった。
1988年に福永の小説『世界の終り』のイタリア語訳が出た。その小さな本は実に美しく仕上がっていて、もしイタリアの文化とイタリア語をあれほど好んだ福永が生きていたら、どんなに喜んだろうか、と思われた。
La Fine del Mondo Introduzione di Kato Shuichi ,A cura di Graziana Canova Marsilio ,Venezia 『世界の終り』 序文・加藤周一 グラチアーナ・カノーヴァ監訳 マルシリオ社 ヴェネチア
彼は私がその本のために書いた序文を批判しながら、破顔一笑したことであろう。私は彼ほど友情に厚い人物を他に知らない。
中村真一郎(1918~1997)は学生の頃から夏を浅間山麓の高原で過ごすことが多かった。彼が東京で寄宿していた家の別荘が千ヶ滝にあり、そこへ来たこともあり、堀辰雄を訪ねて追分の油屋に泊まっていたこともある。堀さんの崇拝者の一人であった関西の青年の父親が、息子のために買った旧軽井沢の家(誰かがその家を「熊の家(ベア・ハウス)」と名付けた)に何人かの若者たちと共同生活をしていたこともある。それは遠い昔、われわれが大学を卒業して間もない頃、戦中から戦後にかけての話である。
中村真一郎は小説家や詩人とそして文芸評論家としても知られた存在だった。彼が最後まで関心をもちつづけたのが、小説の方法で、欧米の「20世紀小説」と呼ばれた文学動向に関心をもち、自らの作品の文体表現にまで生かすことを終生の課題とした。
話し相手としての中村真一郎は多くの人々に、有ること無いこと取りまぜて面白おかしく喋りつづける愉快な語り手として記憶されているだろう。しかしそれだけではなく、彼には実に豊かで新鮮な独創的着想があった。戦後の詩壇で脚韻を含む「定型詩」の意味を強調したのは彼であり、小説について「方法論」の鋭い意識を導入したのも彼である。また新しい視点から古典文芸を読んで独創的な解釈を示したのは、「色好み」の観点からみた平安朝文芸や文学的「サロン」の考えに導かれた江戸時代の文人の交流についての著作からもあきらかだろう。彼との接触から受ける知的刺激は、著作を通しても会話においても、すばらしく、余人を以て換え難かった。私は今も失われし中村真一郎をもとめて、彼との時間を思い出すことが多い。あまりに短かかりし信州の夏の光のきらめきと共に。
加藤周一著『高原好日』より。。。
つづく・・・
.
by kirakuossan
| 2016-10-04 13:24
| 文芸
|
Trackback