2015年 09月 10日
もう一つの「幕末史」 (四) |
2015年9月10日(木)
半藤一利著『幕末史』
幕末から明治時代初期にかけて活躍した幕臣、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟を称して「幕末の三舟」と呼んだ。徳川慶喜から戦後処理を一任された勝海舟は、官軍の西郷隆盛との交渉役の先陣に高橋泥舟を起用しようとするが、高橋は慶喜の身辺警護にあたるため、代わりに推挙されたのが高橋の義弟にあたる山岡鉄舟であった。鉄舟は海舟から西郷隆盛へ手渡す「一書を寄す」を携え、重要な任務を果すべく江戸を立つ。
「無偏無党、王道堂々たり。いま官軍鄙府(ひふ)に逼るといえども、君臣謹んで恭順の礼を守るは、我徳川氏の士民といえども、皇国の一民たるを以てのゆえなり。かつ皇国当今の形勢、昔時に異なり、兄弟牆(かき)にせめげども、外その侮を防ぐの時なるを知ればなり」~
そして戦争はしてはいけない、それでもあなた方がやるというのならこちらにもその覚悟がありますと堂々と記し、しかしながら、と官軍側の同情心に訴えるのです。
「その御処置のごときは、敢えて陳述する所にあらず。正ならば皇国の大幸、一点不正の御挙あらば、皇国の瓦解、乱民賊子の名、千載の下消するところなからんか。小臣推参して、その情実を哀訴せんとすれども、士民沸騰鼎のごとく、半日も去る能わず。ただ愁訴して、鎮撫を事とす。(後略)」
慶応4年3月9日、鉄舟が駿府に着き、松崎屋という料亭でいよいよ西郷と面談のはこびとなる。鉄舟は涙ながらに幕府の立場を述べ、訴える。そこで西郷から5つの条件を出される。
一、江戸城を明け渡す。
一、城中の兵を向島に移す。
一、兵器をすべて差し出す。
一、軍艦をすべて引き渡す。
一、将軍慶喜は備前藩にあずける。
このなかで「慶喜は備前藩にあずける」条件だけは、身の保証が出来ないだけに断固反対を述べると、西郷も頑として聞き入れずにいたが、さらに最後まで主君への忠義を貫かんとする鉄舟の赤誠に触れて、やがて西郷は心を動かされ、その主張を認め、将軍慶喜の身の安全を保証した。そして鉄舟は翌日には江戸へ帰っていく。見事にその大役を果たしたのだ。海舟はこの時のことを日記に綴り、感謝する。
「嗚呼、山岡氏沈勇にしてその識高く、能く君上(慶喜)の英意を演説して残す所なし。尤も以て敬服するに堪えたり」
実は、このとき、刀がないほど困窮していた鉄舟は親友の関口艮輔に大小を借りて官軍の陣営に向かったとされ、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったといわれる。
そして運命の勝海舟と西郷隆盛の会談が3月13日に顔合わせをし、翌14日に芝田町の薩摩藩屋敷で行われた。この時の様子は海舟の『氷川清話』に詳しく載っている。
「当日おれは、羽織袴で馬に騎って、従者を一人つれたばかりで、薩摩屋敷へ出掛けた。まず一室へ案内せられて、しばらく待っていると、西郷は庭のほうから、古洋服に薩摩風の引き切り下駄をはいて、例の熊次郎という忠僕を従え、平気な顔で出てきて、これは遅刻しまして失礼、と挨拶しながら座敷に通った。その様子は、少しも一大事を前に控えたものとは思われなかった」
こういう調子で会談ははじまったようです。そこで西郷さんはあっさり言ったというんです。
「戦争は好んで致すべきではありませんから、明日の総攻撃は、差し当たり一時中止することに致します」
ただ海舟は会談を済ませた後も決して安心はせずに色んな手を打つ。まずいざこざが起きないように強硬派を江戸から外に出す。そしてもし不幸にも戦になった時は、西軍を江戸の中に入れてから、一斉に火を点け、ナポレオンがモスクワでやられたような火攻めの殲滅作戦を行う、具体的にその火付け役まで根回ししていたのである。そしてさらに、3月27日にイギリス公使館まで出向き、パークス公使に面会を要求するのである。
それは、「江戸城無血開城」という歴史上の大事件の裏には、勝と西郷の地道な会談の努力だけでなく、あまり知られていないこのようなこともあった。
「密事を談じ、此艦をして一カ月停船なさしむるを約す」、勝がイギリス公使のパークスと一つの約束事を交わす。ここでいう「密事」とは、もし官軍(西軍)と争いにでもなった場合、徳川慶喜をロンドンに亡命させる、その時のためはイギリス軍艦にお願いする、といったことであった。このことは勝海舟のイギリス公使との信頼を勝ち得た粘り強い交渉が功を奏したところで、著者も触れているが、実はここのところが大切なところだと思う。
薩摩はイギリスと仲が良く、パークスは味方であって、薩摩のために尽くしてくれると考えています。それが「敵」の大将である勝さんとこれほど意気投合するとは想像すらしていなかったでしょう。
歴史とは人がつくるものとつくづく思います。人と人との信頼が何と大事なことか。勝と西郷、勝とパークス。それが戦乱と化しそうな歴史の流れを見事に押しとどめました。
最後の最後まであらゆることを想定し、そんな海舟の秀でた政治力と実行力、そして誠実な人間性が日本の歴史を支えたとも言えるのである。
つづく・・・
半藤一利著『幕末史』
幕末から明治時代初期にかけて活躍した幕臣、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟を称して「幕末の三舟」と呼んだ。徳川慶喜から戦後処理を一任された勝海舟は、官軍の西郷隆盛との交渉役の先陣に高橋泥舟を起用しようとするが、高橋は慶喜の身辺警護にあたるため、代わりに推挙されたのが高橋の義弟にあたる山岡鉄舟であった。鉄舟は海舟から西郷隆盛へ手渡す「一書を寄す」を携え、重要な任務を果すべく江戸を立つ。
「無偏無党、王道堂々たり。いま官軍鄙府(ひふ)に逼るといえども、君臣謹んで恭順の礼を守るは、我徳川氏の士民といえども、皇国の一民たるを以てのゆえなり。かつ皇国当今の形勢、昔時に異なり、兄弟牆(かき)にせめげども、外その侮を防ぐの時なるを知ればなり」~
そして戦争はしてはいけない、それでもあなた方がやるというのならこちらにもその覚悟がありますと堂々と記し、しかしながら、と官軍側の同情心に訴えるのです。
「その御処置のごときは、敢えて陳述する所にあらず。正ならば皇国の大幸、一点不正の御挙あらば、皇国の瓦解、乱民賊子の名、千載の下消するところなからんか。小臣推参して、その情実を哀訴せんとすれども、士民沸騰鼎のごとく、半日も去る能わず。ただ愁訴して、鎮撫を事とす。(後略)」
慶応4年3月9日、鉄舟が駿府に着き、松崎屋という料亭でいよいよ西郷と面談のはこびとなる。鉄舟は涙ながらに幕府の立場を述べ、訴える。そこで西郷から5つの条件を出される。
一、江戸城を明け渡す。
一、城中の兵を向島に移す。
一、兵器をすべて差し出す。
一、軍艦をすべて引き渡す。
一、将軍慶喜は備前藩にあずける。
このなかで「慶喜は備前藩にあずける」条件だけは、身の保証が出来ないだけに断固反対を述べると、西郷も頑として聞き入れずにいたが、さらに最後まで主君への忠義を貫かんとする鉄舟の赤誠に触れて、やがて西郷は心を動かされ、その主張を認め、将軍慶喜の身の安全を保証した。そして鉄舟は翌日には江戸へ帰っていく。見事にその大役を果たしたのだ。海舟はこの時のことを日記に綴り、感謝する。
「嗚呼、山岡氏沈勇にしてその識高く、能く君上(慶喜)の英意を演説して残す所なし。尤も以て敬服するに堪えたり」
実は、このとき、刀がないほど困窮していた鉄舟は親友の関口艮輔に大小を借りて官軍の陣営に向かったとされ、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったといわれる。
そして運命の勝海舟と西郷隆盛の会談が3月13日に顔合わせをし、翌14日に芝田町の薩摩藩屋敷で行われた。この時の様子は海舟の『氷川清話』に詳しく載っている。
「当日おれは、羽織袴で馬に騎って、従者を一人つれたばかりで、薩摩屋敷へ出掛けた。まず一室へ案内せられて、しばらく待っていると、西郷は庭のほうから、古洋服に薩摩風の引き切り下駄をはいて、例の熊次郎という忠僕を従え、平気な顔で出てきて、これは遅刻しまして失礼、と挨拶しながら座敷に通った。その様子は、少しも一大事を前に控えたものとは思われなかった」
こういう調子で会談ははじまったようです。そこで西郷さんはあっさり言ったというんです。
「戦争は好んで致すべきではありませんから、明日の総攻撃は、差し当たり一時中止することに致します」
ただ海舟は会談を済ませた後も決して安心はせずに色んな手を打つ。まずいざこざが起きないように強硬派を江戸から外に出す。そしてもし不幸にも戦になった時は、西軍を江戸の中に入れてから、一斉に火を点け、ナポレオンがモスクワでやられたような火攻めの殲滅作戦を行う、具体的にその火付け役まで根回ししていたのである。そしてさらに、3月27日にイギリス公使館まで出向き、パークス公使に面会を要求するのである。
それは、「江戸城無血開城」という歴史上の大事件の裏には、勝と西郷の地道な会談の努力だけでなく、あまり知られていないこのようなこともあった。
「密事を談じ、此艦をして一カ月停船なさしむるを約す」、勝がイギリス公使のパークスと一つの約束事を交わす。ここでいう「密事」とは、もし官軍(西軍)と争いにでもなった場合、徳川慶喜をロンドンに亡命させる、その時のためはイギリス軍艦にお願いする、といったことであった。このことは勝海舟のイギリス公使との信頼を勝ち得た粘り強い交渉が功を奏したところで、著者も触れているが、実はここのところが大切なところだと思う。
薩摩はイギリスと仲が良く、パークスは味方であって、薩摩のために尽くしてくれると考えています。それが「敵」の大将である勝さんとこれほど意気投合するとは想像すらしていなかったでしょう。
歴史とは人がつくるものとつくづく思います。人と人との信頼が何と大事なことか。勝と西郷、勝とパークス。それが戦乱と化しそうな歴史の流れを見事に押しとどめました。
最後の最後まであらゆることを想定し、そんな海舟の秀でた政治力と実行力、そして誠実な人間性が日本の歴史を支えたとも言えるのである。
つづく・・・
by kirakuossan
| 2015-09-10 15:51
| ヒストリー
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