2015年 11月 30日
「誠実」な人 |
2015年11月30日(月)
もう30年まえにもなるだろうか、古本屋で筑摩書房の日本文学全集全70冊を買った。1970年ごろに発刊された全集で、たしか当時15,000円ぐらいはしただろうが、何を思ってか急に欲しくなって衝動買いしたものだ。それが今となってはたいへんに役立っている。かなりの冊数なので普段は自宅に据え置いて、読みたいときにその作家だけを抜き出してアトリエで読むというあんばいだ。そこで高見順を読もうと探したが見つからない。どうも入ってないようだ。3巻ほどにまとめられているその他大勢の作家たちと一緒に入っているのかもしれない。
ところで横光利一を河上徹太郎が『読書論』の冒頭で採りあげているので、作品が読みたくなって1冊抜き出してみた。するとこちらの解説文にも河上氏が「人と文学」と題して執筆していた。
人と文学
河上徹太郎
およそ近代の作家で、横光利一氏ほど人によって評価の違う人はあるまい。敬愛すべき作家、文学者として近代日本の宿命を一身に引受けて、これとまともに闘い表現したチャンピオンとして遇する人もあれば、まるで一顧の価値もない、否、邪道に陥った作家のようにいう向きもある。
私は今、本書の解説者としていきなり決定的な結論を出すのは差し控えよう。つまり氏は、大正末期から敗戦直後に至る時期に、わが文壇の第一線に立って、その主流を自分なみに生き抜いて来た人である。その道はひたむきなものであったが、決してひとりよがりの一筋道ではなかった。
周囲の情勢に反応して多様な変貌、生き方を呈したものであった。それは本書の収録作品が示すところであり、そして私のこの紹介もそれに準じて、読者の判断に資するものでありたいと思っている。
それにしても一言いっておきたいのは、私は横光氏の人柄が好きだということだ。それはわが文壇で稀有な誠実な人だったからである。この「誠実」というのは、丁度私が氏と一番近にいて仕事をしていた昭和十年代にフランスの知性作家アンドレ・ジイド等が使っていた意味のものであると共に、旧来の日本語が意味する語感にも通じるのである。すでに人間的にその誠実さという点で惹かれる以上、それが何かの形で現れている作品にもそれなりの好意を感じるのは当然である。私は横光氏の作品が幾多の欠点や誤算を露していようと、それを善意で解釈していこうとする傾向があるのは、これは当然のことだと認めて戴きたい。
もう何度も言ってきたことだが、河上徹太郎の文章は無駄がない、嘘がない、だから読む者にストレートに入って来て、感銘を残す。ある一人の作家を紹介したり功績を解説したりする文章で、これ以上読みやすくまた当人にとってこれ以上ありがたい語り手はいないだろう。ここでの「誠実」な人とあるのは、横光利一だけでなく河上徹太郎本人そのものでもあると思える。
「上海」は氏の最初の長編である。それは昭和三年から六年までの間に、個々の題名を持った一連の連作として書かれた。その題材は活々としており、「旅愁」と同じく国際小説だが、内容的に纏まっており、その点で長編で一番の傑作かも知れない。氏自身後年この作品が自分で一番好きだといっている。<略>
昭和五年という年に氏は二つの重要作品、短篇「機械」と長編「寝園」を書いている。「機械」の出現は「鬼面人を驚かす」横光氏の仕事の中でも、最も人々に衝撃を与えたものである。その頃の左翼に対する芸術派の反撃は、結局古い心境的な私小説の蒸し返しという武器に頼る外なかったのだが「機械」は全然新しい方法論に基づいた小説形式の実現だったからである。これは作品として一つの傑作が現れたというようなものではない。近代小説というものの原理を説き明かした設計図のようなものである。青写真そのものが作品として肉づけされたのである。デッサンがそのままタブローになっているのである。この寸法に合せて図を引けば、現代生活の人事機構の骨組が辿れる。<略>
ところで横光利一を河上徹太郎が『読書論』の冒頭で採りあげているので、作品が読みたくなって1冊抜き出してみた。するとこちらの解説文にも河上氏が「人と文学」と題して執筆していた。
人と文学
河上徹太郎
およそ近代の作家で、横光利一氏ほど人によって評価の違う人はあるまい。敬愛すべき作家、文学者として近代日本の宿命を一身に引受けて、これとまともに闘い表現したチャンピオンとして遇する人もあれば、まるで一顧の価値もない、否、邪道に陥った作家のようにいう向きもある。
私は今、本書の解説者としていきなり決定的な結論を出すのは差し控えよう。つまり氏は、大正末期から敗戦直後に至る時期に、わが文壇の第一線に立って、その主流を自分なみに生き抜いて来た人である。その道はひたむきなものであったが、決してひとりよがりの一筋道ではなかった。
周囲の情勢に反応して多様な変貌、生き方を呈したものであった。それは本書の収録作品が示すところであり、そして私のこの紹介もそれに準じて、読者の判断に資するものでありたいと思っている。
それにしても一言いっておきたいのは、私は横光氏の人柄が好きだということだ。それはわが文壇で稀有な誠実な人だったからである。この「誠実」というのは、丁度私が氏と一番近にいて仕事をしていた昭和十年代にフランスの知性作家アンドレ・ジイド等が使っていた意味のものであると共に、旧来の日本語が意味する語感にも通じるのである。すでに人間的にその誠実さという点で惹かれる以上、それが何かの形で現れている作品にもそれなりの好意を感じるのは当然である。私は横光氏の作品が幾多の欠点や誤算を露していようと、それを善意で解釈していこうとする傾向があるのは、これは当然のことだと認めて戴きたい。
もう何度も言ってきたことだが、河上徹太郎の文章は無駄がない、嘘がない、だから読む者にストレートに入って来て、感銘を残す。ある一人の作家を紹介したり功績を解説したりする文章で、これ以上読みやすくまた当人にとってこれ以上ありがたい語り手はいないだろう。ここでの「誠実」な人とあるのは、横光利一だけでなく河上徹太郎本人そのものでもあると思える。
「上海」は氏の最初の長編である。それは昭和三年から六年までの間に、個々の題名を持った一連の連作として書かれた。その題材は活々としており、「旅愁」と同じく国際小説だが、内容的に纏まっており、その点で長編で一番の傑作かも知れない。氏自身後年この作品が自分で一番好きだといっている。<略>
昭和五年という年に氏は二つの重要作品、短篇「機械」と長編「寝園」を書いている。「機械」の出現は「鬼面人を驚かす」横光氏の仕事の中でも、最も人々に衝撃を与えたものである。その頃の左翼に対する芸術派の反撃は、結局古い心境的な私小説の蒸し返しという武器に頼る外なかったのだが「機械」は全然新しい方法論に基づいた小説形式の実現だったからである。これは作品として一つの傑作が現れたというようなものではない。近代小説というものの原理を説き明かした設計図のようなものである。青写真そのものが作品として肉づけされたのである。デッサンがそのままタブローになっているのである。この寸法に合せて図を引けば、現代生活の人事機構の骨組が辿れる。<略>
by kirakuossan
| 2015-11-30 13:56
| 文芸
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