2016年 03月 04日
世襲本因坊 -5 |
2016年3月4日(金)
名人碁所であった中村道碩が亡くなり、20年の長きの間、「碁所」は途絶えたままになっていたが、正保元年(1644)に安井家の一世安井算哲が自らが碁所に申し出た。もちろん本因坊家を継いだ二世本因坊算悦(1611~1658)が賛同するはずはなく、両家の間で争われることとなった。これが「争碁」の始まりとされる。
安井家は算哲の弟子二世安井算知(1617~1703)が、本因坊家は算悦が、互いに闘志を燃やして6番勝負で決することとなる。
正保2年(1646)の御城碁を第1局とし、承応2年(1653)まで7年かけて6局を打ち、結果3勝3敗となり、碁所はお預けとなった。2勝3敗のあと、白の見損じ手もあって、黒番本因坊算悦が執念の勝利を収め、対戦成績を五分に戻した。これはその時の最終局の棋譜である。承応2年(1653)
(棋譜は『本因坊名勝負物語』(井口昭夫著/三一書房刊より)
ど素人の小生から敢えて言わせてもらえば、序盤から白は落ち着いた手合いで打ちさばき、逆に黒はどことなくどたばたして一貫性のないように見え、棋力としても算知に一日の長があるように思えた。たが中盤にさしかかり、左下隅で、黒127手の見損じや黒119手ののぞきに受けなかったり、はては劫にも負けるなどして黒にうまく立ち回られたのが敗着だった。一瞬魔がさしたのであろうか?のぞきに素直に受けていたら、算知の勝であったろう。そうすれば「碁所」は安井家にわたり、本因坊家はその後、消え去っていたかもしれない。これは小生のまったく無知の上での想像に過ぎないが。いずれにしてもこの最終局で両者痛み分けとなり、本因坊家もどうにか生き延びた。
その後、算悦が1658年に亡くなったこともあって、寛文8年(1668)に、本人からの申し出通り、安井算知に名人碁所の許しが出た。ところが今度は本因坊を算悦から引き継いだ三世本因坊道悦(1636~1727)が異議を唱えた。「古来より由緒正しい名人碁所は勝負に勝った者に与えるべきである。自分は算知とは一度も対局していない、今回の決定には異議は今さら申し上げないが、是非ともどちらが強いか、算知と番碁を打たせてほしい」と申し出た。
敗れると「島流し」覚悟のうえでの道悦の申し出を、奉行加賀爪甲斐守は渋々受け入れ、年二十番、計六十番碁が命じられることとなる。
争碁は道悦定先で、寛文8年の御城碁を第1局として始められ、寛文11年(1671)に第16局まで打ち終え、道悦が9勝3敗4ジゴの六番勝越しで先相先に手直りとなった。その後も道悦の3勝1敗で1675年までに計二十番打ち、道悦の通算12勝4敗4ジゴとなった時点で、算知は碁所を返上して終了した。
(棋譜は『本因坊名勝負物語』(井口昭夫著/三一書房刊より)
そこで、道悦も公儀に異議を唱えた手前、「碁所」を受けずに翌年には隠居した。この時、道悦40歳、算知59歳であった。
ただ同時に、道悦は、あとを引き継いだ四世本因坊道策に名人碁所を授けるよう懇願し、受け入れられる。ここに算砂亡き後の1623年以来、半世紀ぶりに「名人碁所」が本因坊家へ戻ることとなった。
ところで、この四世本因坊道策が実は、先人たちをも凌ぐほどの実力の持ち主であったのだ。
つづく・・・
名人碁所であった中村道碩が亡くなり、20年の長きの間、「碁所」は途絶えたままになっていたが、正保元年(1644)に安井家の一世安井算哲が自らが碁所に申し出た。もちろん本因坊家を継いだ二世本因坊算悦(1611~1658)が賛同するはずはなく、両家の間で争われることとなった。これが「争碁」の始まりとされる。
安井家は算哲の弟子二世安井算知(1617~1703)が、本因坊家は算悦が、互いに闘志を燃やして6番勝負で決することとなる。
正保2年(1646)の御城碁を第1局とし、承応2年(1653)まで7年かけて6局を打ち、結果3勝3敗となり、碁所はお預けとなった。2勝3敗のあと、白の見損じ手もあって、黒番本因坊算悦が執念の勝利を収め、対戦成績を五分に戻した。これはその時の最終局の棋譜である。承応2年(1653)
(棋譜は『本因坊名勝負物語』(井口昭夫著/三一書房刊より)
ど素人の小生から敢えて言わせてもらえば、序盤から白は落ち着いた手合いで打ちさばき、逆に黒はどことなくどたばたして一貫性のないように見え、棋力としても算知に一日の長があるように思えた。たが中盤にさしかかり、左下隅で、黒127手の見損じや黒119手ののぞきに受けなかったり、はては劫にも負けるなどして黒にうまく立ち回られたのが敗着だった。一瞬魔がさしたのであろうか?のぞきに素直に受けていたら、算知の勝であったろう。そうすれば「碁所」は安井家にわたり、本因坊家はその後、消え去っていたかもしれない。これは小生のまったく無知の上での想像に過ぎないが。いずれにしてもこの最終局で両者痛み分けとなり、本因坊家もどうにか生き延びた。
その後、算悦が1658年に亡くなったこともあって、寛文8年(1668)に、本人からの申し出通り、安井算知に名人碁所の許しが出た。ところが今度は本因坊を算悦から引き継いだ三世本因坊道悦(1636~1727)が異議を唱えた。「古来より由緒正しい名人碁所は勝負に勝った者に与えるべきである。自分は算知とは一度も対局していない、今回の決定には異議は今さら申し上げないが、是非ともどちらが強いか、算知と番碁を打たせてほしい」と申し出た。
敗れると「島流し」覚悟のうえでの道悦の申し出を、奉行加賀爪甲斐守は渋々受け入れ、年二十番、計六十番碁が命じられることとなる。
争碁は道悦定先で、寛文8年の御城碁を第1局として始められ、寛文11年(1671)に第16局まで打ち終え、道悦が9勝3敗4ジゴの六番勝越しで先相先に手直りとなった。その後も道悦の3勝1敗で1675年までに計二十番打ち、道悦の通算12勝4敗4ジゴとなった時点で、算知は碁所を返上して終了した。
(棋譜は『本因坊名勝負物語』(井口昭夫著/三一書房刊より)
そこで、道悦も公儀に異議を唱えた手前、「碁所」を受けずに翌年には隠居した。この時、道悦40歳、算知59歳であった。
ただ同時に、道悦は、あとを引き継いだ四世本因坊道策に名人碁所を授けるよう懇願し、受け入れられる。ここに算砂亡き後の1623年以来、半世紀ぶりに「名人碁所」が本因坊家へ戻ることとなった。
ところで、この四世本因坊道策が実は、先人たちをも凌ぐほどの実力の持ち主であったのだ。
つづく・・・
by kirakuossan
| 2016-03-04 12:25
| 囲碁
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