2016年 06月 21日
ふたりの恩師 |
2016年6月21日(火)
小澤征爾がヨーロッパへ行くとき恩師の斉藤秀雄は猛反対した。自分の助手的な役割がいなくなるのを懸念したのだろう。吉田秀和の話で以前読んだことがあるが、斉藤秀雄は桐朋の教授会で「小澤は第九をまだ振っていないから卒業させられない」と横車を入れた。それでもヨーロッパ行は決行することになっていざ出発の日、恩師斉藤秀雄(1902~74)が東京駅まで小澤を見送りにきた。
小澤:
いやもう感激してね、まず先生が来てくれると思わないでしょう。来てくれただけでも僕はうれしかったのに、「おまえ、ほら、この間ブリュッセルに行った時余ったから、使っていいよ」って。見たらね、ドルがあるわけ。それまで千ドル集めるのが大変だったんだから。それが目の前にぱーっとあるわけ。わあーあるなと思ったら、感激しちゃって、勘定できなかったけれど、一瞬返そうかなと思ったけど、返せなかった。でも帰ってきたらいつか返そうとは思ったよ。
武満:
先生というのはそういうもんなんだよ。斉藤先生は喜んでおられたんだよ。あたりまえだと思っておられたんだよ。だからいまでも夢に出てくるんだ(笑)
~~~
小澤:
先生は死ぬ三週間か四週間前に桐朋のオーケストラの連中を引きつれて合宿に行っているの。そこで、車椅子に乗って最後の指揮したの。モーツァルトの「喜遊曲」ニ長調K136。先生は本当は縦の指揮者なのね。それがその最後の演奏では完全に横の指揮者になっているのね。生徒には縦のけじめを要求しつづけてきた先生が、はじめてけじめをとっぱして、横の指揮者になっているの。生徒は先生が病気で死ぬことはみんな知っているから、みんな泣きながら弾いているの、心の中で。全員が先生の手を見つめているから信じられないくらい音がぴったり合っているの。僕はいまでもそのテープを持ち歩いて、先生のことを思い出すたびにそれをかけるんだけれどね。そのテープは学生がみんな持っている。死ぬことを知っていたから録音しておいたの、学生が。宿屋の人の話声が背景から聞こえてくるようなテープなんだけれど、聴いているうちに涙が出てくるんだ。
武満:
感動的な話だね。
小澤:
西洋音楽と全く関係なかった日本に、本格的な西洋音楽を持ち込んだ人が三人いる。近衛秀麿さんと山田耕筰さんと斉藤秀雄先生。そのなかで斉藤先生は演奏の面で一番真髄に行った人です。ドイツにも行って、ひたすら音楽だけを人生の中心に置いた人です。
モーツァルト:
ディヴェルティメント ニ長調 K. 136
コンチェルト・ケルン
作曲家武満徹の恩師は清瀬保二(1900~81)、ストラヴィンスキー、そしてメシアンである。
いま清瀬保二という人の写真をみて、そこからにじみ出る印象は、なんと温和で優しい素晴らしい人なんだろう・・・と。
武満:
僕にとって清瀬保二さんは本当にいい先生だった。僕があるときたまたま日本の作曲家の演奏会に行って清瀬さんが書いたヴァイオリン・ソナタに感動してね。どうしてもこの人に自分の曲を見てもらいたいと思ったわけよ。それで会いに行ったの。そしたら留守で、ずうーっと待っていたら、夜更けて遅く帰ってこられた。それから僕の書いた譜面をピアノで弾いてくれたの。そのころは僕はピアノなんか持ってなかったからね、弾いて貰えるだけでもうれしかった。弾きながら、清瀬さんが「きれいな音だねェ-」と言ってくれたんだ。
小澤:
何ていう曲、それ。
武満:
ピアノ曲。昔、腹立てて燃やしちゃったから失くなちゃったけどね。音がきれいだと言ってくださってね、いつでも作品持っていらっしゃいと言われて、それはうれしかった。尊敬している人に言われたんだから。初めての聴衆だろ、うれしかったな。
小澤征爾と武満徹の対談集『音楽』(新潮文庫)より
武満徹がデビュー以前はピアノを買う金がなく、本郷から日暮里にかけて街を歩いていてピアノの音が聞こえると、そこへ出向いてピアノを弾かせてもらっていたという話は有名で、芥川也寸志を介してそれを知った黛敏郎は武満とは面識がなかったにもかかわらず妻のピアノをプレゼントしたという。これも有名な逸話である。
清瀬保二:
東海の
笛
マルク・グローウェルス(フルート)
正木裕子(ソプラノ)
イングリッド・プロキュルール(ハープ)
武満徹:
ロマンス
(このピアノ曲は恩師清瀬保二に献呈された)
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小澤征爾がヨーロッパへ行くとき恩師の斉藤秀雄は猛反対した。自分の助手的な役割がいなくなるのを懸念したのだろう。吉田秀和の話で以前読んだことがあるが、斉藤秀雄は桐朋の教授会で「小澤は第九をまだ振っていないから卒業させられない」と横車を入れた。それでもヨーロッパ行は決行することになっていざ出発の日、恩師斉藤秀雄(1902~74)が東京駅まで小澤を見送りにきた。
小澤:
いやもう感激してね、まず先生が来てくれると思わないでしょう。来てくれただけでも僕はうれしかったのに、「おまえ、ほら、この間ブリュッセルに行った時余ったから、使っていいよ」って。見たらね、ドルがあるわけ。それまで千ドル集めるのが大変だったんだから。それが目の前にぱーっとあるわけ。わあーあるなと思ったら、感激しちゃって、勘定できなかったけれど、一瞬返そうかなと思ったけど、返せなかった。でも帰ってきたらいつか返そうとは思ったよ。
武満:
先生というのはそういうもんなんだよ。斉藤先生は喜んでおられたんだよ。あたりまえだと思っておられたんだよ。だからいまでも夢に出てくるんだ(笑)
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小澤:
先生は死ぬ三週間か四週間前に桐朋のオーケストラの連中を引きつれて合宿に行っているの。そこで、車椅子に乗って最後の指揮したの。モーツァルトの「喜遊曲」ニ長調K136。先生は本当は縦の指揮者なのね。それがその最後の演奏では完全に横の指揮者になっているのね。生徒には縦のけじめを要求しつづけてきた先生が、はじめてけじめをとっぱして、横の指揮者になっているの。生徒は先生が病気で死ぬことはみんな知っているから、みんな泣きながら弾いているの、心の中で。全員が先生の手を見つめているから信じられないくらい音がぴったり合っているの。僕はいまでもそのテープを持ち歩いて、先生のことを思い出すたびにそれをかけるんだけれどね。そのテープは学生がみんな持っている。死ぬことを知っていたから録音しておいたの、学生が。宿屋の人の話声が背景から聞こえてくるようなテープなんだけれど、聴いているうちに涙が出てくるんだ。
武満:
感動的な話だね。
小澤:
西洋音楽と全く関係なかった日本に、本格的な西洋音楽を持ち込んだ人が三人いる。近衛秀麿さんと山田耕筰さんと斉藤秀雄先生。そのなかで斉藤先生は演奏の面で一番真髄に行った人です。ドイツにも行って、ひたすら音楽だけを人生の中心に置いた人です。
モーツァルト:
ディヴェルティメント ニ長調 K. 136
コンチェルト・ケルン
作曲家武満徹の恩師は清瀬保二(1900~81)、ストラヴィンスキー、そしてメシアンである。
いま清瀬保二という人の写真をみて、そこからにじみ出る印象は、なんと温和で優しい素晴らしい人なんだろう・・・と。
武満:
僕にとって清瀬保二さんは本当にいい先生だった。僕があるときたまたま日本の作曲家の演奏会に行って清瀬さんが書いたヴァイオリン・ソナタに感動してね。どうしてもこの人に自分の曲を見てもらいたいと思ったわけよ。それで会いに行ったの。そしたら留守で、ずうーっと待っていたら、夜更けて遅く帰ってこられた。それから僕の書いた譜面をピアノで弾いてくれたの。そのころは僕はピアノなんか持ってなかったからね、弾いて貰えるだけでもうれしかった。弾きながら、清瀬さんが「きれいな音だねェ-」と言ってくれたんだ。
小澤:
何ていう曲、それ。
武満:
ピアノ曲。昔、腹立てて燃やしちゃったから失くなちゃったけどね。音がきれいだと言ってくださってね、いつでも作品持っていらっしゃいと言われて、それはうれしかった。尊敬している人に言われたんだから。初めての聴衆だろ、うれしかったな。
小澤征爾と武満徹の対談集『音楽』(新潮文庫)より
武満徹がデビュー以前はピアノを買う金がなく、本郷から日暮里にかけて街を歩いていてピアノの音が聞こえると、そこへ出向いてピアノを弾かせてもらっていたという話は有名で、芥川也寸志を介してそれを知った黛敏郎は武満とは面識がなかったにもかかわらず妻のピアノをプレゼントしたという。これも有名な逸話である。
清瀬保二:
東海の
笛
マルク・グローウェルス(フルート)
正木裕子(ソプラノ)
イングリッド・プロキュルール(ハープ)
武満徹:
ロマンス
(このピアノ曲は恩師清瀬保二に献呈された)
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by kirakuossan
| 2016-06-21 09:48
| クラシック
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