2015年 11月 18日
鎌倉☆妙本寺 |
2015年11月18日(水)
長谷へ向かう前にもうひとつ観ておかなければならないお寺がある。訪れる人もまばらではあったがこの寺がなかなか好かった。仁王門をくぐると立派な祖師堂が目の前にそびえる。本堂は仁王門手前を左に折れたところにある。
妙本寺。日蓮宗最古の寺院である。比企の乱の時、まだ幼少で京都にいたため生き延びたのが比企大学三郎能本だった。能本は、鎌倉で布教をしている日蓮聖人に出会い、「わが一族の菩提を弔って下さるのは、このお聖人しかいない」と決心し、自分の屋敷を日蓮聖人に献上したのが妙本寺の始まりといわれる。源頼朝が急死し、18歳の嫡男源頼家が鎌倉幕府第二代将軍となった。しかし幕政は北条時政・政子親子が掌握していて、将軍は幕府の象徴にすぎなかった。頼家の妻は比企能員の娘の若狭局で、比企能員の伯母・比企局は頼朝の乳母であった。そのため頼家は何かと比企能員を頼りにしていた。これを警戒し嫌う北条家とはやがて対立が激化し、1203年、権力保持を目論む北条一族の北条時政の謀略によって比企能員一族が滅ぼされる。
祖師堂右横奥の初春咲く海棠の前で、長谷川康子をめぐって三角関係にあった中原中也と小林秀雄が和解する。
その手前に並ぶ墓石は比企能員一族のものである。この地は比企能員一族が住む谷戸(やと)であったところから比企谷(ひきがやつ)と呼ばれる。
(2015年11月17日)
長谷へ向かう前にもうひとつ観ておかなければならないお寺がある。訪れる人もまばらではあったがこの寺がなかなか好かった。仁王門をくぐると立派な祖師堂が目の前にそびえる。本堂は仁王門手前を左に折れたところにある。
祖師堂右横奥の初春咲く海棠の前で、長谷川康子をめぐって三角関係にあった中原中也と小林秀雄が和解する。
その手前に並ぶ墓石は比企能員一族のものである。この地は比企能員一族が住む谷戸(やと)であったところから比企谷(ひきがやつ)と呼ばれる。
(2015年11月17日)
by kirakuossan
| 2015-11-18 06:11
| 新日本紀行
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