2015年 12月 03日
本当のところでわからない、だから面白いのでもあるが・・・ |
2015年12月3日(木)
確かに空想なぞしてはいなかった。青葉が太陽に光るのやら、石垣の苔のつき具合やらを一心に見ていたのだし、鮮やかに浮かび上がった文章をはっきりと辿った。余計な事は何一つ考えなかったのである。どの様な自然の諸条件に、僕の精神のどの様な性質が順応したのだろうか。そんな事はわからない。わからぬ許りではなく、そういう具合な考え方が既に一片の洒落に過ぎないのかも知れない。僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。
久しぶりに『無常という事』を読み返してみた。今思えばほんの3ページあまりの短い随筆である。でも当時、そう大学受験当時は、たったこれだけのものが、難解すぎて、何度読み返しても理解できなかった。その深く、得体のしれない文章の羅列にしか映らなかった。そのことで拒絶反応を起こして、小林秀雄の他のものを読み進める意欲など湧くはずがなかった。それが今では、難しさゆえに好んで読むようになるとはどうして想像できたことか。
上手に思い出す事は非常に難かしい。だが、それが、過去から未来に向って飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。成功の期はあるのだ。この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。
でもよく考えてみれば、やはり肝腎の”無常という事”が本当のところでよくわからない。もう一度読み返してみたがわからない。ただほんの一瞬早合点してわかりかけたような気がしただけだったのだろうか。結局小林秀雄は本当のところでわからない、だから面白いのでもあるが・・・
確かに空想なぞしてはいなかった。青葉が太陽に光るのやら、石垣の苔のつき具合やらを一心に見ていたのだし、鮮やかに浮かび上がった文章をはっきりと辿った。余計な事は何一つ考えなかったのである。どの様な自然の諸条件に、僕の精神のどの様な性質が順応したのだろうか。そんな事はわからない。わからぬ許りではなく、そういう具合な考え方が既に一片の洒落に過ぎないのかも知れない。僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。
久しぶりに『無常という事』を読み返してみた。今思えばほんの3ページあまりの短い随筆である。でも当時、そう大学受験当時は、たったこれだけのものが、難解すぎて、何度読み返しても理解できなかった。その深く、得体のしれない文章の羅列にしか映らなかった。そのことで拒絶反応を起こして、小林秀雄の他のものを読み進める意欲など湧くはずがなかった。それが今では、難しさゆえに好んで読むようになるとはどうして想像できたことか。
上手に思い出す事は非常に難かしい。だが、それが、過去から未来に向って飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。成功の期はあるのだ。この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。
でもよく考えてみれば、やはり肝腎の”無常という事”が本当のところでよくわからない。もう一度読み返してみたがわからない。ただほんの一瞬早合点してわかりかけたような気がしただけだったのだろうか。結局小林秀雄は本当のところでわからない、だから面白いのでもあるが・・・
by kirakuossan
| 2015-12-03 21:14
| 文芸
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