2016年 06月 09日
「古都をつらぬくエルベ川のように、ドイツ音楽の歴史を流れつづけている」 |
2016年6月9日(木)
レコードを聴きだして、良質の響きもさることながら、そこに書かれた充実したライナー・ノーツにも感心しきりである。今のCDではここまではいかないし、内容にしても一辺倒で疑わしいものも多い。文章にいたってはあまりにも拙いものが多い。
ドイツのロマン主義音楽は、またベートーヴェンの在世中、すでにシューベルトやウェーバーによって、その最初の息吹をめばえさせた。つづいて、メンデルスゾーンやシューマンによって華やかに発展され、19世紀の中葉、ブラームスによって、ドイツ・ロマン主義は高潮点に達したのである。
1853年、20歳の青年ブラームスは、デュッセルドルフにシューマンを訪ねた。シューマンは、ブラームスを暖かく迎え、<新しき道>という評論を書いて、若きロマン主義者の出発を祝福した。しかもシューマン自身は、その翌年、ライン河に身を投げてしまったのであった。
ブラームスは、その後もしばらく、シューマンの未亡人となったクララのそばにいたが、1857年、24歳からデトモルトに住み、一時は大学教授の令嬢アガーテと婚約までしたが、ついに結婚せず、1862年からウィーンに定住するようになった。29歳のときのことである。こうしてブラームスの偉大な創造の時期がはじまった・・・
という書き出しでブラームスの交響曲第1番ハ短調が紹介される。この文章は、当時ハイドン研究家として知られ音楽学者として第一人者のひとりでもあった大宮真琴氏のものである。さり気であるが、短いなかにも完璧に要約された400余りの文字は、どの音楽史よりも優れたものと言えるだろう。そんな文章がレコード裏面の広いスペースにびっしりと書き尽くされているのである。しかももう一枚大きな紙が入っていて、これには別の音楽評論家が指揮者クルト・ザンデルリンクを通して、当時のドイツの音楽事情について触れている。これだって、ひとかどの歴史書よりもよくわかるぐらいである。
昔の音楽評論家は優れていたといつも思うのは、こうしたことで、ライナー・ノーツ一つか書くにも真剣勝負で挑んだ。もちろんそれなりの勉強もしただろうし、これだけの長文をかくほどの文章力を普段から養い、自然と実力をつけていったのだろう。
昨年まで永年の愛読書であった『レコード芸術』、ついに購読しなくなったが、良いCDの発売が少なくなったこともあるが、やはりそこでの評者である音楽評論家たちの、あまりにも拙くてお粗末な、そして自分の好みに偏った、あるいはコマーシャルベースに乗ったおもねる文章の羅列にはもうへきへきしたためである。
昔の専門家でもある評論家はよく勉強していた。でないと、これだけの美文と長文は書けない。
ドレースデンのシュターツカペレは、1548年に源を発し、この古都をつらぬくエルベ川のように、ドイツ音楽の歴史を流れつづけている。ドイツ宮廷文化の栄華をきわめたドレースデンは、少なくとも第2次大戦まえまでは古い教会や宮殿をのこし、美術品や古文化財によって世界的に名をなしていた。その一端を担ったシュターツカペレは、戦後においても故ヨーゼフ・カイルベルト、ルドルフ・ケンペ、クルト・ザンデルリンク、オトマール・スイトナーといった名指揮者たちとドイツ音楽の伝統を護り抜いてきたのである。それはまさしくシンフォニー・オーケストラの故郷として存続しているのであって、現在までオーケストラ音楽の原型にふさわしい高貴なアンサンブルと稠密な音色を保持している。(西村弘治)
読んでいて自然とすらすらと進んでいく・・・「古都をつらぬくエルベ川のように、ドイツ音楽の歴史を流れつづけている」とか、「まさしくシンフォニー・オーケストラの故郷として存続している」ってな文章は書けそうでなかなか書けるものではない。
話は変わるが、今朝、レコードクリーナーとスプレイをヨドバシカメラのネットで注文したが、もう今日中に配達されるそうだ。ほんとうに居ながらにしてだ。逆に昔より便利になったこともあるわけだ。
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ドイツのロマン主義音楽は、またベートーヴェンの在世中、すでにシューベルトやウェーバーによって、その最初の息吹をめばえさせた。つづいて、メンデルスゾーンやシューマンによって華やかに発展され、19世紀の中葉、ブラームスによって、ドイツ・ロマン主義は高潮点に達したのである。
1853年、20歳の青年ブラームスは、デュッセルドルフにシューマンを訪ねた。シューマンは、ブラームスを暖かく迎え、<新しき道>という評論を書いて、若きロマン主義者の出発を祝福した。しかもシューマン自身は、その翌年、ライン河に身を投げてしまったのであった。
ブラームスは、その後もしばらく、シューマンの未亡人となったクララのそばにいたが、1857年、24歳からデトモルトに住み、一時は大学教授の令嬢アガーテと婚約までしたが、ついに結婚せず、1862年からウィーンに定住するようになった。29歳のときのことである。こうしてブラームスの偉大な創造の時期がはじまった・・・
という書き出しでブラームスの交響曲第1番ハ短調が紹介される。この文章は、当時ハイドン研究家として知られ音楽学者として第一人者のひとりでもあった大宮真琴氏のものである。さり気であるが、短いなかにも完璧に要約された400余りの文字は、どの音楽史よりも優れたものと言えるだろう。そんな文章がレコード裏面の広いスペースにびっしりと書き尽くされているのである。しかももう一枚大きな紙が入っていて、これには別の音楽評論家が指揮者クルト・ザンデルリンクを通して、当時のドイツの音楽事情について触れている。これだって、ひとかどの歴史書よりもよくわかるぐらいである。
昔の音楽評論家は優れていたといつも思うのは、こうしたことで、ライナー・ノーツ一つか書くにも真剣勝負で挑んだ。もちろんそれなりの勉強もしただろうし、これだけの長文をかくほどの文章力を普段から養い、自然と実力をつけていったのだろう。
昨年まで永年の愛読書であった『レコード芸術』、ついに購読しなくなったが、良いCDの発売が少なくなったこともあるが、やはりそこでの評者である音楽評論家たちの、あまりにも拙くてお粗末な、そして自分の好みに偏った、あるいはコマーシャルベースに乗ったおもねる文章の羅列にはもうへきへきしたためである。
昔の専門家でもある評論家はよく勉強していた。でないと、これだけの美文と長文は書けない。
ドレースデンのシュターツカペレは、1548年に源を発し、この古都をつらぬくエルベ川のように、ドイツ音楽の歴史を流れつづけている。ドイツ宮廷文化の栄華をきわめたドレースデンは、少なくとも第2次大戦まえまでは古い教会や宮殿をのこし、美術品や古文化財によって世界的に名をなしていた。その一端を担ったシュターツカペレは、戦後においても故ヨーゼフ・カイルベルト、ルドルフ・ケンペ、クルト・ザンデルリンク、オトマール・スイトナーといった名指揮者たちとドイツ音楽の伝統を護り抜いてきたのである。それはまさしくシンフォニー・オーケストラの故郷として存続しているのであって、現在までオーケストラ音楽の原型にふさわしい高貴なアンサンブルと稠密な音色を保持している。(西村弘治)
読んでいて自然とすらすらと進んでいく・・・「古都をつらぬくエルベ川のように、ドイツ音楽の歴史を流れつづけている」とか、「まさしくシンフォニー・オーケストラの故郷として存続している」ってな文章は書けそうでなかなか書けるものではない。
話は変わるが、今朝、レコードクリーナーとスプレイをヨドバシカメラのネットで注文したが、もう今日中に配達されるそうだ。ほんとうに居ながらにしてだ。逆に昔より便利になったこともあるわけだ。
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by kirakuossan
| 2016-06-09 08:42
| クラシック
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