2015年 06月 03日
村上春樹のシューベルトのソナタD850 |
2015年6月3日(水)
思うのだけれど、クラシック音楽を聴く喜びのひとつは、自分なりにいくつかの名曲を持ち、自分なりに何人かの名演奏家を持つことにあるのではないだろうか。それは場合によっては、世間の評価とは合致しないかもしれない。でもそのような「自分だけの引き出し」を持つことによって、その人の音楽世界は独自の広がりを持ち、深みを持つようになっていくはずだ。そしてシューベルトのニ長調ソナタは、僕にとってのそのような大事な「個人的引き出し」であり、僕はその音楽を通して、長い歳月のあいだに、ユージン・インストミンやヴァルター・クリーンやクルフォード・カーゾン、そしてアンスネスといったピアニストたちーこう言ってはなんだけど、決して超一流のピアニストというわけではないーがそれぞれに紡ぎだす優れた音楽世界に巡りあってくることができた。当たり前のことだけれど、それはほかの誰の体験でもない。僕の体験なのだ。
そしてそのような個人的体験は、それなりに貴重な温かい記憶となって、僕の心の中に残っている。あなたの心の中にも、それに類したものは少なからずあるはずだ。僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料として、世界を生きている。もし記憶のぬくもりというものがなかったとしたら、太陽系第三惑星上における我々の人生はおそらく、耐え難いまでに寒々しいものになっているはずだ。だからこそおそらく僕らは恋をするのだし、ときとして、まるで恋をするように音楽を聴くのだ。
村上春樹が著書『意味がなければスイングはない』でこのように述べている。彼の言う「自分だけの引き出し」のなかから一曲、シューベルトのピアノ・ソナタ第17番ニ長調D850を採りあげて、書き綴っていく。
そこいらの半端な音楽評論家よりよほど腰の入った、中身の濃い解説というか、持論を展開していく。
村上春樹によれば、かの吉田秀和をしてもシューベルトのこのソナタを「イ短調ソナタは聴いても、このニ長調は苦手だった。シューベルトの病気の一つといったらいけないかもしれないが、とにかく冗漫にすぎる」と。
またシューベルトのニ長調ソナタD850は、『名曲のたのしみ、吉田秀和』のなかでこのように書いてある。
シューベルトって人はソナタを書いて、ベートーヴェンに張り合うつもりで苦労した。ひじょうに苦心しながら、うまくいってみたり、うまくいかないんで途中でやめちゃったりと、考えたりやったりする。いろんな彼の音楽的思考のあとがみえて、ソナタをきくのがおもしろいんですけどね。しかしこの曲は、やっぱりはじめはベートーヴェンに近いことをやりながら、途中で「これちょっとまずいかなあ」と思いながらも、よく我慢しておしまいまで書いた、っていう感じがありましてね、我慢してるところがやっぱり出来がよくなかったかもしれないんだけど、しかし、それを我慢し通して、吹っ切って、最後の楽章になると、かつて誰も書いたことがないような、天才的なのんきさ、ってのもおかしいけど、まるで鼻歌でもうたっているような調子の主題でもって終楽章を書き出すんですよ。
村上春樹はよほどこの曲を気に入っているらしく、15種類の演奏家のレコードやCDを持っていることを明かす。そしてそれらを録音時期に応じて、初期、中期、現代の3分類に分けて順次説明を加えていく。ここでのそれぞれのピアニストの演奏評が素人の域をはるかに超え、説得力を持ち、なかなか読んでいて面白いのである。
吉田秀和がいう”鼻歌でもうたっているような”部分は、村上春樹は「いかにも、”これがウィーンだ”という空気が流れ込んでくる」といった表現を使いながら、彼が推奨するヴァルター・クリーンの演奏を紹介する。中期(70~90年代の録音)の演奏ではこのクリーンの演奏が際立っていて、地味なピアニストだが大人の風格を持ち合わせ、いつの間にか引き込まれてしまうような演奏をする。方や、同じ中期でも、ブレンデルとアシュケナージは、楽章と楽章のつながりが悪く、総体としての音楽世界がうまく立ち上がっておらず、ただだらだらと退屈な演奏と切り捨てる。
初期(70年以前)の演奏では、クリフォード・カーゾンを称える。「クリスプで正確なタッチ、わざとらしさのない簡潔なユーモア、長く着込んだ上等のツイードの上着のような心地よさ、柔軟な間合いの取り方、とりわけ緩徐楽章におけるいかにもたおやかな、優しい音楽の捉え方、どれをとっても一級品だ」と最上の褒め言葉で持ち上げる。他にケンプは「好感は持てるが、なにか一枚、薄い布にくるまれたような感じ」、ヘブラーは「品がよくて、サロン的で、午後の紅茶の香りがする」と絶好調だ。ただ、旧ソビエトのリヒテルとギレリスに関してはこの曲の演奏については、どちらも「今となっては、歴史の引き出しの中にそっとしまい込んでおくのが賢明なのかもしれない」とまでおっしゃる。
現代(90年以降)ではノルウエイの気鋭ピアニスト、レイフ・オヴェ・アンスネスには、「何よりも流れの筋が良い。全体の音楽的スケールは大きいが、門構えはコンパクトに抑えられている、そのへんの設定に、このピアニストの聡明さを感じないわけにはいかない」といった、もう一つ意味不明な表現で褒めあげる。
こうして読み進めていく中で音楽へのこだわりや愛情が充分に感じ取れ、こちらまでが楽しい思いをする。文章そのものがライト感覚で、読んだ尻から空中に舞い上がっていくような、そんな書き方が読者を束縛しないからかもしれない。この人の小説を読みたいとは思わないが、多分、このライト感覚が今の若者たちにフィットしているのではないかと、ふと思ってみたりもするのである。
シューベルトのピアノ曲は最近よく好んで聴くが、「即興曲」や「楽興の時」など小品集が主であって、長大なピアノ・ソナタは敬遠しがちである。今回、この書物で紹介されたD850を何度もいろんな演奏家で聴いてみた。そしていままで冗長にすぎる印象を持っていたこのソナタが聴きこむにつれて魅力を放つ楽曲であることにも気づいた。
シューベルト:
ピアノ・ソナタ第17番 ニ長調 「ガシュタイナー・ソナタ」 Op. 53, D. 850
ヴァルター・クリーン(ピアノ)
レイフ・オヴェ・アンスネス(ピアノ)
僕の「自分だけの引き出し」の演奏・・・
エリソ・ヴィルサラーゼ(ピアノ)
思うのだけれど、クラシック音楽を聴く喜びのひとつは、自分なりにいくつかの名曲を持ち、自分なりに何人かの名演奏家を持つことにあるのではないだろうか。それは場合によっては、世間の評価とは合致しないかもしれない。でもそのような「自分だけの引き出し」を持つことによって、その人の音楽世界は独自の広がりを持ち、深みを持つようになっていくはずだ。そしてシューベルトのニ長調ソナタは、僕にとってのそのような大事な「個人的引き出し」であり、僕はその音楽を通して、長い歳月のあいだに、ユージン・インストミンやヴァルター・クリーンやクルフォード・カーゾン、そしてアンスネスといったピアニストたちーこう言ってはなんだけど、決して超一流のピアニストというわけではないーがそれぞれに紡ぎだす優れた音楽世界に巡りあってくることができた。当たり前のことだけれど、それはほかの誰の体験でもない。僕の体験なのだ。
そしてそのような個人的体験は、それなりに貴重な温かい記憶となって、僕の心の中に残っている。あなたの心の中にも、それに類したものは少なからずあるはずだ。僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料として、世界を生きている。もし記憶のぬくもりというものがなかったとしたら、太陽系第三惑星上における我々の人生はおそらく、耐え難いまでに寒々しいものになっているはずだ。だからこそおそらく僕らは恋をするのだし、ときとして、まるで恋をするように音楽を聴くのだ。
村上春樹が著書『意味がなければスイングはない』でこのように述べている。彼の言う「自分だけの引き出し」のなかから一曲、シューベルトのピアノ・ソナタ第17番ニ長調D850を採りあげて、書き綴っていく。
そこいらの半端な音楽評論家よりよほど腰の入った、中身の濃い解説というか、持論を展開していく。
村上春樹によれば、かの吉田秀和をしてもシューベルトのこのソナタを「イ短調ソナタは聴いても、このニ長調は苦手だった。シューベルトの病気の一つといったらいけないかもしれないが、とにかく冗漫にすぎる」と。
またシューベルトのニ長調ソナタD850は、『名曲のたのしみ、吉田秀和』のなかでこのように書いてある。
シューベルトって人はソナタを書いて、ベートーヴェンに張り合うつもりで苦労した。ひじょうに苦心しながら、うまくいってみたり、うまくいかないんで途中でやめちゃったりと、考えたりやったりする。いろんな彼の音楽的思考のあとがみえて、ソナタをきくのがおもしろいんですけどね。しかしこの曲は、やっぱりはじめはベートーヴェンに近いことをやりながら、途中で「これちょっとまずいかなあ」と思いながらも、よく我慢しておしまいまで書いた、っていう感じがありましてね、我慢してるところがやっぱり出来がよくなかったかもしれないんだけど、しかし、それを我慢し通して、吹っ切って、最後の楽章になると、かつて誰も書いたことがないような、天才的なのんきさ、ってのもおかしいけど、まるで鼻歌でもうたっているような調子の主題でもって終楽章を書き出すんですよ。
村上春樹はよほどこの曲を気に入っているらしく、15種類の演奏家のレコードやCDを持っていることを明かす。そしてそれらを録音時期に応じて、初期、中期、現代の3分類に分けて順次説明を加えていく。ここでのそれぞれのピアニストの演奏評が素人の域をはるかに超え、説得力を持ち、なかなか読んでいて面白いのである。
吉田秀和がいう”鼻歌でもうたっているような”部分は、村上春樹は「いかにも、”これがウィーンだ”という空気が流れ込んでくる」といった表現を使いながら、彼が推奨するヴァルター・クリーンの演奏を紹介する。中期(70~90年代の録音)の演奏ではこのクリーンの演奏が際立っていて、地味なピアニストだが大人の風格を持ち合わせ、いつの間にか引き込まれてしまうような演奏をする。方や、同じ中期でも、ブレンデルとアシュケナージは、楽章と楽章のつながりが悪く、総体としての音楽世界がうまく立ち上がっておらず、ただだらだらと退屈な演奏と切り捨てる。
初期(70年以前)の演奏では、クリフォード・カーゾンを称える。「クリスプで正確なタッチ、わざとらしさのない簡潔なユーモア、長く着込んだ上等のツイードの上着のような心地よさ、柔軟な間合いの取り方、とりわけ緩徐楽章におけるいかにもたおやかな、優しい音楽の捉え方、どれをとっても一級品だ」と最上の褒め言葉で持ち上げる。他にケンプは「好感は持てるが、なにか一枚、薄い布にくるまれたような感じ」、ヘブラーは「品がよくて、サロン的で、午後の紅茶の香りがする」と絶好調だ。ただ、旧ソビエトのリヒテルとギレリスに関してはこの曲の演奏については、どちらも「今となっては、歴史の引き出しの中にそっとしまい込んでおくのが賢明なのかもしれない」とまでおっしゃる。
現代(90年以降)ではノルウエイの気鋭ピアニスト、レイフ・オヴェ・アンスネスには、「何よりも流れの筋が良い。全体の音楽的スケールは大きいが、門構えはコンパクトに抑えられている、そのへんの設定に、このピアニストの聡明さを感じないわけにはいかない」といった、もう一つ意味不明な表現で褒めあげる。
こうして読み進めていく中で音楽へのこだわりや愛情が充分に感じ取れ、こちらまでが楽しい思いをする。文章そのものがライト感覚で、読んだ尻から空中に舞い上がっていくような、そんな書き方が読者を束縛しないからかもしれない。この人の小説を読みたいとは思わないが、多分、このライト感覚が今の若者たちにフィットしているのではないかと、ふと思ってみたりもするのである。
シューベルトのピアノ曲は最近よく好んで聴くが、「即興曲」や「楽興の時」など小品集が主であって、長大なピアノ・ソナタは敬遠しがちである。今回、この書物で紹介されたD850を何度もいろんな演奏家で聴いてみた。そしていままで冗長にすぎる印象を持っていたこのソナタが聴きこむにつれて魅力を放つ楽曲であることにも気づいた。
シューベルト:
ピアノ・ソナタ第17番 ニ長調 「ガシュタイナー・ソナタ」 Op. 53, D. 850
ヴァルター・クリーン(ピアノ)
レイフ・オヴェ・アンスネス(ピアノ)
僕の「自分だけの引き出し」の演奏・・・
エリソ・ヴィルサラーゼ(ピアノ)
by kirakuossan
| 2015-06-03 14:09
| クラシック
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