2016年 03月 15日
見せかけの情緒の音楽 |
2016年3月15日(火)
大音楽家ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750)は生涯に二度結婚し11男9女計20人の子供をもうけた。そのうち多くの息子たちが音楽家となった。
先妻の長男:ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ (1710~1784)”ドレスデンのバッハ”
先妻の次男:カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ (1714~1788) ”ハンブルクのバッハ”
先妻の第4男:ヨハン・ゴットフリート・ベルンハルト・バッハ (1715~1739)
後妻の第6男:ゴットフリート・ハインリヒ・バッハ (1724~1763)
後妻の第7男:ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ (1732~1795)
後妻の第11男:ヨハン・クリスティアン・バッハ (1735~1782)”ロンドンのバッハ”
バッハの息子たちの中では最も才能に恵まれたのは、長男の”ドレスデンのバッハ”で、即興演奏や対位法の巨匠とされた。次男の ”ハンブルクのバッハ”は古典派音楽の基礎を築いたとされ、バッハ一族で唯一のオペラを書いた”ロンドンのバッハ”は生前中は国際的名声を得たとされる。
だいぶ昔に「バッハの息子たちの音楽」という超廉価盤のBOXを衝動買いしたが、確か2~3枚聴いてお蔵入りになった。はっきり言って、退屈な音楽ばかりで何の感動も及ぼさなかった。
吉田秀和氏の批評は、文学的要素を漂わせながら、またときには日常の身近な事柄に例えながら、核心を見事についた説得力のある文章が魅力である。あのホロビッツの”ひびの入った骨董”などはその最たる例である。でも氏は演奏家については日ごろ辛辣なことも書いてきたが、こと作曲家に対しては、比較的好き嫌いがはっきりととしていたのか、好きな作曲家の好批評は多くあっても、あまり好きではない作曲家については、いわば無視したように見受けられた。だから、表立って作曲家についての辛辣に悪評を書いたものをあまり知らない。そのなかでこれなどは珍しいものといえる。
バッハの子供たちの作品は、音楽史のうえで重要なだけでなく、LPも何枚もあるわけだが、私が、そのなかで本当に天才の閃き感じるのは、不品行で評判のわるい長男のフリーデマンだけである。彼のフゲッタやポロネーズは、線がほそいが、しかし何ともいえない繊細で多感な詩味がある。~
カール・フィリップ・エマーヌエル・バッハのソナタはいわゆる<多感時代>の典型的なものである。そうして、彼の音楽は、このあとにくる音楽家たち、たとえばハイドンやモーツァルトにとっては<大バッハ>というのは、ヨハン・ゼバスティアンでなくて、このエマーヌエルのことをさすくらい流行した。
しかし、私は、彼の曲は、ここにとらない。音楽史的には、なるほど重要なかけ橋的存在だが、すでにハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンをもっている私たちには、あまりにも、なまの感傷と見せかけの情緒の音楽としか感じられないからだ。そうして、私は、アインシュタインの「彼の感傷癖は、当時の文学や音楽に現れた疾風怒濤Sturm und Drang の風潮によるものだった。<新様式>を目ざしていた作曲家たちは、この流行病に対し闘う必要があった。こういった作曲家の中で三人、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンが最もすぐれていた。彼らはそれぞれ異なった点にではあったが、エマーヌエルに感謝しつつ、見せかけの情緒を真の情緒に変えた」という言葉に全面的に賛成する。そうして、エマーヌエル・バッハとともに、この<多感時代>から、つぎの<ヴィーン古典派>にいたるまでの中間にたつ多くの作曲家たちの作品は、みな、敬遠することにしたい。
そして話はハイドンへと移っていく。
ヴィーンの古典派のなかで、エマーヌエルの影響を一番歓迎したのは、おそらくハイドンだったろう。ハイドンが、交響曲と弦楽四重奏の父であり、近代管弦楽と、ソナタの最初の大家であり云々ということは、もう、あまりにも、いわれすぎた。それが、すこし粗暴な言い方すぎるということも。
ハイドンは、すべての大家のなかでも、特に、つらくて長い修業時代を過ごした。事実、彼の天才の発展は、非常にゆっくりと、しかも非常に確実に行われていった。というのは、彼の作品をみてゆくと、ここではじめて、単なる効果のための手段や見せかけの情緒の深刻さや、にせものの優雅と、本当に独創的で、しかも音楽的な創造というものとの違いやを、区別することを学ぶことができるのだはないかという気がしてくる。
逆にいえば、この頃から、音楽は、いわば軽薄な音楽と本物の音楽とにわかれるようになってくる。私のいうのは、今日の軽音楽とクラシックといった意味の区別ではない。もっと、内面的な区別である。
ハイドンは、二十七歳の時、はじめて交響曲をかき、六曲の<ロシア四重奏>とよばれるセットで、ソナタ形式の展開での主題処理の手法をはじめて発表したが、これは、彼が五十歳にちかい一七八一年の作品である。そうして、彼は、そのずっと前からヴィーンばかりでなく、パリでもすでに、当代の一流中の一流の大家として名声を博していたのだった。
吉田秀和著『名曲三〇〇選』(ちくま文庫)より。
吉田秀和の『名曲三〇〇選』の最後のエピローグで著者が語っているが、レコードを少ししか持っていないのでよく買いに行こうと思うけど、ついつい買いそびれてしまうそうだ。それは演奏会でさんざん聴いて来たので、いまさらレコードなんて、という心境になるだけでもないらしい。でもこの人は本当にバッハが好きである、もちろん親父の方であるが。
つまり、レコードの演奏が、程度の差はあれ、すべてもっている、一種の即物性とでもいったものが、私には、どんな音楽ももっているある種のロマンティシズムとうまくとけあわないのである。私は、よく、今日こそ、ベートーヴェンを、シューベルトを買おうと思って出かけていって、結局は、バッハを、ときには、モーツァルトを、買ってしまう。この二人の音楽は、私を、ほとんどうらぎらない。それにしても、そのレコードは、つまり演奏家は、よほど選ばなければならない。
そこでまた小林秀雄の言葉を思い出す。
本物ばかり見ていると偽物がわかる。でも偽物ばかり見続けていると本物がわからない。
2014年2月3日(月)
一時は父より有名 .......知られざる作曲家エマヌエル・バッハ
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大音楽家ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750)は生涯に二度結婚し11男9女計20人の子供をもうけた。そのうち多くの息子たちが音楽家となった。
先妻の長男:ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ (1710~1784)”ドレスデンのバッハ”
先妻の次男:カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ (1714~1788) ”ハンブルクのバッハ”
先妻の第4男:ヨハン・ゴットフリート・ベルンハルト・バッハ (1715~1739)
後妻の第6男:ゴットフリート・ハインリヒ・バッハ (1724~1763)
後妻の第7男:ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ (1732~1795)
後妻の第11男:ヨハン・クリスティアン・バッハ (1735~1782)”ロンドンのバッハ”
バッハの息子たちの中では最も才能に恵まれたのは、長男の”ドレスデンのバッハ”で、即興演奏や対位法の巨匠とされた。次男の ”ハンブルクのバッハ”は古典派音楽の基礎を築いたとされ、バッハ一族で唯一のオペラを書いた”ロンドンのバッハ”は生前中は国際的名声を得たとされる。
だいぶ昔に「バッハの息子たちの音楽」という超廉価盤のBOXを衝動買いしたが、確か2~3枚聴いてお蔵入りになった。はっきり言って、退屈な音楽ばかりで何の感動も及ぼさなかった。
吉田秀和氏の批評は、文学的要素を漂わせながら、またときには日常の身近な事柄に例えながら、核心を見事についた説得力のある文章が魅力である。あのホロビッツの”ひびの入った骨董”などはその最たる例である。でも氏は演奏家については日ごろ辛辣なことも書いてきたが、こと作曲家に対しては、比較的好き嫌いがはっきりととしていたのか、好きな作曲家の好批評は多くあっても、あまり好きではない作曲家については、いわば無視したように見受けられた。だから、表立って作曲家についての辛辣に悪評を書いたものをあまり知らない。そのなかでこれなどは珍しいものといえる。
バッハの子供たちの作品は、音楽史のうえで重要なだけでなく、LPも何枚もあるわけだが、私が、そのなかで本当に天才の閃き感じるのは、不品行で評判のわるい長男のフリーデマンだけである。彼のフゲッタやポロネーズは、線がほそいが、しかし何ともいえない繊細で多感な詩味がある。~
カール・フィリップ・エマーヌエル・バッハのソナタはいわゆる<多感時代>の典型的なものである。そうして、彼の音楽は、このあとにくる音楽家たち、たとえばハイドンやモーツァルトにとっては<大バッハ>というのは、ヨハン・ゼバスティアンでなくて、このエマーヌエルのことをさすくらい流行した。
しかし、私は、彼の曲は、ここにとらない。音楽史的には、なるほど重要なかけ橋的存在だが、すでにハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンをもっている私たちには、あまりにも、なまの感傷と見せかけの情緒の音楽としか感じられないからだ。そうして、私は、アインシュタインの「彼の感傷癖は、当時の文学や音楽に現れた疾風怒濤Sturm und Drang の風潮によるものだった。<新様式>を目ざしていた作曲家たちは、この流行病に対し闘う必要があった。こういった作曲家の中で三人、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンが最もすぐれていた。彼らはそれぞれ異なった点にではあったが、エマーヌエルに感謝しつつ、見せかけの情緒を真の情緒に変えた」という言葉に全面的に賛成する。そうして、エマーヌエル・バッハとともに、この<多感時代>から、つぎの<ヴィーン古典派>にいたるまでの中間にたつ多くの作曲家たちの作品は、みな、敬遠することにしたい。
そして話はハイドンへと移っていく。
ヴィーンの古典派のなかで、エマーヌエルの影響を一番歓迎したのは、おそらくハイドンだったろう。ハイドンが、交響曲と弦楽四重奏の父であり、近代管弦楽と、ソナタの最初の大家であり云々ということは、もう、あまりにも、いわれすぎた。それが、すこし粗暴な言い方すぎるということも。
ハイドンは、すべての大家のなかでも、特に、つらくて長い修業時代を過ごした。事実、彼の天才の発展は、非常にゆっくりと、しかも非常に確実に行われていった。というのは、彼の作品をみてゆくと、ここではじめて、単なる効果のための手段や見せかけの情緒の深刻さや、にせものの優雅と、本当に独創的で、しかも音楽的な創造というものとの違いやを、区別することを学ぶことができるのだはないかという気がしてくる。
逆にいえば、この頃から、音楽は、いわば軽薄な音楽と本物の音楽とにわかれるようになってくる。私のいうのは、今日の軽音楽とクラシックといった意味の区別ではない。もっと、内面的な区別である。
ハイドンは、二十七歳の時、はじめて交響曲をかき、六曲の<ロシア四重奏>とよばれるセットで、ソナタ形式の展開での主題処理の手法をはじめて発表したが、これは、彼が五十歳にちかい一七八一年の作品である。そうして、彼は、そのずっと前からヴィーンばかりでなく、パリでもすでに、当代の一流中の一流の大家として名声を博していたのだった。
吉田秀和著『名曲三〇〇選』(ちくま文庫)より。
吉田秀和の『名曲三〇〇選』の最後のエピローグで著者が語っているが、レコードを少ししか持っていないのでよく買いに行こうと思うけど、ついつい買いそびれてしまうそうだ。それは演奏会でさんざん聴いて来たので、いまさらレコードなんて、という心境になるだけでもないらしい。でもこの人は本当にバッハが好きである、もちろん親父の方であるが。
つまり、レコードの演奏が、程度の差はあれ、すべてもっている、一種の即物性とでもいったものが、私には、どんな音楽ももっているある種のロマンティシズムとうまくとけあわないのである。私は、よく、今日こそ、ベートーヴェンを、シューベルトを買おうと思って出かけていって、結局は、バッハを、ときには、モーツァルトを、買ってしまう。この二人の音楽は、私を、ほとんどうらぎらない。それにしても、そのレコードは、つまり演奏家は、よほど選ばなければならない。
そこでまた小林秀雄の言葉を思い出す。
本物ばかり見ていると偽物がわかる。でも偽物ばかり見続けていると本物がわからない。
2014年2月3日(月)
一時は父より有名 .......知られざる作曲家エマヌエル・バッハ
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by kirakuossan
| 2016-03-15 06:45
| クラシック
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