2016年 01月 09日
ジョージ・セルという指揮者 |
2016年1月9日(土)
1970年に大阪で万国博覧会が開催され、ちょうどこの時、今でも語り草になっているが世界各国から一流のオーケストラが多数やって来て、素晴らしい演奏を繰り広げた。
「セル来りて、永遠に去る・・・。伝説として語り継がれるただ一度の来日公演」と今も評されるひとりの大指揮者がこの時初めて日本にやって来た。ジョージ・セル(1897~1970)である。クリーヴランド管弦楽団もそのときが初来日であった。
セルは1970年5月15日大阪・フェスティバルホールの公演を皮切りに、翌16日大阪、そして京都で20日に、翌日名古屋へ出向き、22、23日と東京で、そして25日には札幌へ、翌日には東京へとんぼ帰りして最終公演を行った。同じく5月にやって来たカラヤン/ベルリン・フィルが前日の14日まで大阪で6公演行ったが、それよりも人気が高く、極めて高い評価を受けて多くの聴衆に感銘を与えた。そして帰国後、2か月わずかで突然信じられない悲報が入って来る、「セル、急逝する」の知らせであった。
生前、あるいは没後においてもセルに対する評価は二分する。完璧主義者で禁欲的であまりにも厳密な解釈が冷徹な指揮者として受け取られた。また片方では、端正で透明度の高い、均整の取れた音楽を完成度の極めて高いものとして評価された。果たしてどちらが正しいのか。いやはたまたそのどちらも正しいのか。
猿田悳による『音楽との対話』での、セル初来日の2年前1968年に書かれた「ジョージ・セル」の一稿は、その答えともなることがらを示唆してくれる。
指揮台にのぼり、ものの二、三分もすると、楽員はこの指揮者の下で全力を尽くした方がいいか、その必要がないかを見わけるそうで、日本のある練達の楽員の言葉だが、うそではあるまい。~
ことの善悪を問わず指揮者という職業に権威は必要なのだが、セルはこの点で不足はなかった。家族的な安易感などというのはこの世界では第二の条件で、第一にはむしろ憤慨と悪意を呼びおこす叱咤である。こんな逸話がある。トスカニーニが死んだとき、ある楽員は葬儀に招かれなかった。
しかし彼はこう言った。「いいだろう。だが、セルのときにはぜひぼくに案内状を二枚とっといてくれ」
こんな話もある。クリーヴランドでは週二回の演奏会のために七回の練習を行うそうであるが、楽員はこう言うそうだ。「演奏会は九回あるが、たまたまそのうちの二回は客がいるにすぎない」
セルはよくヨーロッパの巨匠たちにあるような、稽古はほどほどに切り上げてという方法はとらない。納得ゆくまで各声部をみがきあげ、完璧なものにしようとする。フレーズをくっきりと造形し、鮮明な音色を求め、しかも音楽の内容を生気あふれるものにしようとする。そのうちどの一つでも充たされないかぎり、彼は稽古を止めない。この結果生まれた透明で純粋な音楽が、ときとして伝統的な音に馴れた聴衆に異様にひびくことはありうるだろう。つまり、この造型の仕方に完全に異質な音楽もあるはずである。それは発売されたレコードの一覧を見てみればわかる。セル自身が自信をもっているのは、一見予想外にみえるがウイーン古典派である。そして名実ともにレコード表に見当たらないのはフランス近代音楽、とりわけ印象派である。印象派の音色とセルの美意識が造型するもの、これはたしかに異質だろう。しかし、まだ自分の耳でたしかめてもいないわたしには何も言えない。あるいはすばらしいかもしれない。セル自身がこんなことを言っているのだから。
「不統一のまま熱狂するのもたしかに結構だろう。だがわたしには、偉大な芸術とは決して無秩序ではないということだ」
ドヴォルザーク:
交響曲第8番 ト長調 Op. 88, B. 163
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
ジョージ・セル(指揮)
(録音: 1969, Liver recording)
セルは、明らかにその天性においても信条においても、新しい時代の担い手といっていいだろう。現在彼に抗しうるのはバックハウスのほかに存在しない。それは<裸形の精神>ということだ。手垢だらけのロマンティシズムへの郷愁にも、超絶技巧への盲信にも、誇張したスキャンダラスな解釈にも無縁な、ひどく透明で、緊張した精神構造を持った人間という意味である。だから彼はひとりの偉大な芸術家の典型なのであって、ただクリーヴランドの指揮者でもなく、アメリカの寵児でもなく、没落した西欧教養世界を含めた再現芸術の世界での新しい典型ということができるのである。
その特徴を透明、純粋、緊張の極限、巨大な構造物などと名付けることができるが、その証拠をひろい出すのは困難ではない。数十枚の発売されたレコードの中から、二、三枚のモーツァルトやベートーヴェンを任意にとりだしてみれば、いつでも気付くことができる。
モーツァルト:
交響曲第41番 ハ長調 「ジュピター」 K. 551
クリーヴランド管弦楽団
ジョージ・セル(指揮)
(録音: 18 November 1955)
『運命』においても『ジュピター』においても、彼はこれらが人間の運命とか神の創造などと少しも関係があるとは思っていないのであって、当然のことながら彼が拠るのは譜面だけである。忌憚なくいえば彼には想像力がおそろしく欠如している。フルトヴェングラーにあまっていたような想像力である。しかし今日この欠如は彼にとって最大の財産で、彼には譜面を彼流に理解した結果、楽員に命令して直線的に現実の音とする仕方しかない。余分なものは彼自身持っていないのである。だから、音楽につけ加えようがないのだ。
ワルターやフルトヴェングラー、あるいはベームなどは各地の歌劇場指揮者へと進んで行った。また当時は指揮者として名声を得るにはオペラとは無縁ではいられなかった。しかし、ハンガリー生まれのセルはドイツ、オーストリアから外へ飛び出し、オペラの世界からも絶縁の姿勢をとった珍しい指揮者であった。そしてその結果、孤高と言われる巨匠となった。
そして万人が素直に認めるところは、ジョージ・セルは厳しい訓練によって、クリーヴランド管弦楽団を世界最高のアンサンブルと称えられる合奏力に高めたという動かしようのない事実である。
1970年に大阪で万国博覧会が開催され、ちょうどこの時、今でも語り草になっているが世界各国から一流のオーケストラが多数やって来て、素晴らしい演奏を繰り広げた。
「セル来りて、永遠に去る・・・。伝説として語り継がれるただ一度の来日公演」と今も評されるひとりの大指揮者がこの時初めて日本にやって来た。ジョージ・セル(1897~1970)である。クリーヴランド管弦楽団もそのときが初来日であった。
セルは1970年5月15日大阪・フェスティバルホールの公演を皮切りに、翌16日大阪、そして京都で20日に、翌日名古屋へ出向き、22、23日と東京で、そして25日には札幌へ、翌日には東京へとんぼ帰りして最終公演を行った。同じく5月にやって来たカラヤン/ベルリン・フィルが前日の14日まで大阪で6公演行ったが、それよりも人気が高く、極めて高い評価を受けて多くの聴衆に感銘を与えた。そして帰国後、2か月わずかで突然信じられない悲報が入って来る、「セル、急逝する」の知らせであった。
猿田悳による『音楽との対話』での、セル初来日の2年前1968年に書かれた「ジョージ・セル」の一稿は、その答えともなることがらを示唆してくれる。
指揮台にのぼり、ものの二、三分もすると、楽員はこの指揮者の下で全力を尽くした方がいいか、その必要がないかを見わけるそうで、日本のある練達の楽員の言葉だが、うそではあるまい。~
ことの善悪を問わず指揮者という職業に権威は必要なのだが、セルはこの点で不足はなかった。家族的な安易感などというのはこの世界では第二の条件で、第一にはむしろ憤慨と悪意を呼びおこす叱咤である。こんな逸話がある。トスカニーニが死んだとき、ある楽員は葬儀に招かれなかった。
しかし彼はこう言った。「いいだろう。だが、セルのときにはぜひぼくに案内状を二枚とっといてくれ」
こんな話もある。クリーヴランドでは週二回の演奏会のために七回の練習を行うそうであるが、楽員はこう言うそうだ。「演奏会は九回あるが、たまたまそのうちの二回は客がいるにすぎない」
セルはよくヨーロッパの巨匠たちにあるような、稽古はほどほどに切り上げてという方法はとらない。納得ゆくまで各声部をみがきあげ、完璧なものにしようとする。フレーズをくっきりと造形し、鮮明な音色を求め、しかも音楽の内容を生気あふれるものにしようとする。そのうちどの一つでも充たされないかぎり、彼は稽古を止めない。この結果生まれた透明で純粋な音楽が、ときとして伝統的な音に馴れた聴衆に異様にひびくことはありうるだろう。つまり、この造型の仕方に完全に異質な音楽もあるはずである。それは発売されたレコードの一覧を見てみればわかる。セル自身が自信をもっているのは、一見予想外にみえるがウイーン古典派である。そして名実ともにレコード表に見当たらないのはフランス近代音楽、とりわけ印象派である。印象派の音色とセルの美意識が造型するもの、これはたしかに異質だろう。しかし、まだ自分の耳でたしかめてもいないわたしには何も言えない。あるいはすばらしいかもしれない。セル自身がこんなことを言っているのだから。
「不統一のまま熱狂するのもたしかに結構だろう。だがわたしには、偉大な芸術とは決して無秩序ではないということだ」
ドヴォルザーク:
交響曲第8番 ト長調 Op. 88, B. 163
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
ジョージ・セル(指揮)
(録音: 1969, Liver recording)
セルは、明らかにその天性においても信条においても、新しい時代の担い手といっていいだろう。現在彼に抗しうるのはバックハウスのほかに存在しない。それは<裸形の精神>ということだ。手垢だらけのロマンティシズムへの郷愁にも、超絶技巧への盲信にも、誇張したスキャンダラスな解釈にも無縁な、ひどく透明で、緊張した精神構造を持った人間という意味である。だから彼はひとりの偉大な芸術家の典型なのであって、ただクリーヴランドの指揮者でもなく、アメリカの寵児でもなく、没落した西欧教養世界を含めた再現芸術の世界での新しい典型ということができるのである。
その特徴を透明、純粋、緊張の極限、巨大な構造物などと名付けることができるが、その証拠をひろい出すのは困難ではない。数十枚の発売されたレコードの中から、二、三枚のモーツァルトやベートーヴェンを任意にとりだしてみれば、いつでも気付くことができる。
モーツァルト:
交響曲第41番 ハ長調 「ジュピター」 K. 551
クリーヴランド管弦楽団
ジョージ・セル(指揮)
(録音: 18 November 1955)
『運命』においても『ジュピター』においても、彼はこれらが人間の運命とか神の創造などと少しも関係があるとは思っていないのであって、当然のことながら彼が拠るのは譜面だけである。忌憚なくいえば彼には想像力がおそろしく欠如している。フルトヴェングラーにあまっていたような想像力である。しかし今日この欠如は彼にとって最大の財産で、彼には譜面を彼流に理解した結果、楽員に命令して直線的に現実の音とする仕方しかない。余分なものは彼自身持っていないのである。だから、音楽につけ加えようがないのだ。
ワルターやフルトヴェングラー、あるいはベームなどは各地の歌劇場指揮者へと進んで行った。また当時は指揮者として名声を得るにはオペラとは無縁ではいられなかった。しかし、ハンガリー生まれのセルはドイツ、オーストリアから外へ飛び出し、オペラの世界からも絶縁の姿勢をとった珍しい指揮者であった。そしてその結果、孤高と言われる巨匠となった。
そして万人が素直に認めるところは、ジョージ・セルは厳しい訓練によって、クリーヴランド管弦楽団を世界最高のアンサンブルと称えられる合奏力に高めたという動かしようのない事実である。
by kirakuossan
| 2016-01-09 20:47
| クラシック
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