2016年 10月 03日
加藤周一と信州で出逢った人たち 2 |
2016年10月3日(月)
私は彼にニューヘヴン(コネティカット州)で会い、東京で会い、信州で会った。信州では彼が御代田に、私が信濃追分に住んでいたので、いわば隣人でもあった。そして音楽の話にかぎらず、よもやま話をした。たとえば日本酒の味の豊かなこと、パウル・クレーの色彩の微妙なこと、日本の政治家たちが何を考えているのかよくわからなぬこと、あるいは何も考えていないのかもしれないこと、旅路の果てに(彼は世界中で仕事をしていた)異文化接触の思いがけない経験をすること、その相手は必ずしも異国人ではなく日本の役人の「文化」でもあり得ることなど。
彼の酒はよかった。愉しそうに、悪意のない、しかししばしば鋭い「ヒューモア」に溢れる一口噺を語ったりした。~
武満徹はphotogenic であった(写真写りが良かった)と私は思う。殊に御代田の林のなかの径にひとりで立っている写真が実に良い。彼の眼は、あの生き生きとして静かな、聡明で優しい眼は、内面に向っている。シェーベルクも言ったように、そのとき彼は内面に動く音楽を聴いていたのかもしれない。地中海の夜空の星座を思い、蒙古の大草原に疾駆し、宇宙のはるかな響きに共鳴し・・・。私はそれほど美しい眼を見たことがない。「そこでは眼が考える」という言葉(ブルーノ・タウト)を、彼の写真を見る度に私は思い出す。
信州御代田は佐久の北東、小諸に隣接し、ここから少し軽井沢方面へ行くと信濃追分である。浅間山の裾野が広がる閑静な山中である。武満徹(1930~96)の御代田の林のなかの写真を探したが、全体像が写っているのはなかったが、おそらくこの写真のような気がする。
加藤周一にとって信州での思い出の音楽家にもう一人、兼常清佐(1885~1957)がいた。といっても兼常とは直接話したことはない。最初に出会ったのは小学生のときに読んだ子供向けの音楽に関する文章でのことであった。
それからさらに年月が経ち、ある年の夏、信濃追分の駅で私は異様な風体の人物に気づいた。白髪混じりの蓬髪、着流しの腰に帯ではなく縄を巻き、飄飄として杖を曳くその姿は、さながら水墨画中の寒山拾得に似ていた。~
兼常清佐はたしかに私の交友録中の人物ではない。しかし信州の夏の想像上の話し相手の一人である。
彼は京都で哲学と日本の古典音楽を、東京でピアノを、ベルリーンで音楽学を、再び東京で物理現象としての音楽を学んだ。なぜ縄の帯をしめて信濃追分の駅にあらわれたのか。それはわからない。もしかすると、夏の高原の雲の峰の輝きを愛していたのかもしれない。ショパンのアルベジオのきらめきを愛したように。想像上の交友もその人の愛するものを愛するところから起こる。
加藤周一著『高原好日』より。。。
つづく・・・
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私は彼にニューヘヴン(コネティカット州)で会い、東京で会い、信州で会った。信州では彼が御代田に、私が信濃追分に住んでいたので、いわば隣人でもあった。そして音楽の話にかぎらず、よもやま話をした。たとえば日本酒の味の豊かなこと、パウル・クレーの色彩の微妙なこと、日本の政治家たちが何を考えているのかよくわからなぬこと、あるいは何も考えていないのかもしれないこと、旅路の果てに(彼は世界中で仕事をしていた)異文化接触の思いがけない経験をすること、その相手は必ずしも異国人ではなく日本の役人の「文化」でもあり得ることなど。
彼の酒はよかった。愉しそうに、悪意のない、しかししばしば鋭い「ヒューモア」に溢れる一口噺を語ったりした。~
武満徹はphotogenic であった(写真写りが良かった)と私は思う。殊に御代田の林のなかの径にひとりで立っている写真が実に良い。彼の眼は、あの生き生きとして静かな、聡明で優しい眼は、内面に向っている。シェーベルクも言ったように、そのとき彼は内面に動く音楽を聴いていたのかもしれない。地中海の夜空の星座を思い、蒙古の大草原に疾駆し、宇宙のはるかな響きに共鳴し・・・。私はそれほど美しい眼を見たことがない。「そこでは眼が考える」という言葉(ブルーノ・タウト)を、彼の写真を見る度に私は思い出す。
信州御代田は佐久の北東、小諸に隣接し、ここから少し軽井沢方面へ行くと信濃追分である。浅間山の裾野が広がる閑静な山中である。武満徹(1930~96)の御代田の林のなかの写真を探したが、全体像が写っているのはなかったが、おそらくこの写真のような気がする。
加藤周一にとって信州での思い出の音楽家にもう一人、兼常清佐(1885~1957)がいた。といっても兼常とは直接話したことはない。最初に出会ったのは小学生のときに読んだ子供向けの音楽に関する文章でのことであった。
それからさらに年月が経ち、ある年の夏、信濃追分の駅で私は異様な風体の人物に気づいた。白髪混じりの蓬髪、着流しの腰に帯ではなく縄を巻き、飄飄として杖を曳くその姿は、さながら水墨画中の寒山拾得に似ていた。~
兼常清佐はたしかに私の交友録中の人物ではない。しかし信州の夏の想像上の話し相手の一人である。
彼は京都で哲学と日本の古典音楽を、東京でピアノを、ベルリーンで音楽学を、再び東京で物理現象としての音楽を学んだ。なぜ縄の帯をしめて信濃追分の駅にあらわれたのか。それはわからない。もしかすると、夏の高原の雲の峰の輝きを愛していたのかもしれない。ショパンのアルベジオのきらめきを愛したように。想像上の交友もその人の愛するものを愛するところから起こる。
加藤周一著『高原好日』より。。。
つづく・・・
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by kirakuossan
| 2016-10-03 13:39
| 文芸
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