2016年 03月 27日
常に同じものと同じでないもの |
2016年3月27日(日)
これほどまでに、フォルテとピアニシモ、陽と陰をくっきりと浮かび上がらせた演奏も知らない。甚だたいそう過ぎはしないかと思うほどである。「展覧会の絵」は難しいピアノ曲である。この曲の演奏の多くは惰性に流れ、聴くものをずいぶんと退屈させる。だからでもないだろうが、奏者は色々と工夫を凝らした特色ある演奏をする。
今朝聴いた天才イーヴォ・ポゴレリチ、37歳の演奏もそのひとつだ。曲中、Promenadeは冒頭に始まり、形を変えて何度も出てくるが、最後の第5のPromenadeのあと、華やかな「リモージュの市場」についで一転8番目の「カタコンベ - ローマ時代の墓」と「死せる言葉による死者への呼びかけ」が登場するが、この6分余りの陰影はこの演奏の一番の聴かせどころであり、ポゴレリチの境地をさぐる場面でもある。彼はなにせ弱音指定の箇所を強打するなど型破りなことを平気でするぐらいだから、とにかく通常ではない鑑賞法で聴かねばならない、常に緊張感が伴う。でもそれを越えたあとの急転ピアニシモからフォルテへの切り替えが、より衝撃であって、またさらに新たな緊迫感を呼びおこす。絵画鑑賞を終え、そして最後の「キエフの大門」を通り過ぎるあたり、最高潮の満足感に浸ることとなる。
展覧会場に足を運んで感動する絵画が人によってさまざまであるのと同じで、この曲に対する演奏者の印象もさまざまであっていいのかもしれい。奏者によっては絵の一つ一つの前に立ちどまり、実にじっくりと観察をしながらゆったりと巡る人もあれば、順番に特段の感慨も表面には出さず、淡々と進んでいく奏者もある。さしずめポゴレリチの鑑賞法は前者であって、細部の強調と音色操作に長け、普通30分ほどで回ってくるところを彼は異常ともいえる40分以上もの鑑賞である。一方、後者といえば、スヴャトスラフ・リヒテルであって「カタコンベ - ローマ時代の墓~死せる言葉による死者への呼びかけ」場面ではわずか4分弱で通り過ぎてしまう。だからといって十分に細部にわたり鑑賞をしていないかと言えば、決してそうではなく、これはこれでまた、十分に緊張感をはらんでいる。単に演奏の長短だけでは言い切れない。そういった意味でも、このムソルグスキーの書いた「展覧会の絵」は色々な鑑賞法があって常に同じものではないという、演奏家によってはこうも違うかといったことを抱かせる面白い曲なのである。
ムソルグスキー:
組曲「展覧会の絵」
イーヴォ・ポゴレリチ - Ivo Pogorelich (ピアノ)
録音: August 1995, Henry Wood Hall, London, United Kingdom
スヴャトスラフ・リヒテル - Sviatoslav Richter (ピアノ)
録音: February 1958, Sofia, Bulgaria
展覧会の絵”ローマ時代の墓”の話のついでだが、今読んでいるモンテスキューの『ローマ人盛衰原因論』(岩波文庫)なる書物、歴史哲学の名著とあってかたぐるしい哲学書と思いきや、~古代に大帝国を築き上げたローマはなぜ滅亡したのか?~ これが巻頭からたいへん面白い。
ローマには二つのうちの一つ、すなわち、その政体を変えるか、それとも小さな貧しい王国のままとどまるか、いずれかしか途はなかった。
現代の歴史もわれわれに、かつてローマで生じたことの実例を示してくれている。そして、これがかなり注目すべきものなのである。なぜなら、人間はどんな時代においても同じ感情をもっているので、大きな変化をもたらすきっかけは多様であるが、原因は常に同じであるからである。
人間は、同じ感情をもっているので、ことの原因は常に同じである。この指摘は、的を得ており、その後の300年の辿ってきた歴史を振り返ってみても、その時々で争いは繰り返されてきたし、今の時代においても、同じくこの指摘はあてはまることであって、全世界に向けて大きな警鐘と言わざるを得ない。
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これほどまでに、フォルテとピアニシモ、陽と陰をくっきりと浮かび上がらせた演奏も知らない。甚だたいそう過ぎはしないかと思うほどである。「展覧会の絵」は難しいピアノ曲である。この曲の演奏の多くは惰性に流れ、聴くものをずいぶんと退屈させる。だからでもないだろうが、奏者は色々と工夫を凝らした特色ある演奏をする。
今朝聴いた天才イーヴォ・ポゴレリチ、37歳の演奏もそのひとつだ。曲中、Promenadeは冒頭に始まり、形を変えて何度も出てくるが、最後の第5のPromenadeのあと、華やかな「リモージュの市場」についで一転8番目の「カタコンベ - ローマ時代の墓」と「死せる言葉による死者への呼びかけ」が登場するが、この6分余りの陰影はこの演奏の一番の聴かせどころであり、ポゴレリチの境地をさぐる場面でもある。彼はなにせ弱音指定の箇所を強打するなど型破りなことを平気でするぐらいだから、とにかく通常ではない鑑賞法で聴かねばならない、常に緊張感が伴う。でもそれを越えたあとの急転ピアニシモからフォルテへの切り替えが、より衝撃であって、またさらに新たな緊迫感を呼びおこす。絵画鑑賞を終え、そして最後の「キエフの大門」を通り過ぎるあたり、最高潮の満足感に浸ることとなる。
展覧会場に足を運んで感動する絵画が人によってさまざまであるのと同じで、この曲に対する演奏者の印象もさまざまであっていいのかもしれい。奏者によっては絵の一つ一つの前に立ちどまり、実にじっくりと観察をしながらゆったりと巡る人もあれば、順番に特段の感慨も表面には出さず、淡々と進んでいく奏者もある。さしずめポゴレリチの鑑賞法は前者であって、細部の強調と音色操作に長け、普通30分ほどで回ってくるところを彼は異常ともいえる40分以上もの鑑賞である。一方、後者といえば、スヴャトスラフ・リヒテルであって「カタコンベ - ローマ時代の墓~死せる言葉による死者への呼びかけ」場面ではわずか4分弱で通り過ぎてしまう。だからといって十分に細部にわたり鑑賞をしていないかと言えば、決してそうではなく、これはこれでまた、十分に緊張感をはらんでいる。単に演奏の長短だけでは言い切れない。そういった意味でも、このムソルグスキーの書いた「展覧会の絵」は色々な鑑賞法があって常に同じものではないという、演奏家によってはこうも違うかといったことを抱かせる面白い曲なのである。
ムソルグスキー:
組曲「展覧会の絵」
イーヴォ・ポゴレリチ - Ivo Pogorelich (ピアノ)
録音: August 1995, Henry Wood Hall, London, United Kingdom
スヴャトスラフ・リヒテル - Sviatoslav Richter (ピアノ)
録音: February 1958, Sofia, Bulgaria
展覧会の絵”ローマ時代の墓”の話のついでだが、今読んでいるモンテスキューの『ローマ人盛衰原因論』(岩波文庫)なる書物、歴史哲学の名著とあってかたぐるしい哲学書と思いきや、~古代に大帝国を築き上げたローマはなぜ滅亡したのか?~ これが巻頭からたいへん面白い。
ローマには二つのうちの一つ、すなわち、その政体を変えるか、それとも小さな貧しい王国のままとどまるか、いずれかしか途はなかった。
現代の歴史もわれわれに、かつてローマで生じたことの実例を示してくれている。そして、これがかなり注目すべきものなのである。なぜなら、人間はどんな時代においても同じ感情をもっているので、大きな変化をもたらすきっかけは多様であるが、原因は常に同じであるからである。
人間は、同じ感情をもっているので、ことの原因は常に同じである。この指摘は、的を得ており、その後の300年の辿ってきた歴史を振り返ってみても、その時々で争いは繰り返されてきたし、今の時代においても、同じくこの指摘はあてはまることであって、全世界に向けて大きな警鐘と言わざるを得ない。
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by kirakuossan
| 2016-03-27 08:30
| クラシック
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