2015年 04月 20日
「勝手にしろとでもいう外はない傑作」 |
2015年4月20日(月)
川端康成氏が「新潮」の文芸時評で、徳田氏の「和解」、正宗氏の「故郷」を評して、「二篇とも勝手にしろとでもいう外はない傑作である」と書いていた、と小林秀雄が言うので、今朝は先に青空文庫で徳田秋声の『和解』を読むこととなる。
一
奥の六畳に、私はM―子と火鉢の間に対坐してゐた。晩飯には少し間があるが、晩飯を済したのでは、夜の部の映画を見るのに時間が遅すぎる――ちやうどさう云つた時刻であつた。陽気が春めいて来てから、私は何となく出癖がついてゐた。日に一度くらゐ洋服を著て靴をはいて街へ出てみないと、何か憂鬱であつた。街へ出て見ても別に変つたことはなかつた。どこの町も人と円タクとネオンサインと、それから食糧品、雑貨、出版物、低俗な音楽の氾濫であつた。その日も私は為たい仕事が目の前に山ほど積つてゐるやうで、その癖何一つ為ることがないやうな気がしてゐた。その時T―が、いつもの、私を信じ切つてゐるやうな少し羞かしいやうな様子をして部屋の入口に現はれた。そしてつかつかと傍へ寄つて来た。
「済みませんけれど、一時お宅のアパアトにおいて戴きたいんですが……。家が見つかるまで。――家を釘づけにされちやつたんで。」彼はさういつて笑つてゐた。
「何うして?」
「それが実に乱暴なんです。壮士が十人も押掛けて来て、お巡りさんまで加勢して、否応なしに……。」
私も笑つてるより外なかつたが、困惑した。
「アパアトは一杯だぜ。三階の隅に六畳ばかり畳敷のところはあるけれど、あすこに住ふのは違法なんだから。」
「そこで結構です。小島弁護士も、後で行つて話すから、差当り先生のアパアトへ行くより外ないといふんです。」
「小島君が何うかしてくれさうなもんだね。」
「かうなつては手遅れだといふんです。防禦策は講じてあつたんだけれど、先方の遣口が実に非道いんです。」
「ぢや、まあ……為方がないね。」
『和解』は、”ほんの朝飯前”に読み切れるほどの短い小説だ。「~実に非道いんです。」と昔の小説家は上手く当て字を考えついたものだ、いかにも二字で”ひどさ”が実感できるなと感心しながら、朝飯前に読み上げた。
六
三日目に、告別式がお寺で行はれた。寺はK―や私に最も思出の深い、横寺町にあつた。
K―と私とは、むかしこの辺を、朝となく夕となく一緒に歩いたときの気持を取返してゐた。生温るい友情が、或る因縁で繋つてゐて、それから双方の方嚮に、年々開きが出て来たところで、全然相背反してしまつたものが、今度は反動で、ぴつたり一つの点に合致したやうに――それはしかし、考へてみれば、何うにもならないことが、余儀ない外面的の動機に強ひられた妥協的なものだともいへば言へるので、いつ又た何んな機会に、或ひは自然に徐々に、何うなつて行くかは、容易に予想できないといふ不安が、全くない訳ではなかつたけれど、しかし反目の理由は、既に私の気持で取除かれてゐたので、寧ろ前よりも和やかな友誼が還つて来たのであつた。何等抵触する筈のない、異なつた二つの存在であつた。
三日前、火葬場へ行つたときも、二十幾年も前に、嘗て私がK―の祖母を送つたときと同じ光景であつた。
焼けるのを待つあひだ、私たちは傍らの喫茶店へ入つて、紅茶を呑んだ。K―はお茶のかはりに、酒を呑んだ。
火葬場の帰りに、私は幾年ぶりかで、その近くに住んでゐる画伯と一緒に、K―の家へ寄つてみた。K―は生涯の主要な部分を、殆んど全くこの借家に過したといつてよかつた。硝子ごしに、往来のみえる茶の間で、私は小卓を囲んで、私の好きな菓子を食べ、お茶を呑みながら、話をした。地震のときのこと、環境の移りかはり、この家のひどく暑いことなど。
「夏は山がいいぢやないか。」
「ところが其奴がいけないんだ。例のごろごろさまがね。」
「家を建てた方がいいね。」
「それも何うもね。」
さうやつて、長火鉢を間に向き合つてゐるK―夫婦は、神楽坂の新婚時代と少しも変らなかつた。ただ、それはそれなりに、面差しに年代の影が差してゐるだけだつた。
K―の流儀で、通知を極度に制限したので、告別式は寂しかつたけれど、惨めではなかつた。順々に引揚げて行く参列者を送り出してから、私達は寺を出た。
「ちよつと行つてみよう。」K―が言ひ出した。
それは勿論O―先生の旧居のことであつた。その家は寺から二町ばかり行つたところの、路次の奥にあつた。周囲は三十年の昔し其儘であつた。井戸の傍らにある馴染の門の柳も芽をふいてゐた。門が締まつて、ちやうど空き家になつてゐた。
「この水が実にひどい悪水でね。」
K―はその井戸に、宿怨でもありさうに言つた。K―はここの玄関に来て間もなく、ひどい脚気に取りつかれて、北国の郷里へ帰つて行つた。O―先生はあんなに若くて胃癌で斃れてしまつた。
「これは牛込の名物として、保存すると可かつた。」
「その当時、その話もあつたんだが、維持が困難だらうといふんで、僕に入れといふんだけれど、何うして先生の書斎なんかにゐられるもんですか恐かなくて……。」
私達は笑ひながら、路次を出た。そして角の墓地をめぐつて、ちやうど先生の庭からおりて行けるやうになつてゐる、裏通りの私達の昔しの塾の迹を尋ねてみた。その頃の悒鬱しい家や庭がすつかり潰されて、新らしい家が幾つも軒を並べてゐた。昔しの面影はどこにも忍ばれなかつた。
今は私も、憂鬱なその頃の生活を、まるで然うした一つの、夢幻的な現象として、振返ることが出来るのであつた。それに其処で一つ鍋の飯を食べた仲間は、みんな死んでしまつた。私一人が取残されてゐた。K―はその頃、大塚の方に、祖母とT―と、今一人の妹とを呼び迎へて、一戸を構へてゐた。
私達は神楽坂通りのたはら屋で、軽い食事をしてから、別れた。
数日たつて、若い未亡人が、K―からの少なからぬ手当を受取つて、サクラをつれて田舎へ帰つてから、私達は銀座裏にある、K―達の行きつけの家で、一夕会食をした。そしてそれから又幾日かを過ぎて、K―は或日自身がくさくさの土産をもつて、更めて私を訪ねた。そして誰よりもK―が先生に愛されてゐたことと、客分として誰よりも優遇されてゐた私自身が一つも不平を言ふところがない筈だことと、それから病的に犬を恐れる彼の恐怖癖を、独得の話術の巧さで一席弁ずると、そこそこに帰つていつた。
私は又た何か軽い当味を喰つたやうな気がした。
(昭和8年6月「新潮」)
読み終えて気づいた。旧友K―は、泉鏡花であり、O―先生は尾崎紅葉のことである。そしてK―の弟、T―は?
徳田秋声が晩年、東京・本郷の自宅裏にアパート「フジハウス」なるものを建てた。二階建て で一部、三階建てとなっていて、紅葉門下であった鏡花の実弟、泉斜汀が秋声を頼って入居し、数日後に急逝した。この小説は、その時の様子を書いている。
秋声(1872~1943)と鏡花(1873~1939)は同じ金沢の出で、紅葉門下の旧友であったが、秋声が自然主義に加わり、師である紅葉の死を作品で暴露的に書いたとして、以来、鏡花が距離を置いていた。弟斜汀の死がきっかけとなって、二人は再会した。互いのわだかまりが氷解したことが『和解』に描かれている。
川端康成(1899~1972)は晩年にさらに言う「日本の小説は西鶴から鷗外、漱石に飛んだとするよりも、西鶴から秋声に飛んだとする方が、私にはいいやうに思ふ見方である。鷗外、漱石などは未熟の時代の未発達の作家ではなかつたか」とまで。
川端康成氏が「新潮」の文芸時評で、徳田氏の「和解」、正宗氏の「故郷」を評して、「二篇とも勝手にしろとでもいう外はない傑作である」と書いていた、と小林秀雄が言うので、今朝は先に青空文庫で徳田秋声の『和解』を読むこととなる。
一
奥の六畳に、私はM―子と火鉢の間に対坐してゐた。晩飯には少し間があるが、晩飯を済したのでは、夜の部の映画を見るのに時間が遅すぎる――ちやうどさう云つた時刻であつた。陽気が春めいて来てから、私は何となく出癖がついてゐた。日に一度くらゐ洋服を著て靴をはいて街へ出てみないと、何か憂鬱であつた。街へ出て見ても別に変つたことはなかつた。どこの町も人と円タクとネオンサインと、それから食糧品、雑貨、出版物、低俗な音楽の氾濫であつた。その日も私は為たい仕事が目の前に山ほど積つてゐるやうで、その癖何一つ為ることがないやうな気がしてゐた。その時T―が、いつもの、私を信じ切つてゐるやうな少し羞かしいやうな様子をして部屋の入口に現はれた。そしてつかつかと傍へ寄つて来た。
「済みませんけれど、一時お宅のアパアトにおいて戴きたいんですが……。家が見つかるまで。――家を釘づけにされちやつたんで。」彼はさういつて笑つてゐた。
「何うして?」
「それが実に乱暴なんです。壮士が十人も押掛けて来て、お巡りさんまで加勢して、否応なしに……。」
私も笑つてるより外なかつたが、困惑した。
「アパアトは一杯だぜ。三階の隅に六畳ばかり畳敷のところはあるけれど、あすこに住ふのは違法なんだから。」
「そこで結構です。小島弁護士も、後で行つて話すから、差当り先生のアパアトへ行くより外ないといふんです。」
「小島君が何うかしてくれさうなもんだね。」
「かうなつては手遅れだといふんです。防禦策は講じてあつたんだけれど、先方の遣口が実に非道いんです。」
「ぢや、まあ……為方がないね。」
『和解』は、”ほんの朝飯前”に読み切れるほどの短い小説だ。「~実に非道いんです。」と昔の小説家は上手く当て字を考えついたものだ、いかにも二字で”ひどさ”が実感できるなと感心しながら、朝飯前に読み上げた。
六
三日目に、告別式がお寺で行はれた。寺はK―や私に最も思出の深い、横寺町にあつた。
K―と私とは、むかしこの辺を、朝となく夕となく一緒に歩いたときの気持を取返してゐた。生温るい友情が、或る因縁で繋つてゐて、それから双方の方嚮に、年々開きが出て来たところで、全然相背反してしまつたものが、今度は反動で、ぴつたり一つの点に合致したやうに――それはしかし、考へてみれば、何うにもならないことが、余儀ない外面的の動機に強ひられた妥協的なものだともいへば言へるので、いつ又た何んな機会に、或ひは自然に徐々に、何うなつて行くかは、容易に予想できないといふ不安が、全くない訳ではなかつたけれど、しかし反目の理由は、既に私の気持で取除かれてゐたので、寧ろ前よりも和やかな友誼が還つて来たのであつた。何等抵触する筈のない、異なつた二つの存在であつた。
三日前、火葬場へ行つたときも、二十幾年も前に、嘗て私がK―の祖母を送つたときと同じ光景であつた。
焼けるのを待つあひだ、私たちは傍らの喫茶店へ入つて、紅茶を呑んだ。K―はお茶のかはりに、酒を呑んだ。
火葬場の帰りに、私は幾年ぶりかで、その近くに住んでゐる画伯と一緒に、K―の家へ寄つてみた。K―は生涯の主要な部分を、殆んど全くこの借家に過したといつてよかつた。硝子ごしに、往来のみえる茶の間で、私は小卓を囲んで、私の好きな菓子を食べ、お茶を呑みながら、話をした。地震のときのこと、環境の移りかはり、この家のひどく暑いことなど。
「夏は山がいいぢやないか。」
「ところが其奴がいけないんだ。例のごろごろさまがね。」
「家を建てた方がいいね。」
「それも何うもね。」
さうやつて、長火鉢を間に向き合つてゐるK―夫婦は、神楽坂の新婚時代と少しも変らなかつた。ただ、それはそれなりに、面差しに年代の影が差してゐるだけだつた。
K―の流儀で、通知を極度に制限したので、告別式は寂しかつたけれど、惨めではなかつた。順々に引揚げて行く参列者を送り出してから、私達は寺を出た。
「ちよつと行つてみよう。」K―が言ひ出した。
それは勿論O―先生の旧居のことであつた。その家は寺から二町ばかり行つたところの、路次の奥にあつた。周囲は三十年の昔し其儘であつた。井戸の傍らにある馴染の門の柳も芽をふいてゐた。門が締まつて、ちやうど空き家になつてゐた。
「この水が実にひどい悪水でね。」
K―はその井戸に、宿怨でもありさうに言つた。K―はここの玄関に来て間もなく、ひどい脚気に取りつかれて、北国の郷里へ帰つて行つた。O―先生はあんなに若くて胃癌で斃れてしまつた。
「これは牛込の名物として、保存すると可かつた。」
「その当時、その話もあつたんだが、維持が困難だらうといふんで、僕に入れといふんだけれど、何うして先生の書斎なんかにゐられるもんですか恐かなくて……。」
私達は笑ひながら、路次を出た。そして角の墓地をめぐつて、ちやうど先生の庭からおりて行けるやうになつてゐる、裏通りの私達の昔しの塾の迹を尋ねてみた。その頃の悒鬱しい家や庭がすつかり潰されて、新らしい家が幾つも軒を並べてゐた。昔しの面影はどこにも忍ばれなかつた。
今は私も、憂鬱なその頃の生活を、まるで然うした一つの、夢幻的な現象として、振返ることが出来るのであつた。それに其処で一つ鍋の飯を食べた仲間は、みんな死んでしまつた。私一人が取残されてゐた。K―はその頃、大塚の方に、祖母とT―と、今一人の妹とを呼び迎へて、一戸を構へてゐた。
私達は神楽坂通りのたはら屋で、軽い食事をしてから、別れた。
数日たつて、若い未亡人が、K―からの少なからぬ手当を受取つて、サクラをつれて田舎へ帰つてから、私達は銀座裏にある、K―達の行きつけの家で、一夕会食をした。そしてそれから又幾日かを過ぎて、K―は或日自身がくさくさの土産をもつて、更めて私を訪ねた。そして誰よりもK―が先生に愛されてゐたことと、客分として誰よりも優遇されてゐた私自身が一つも不平を言ふところがない筈だことと、それから病的に犬を恐れる彼の恐怖癖を、独得の話術の巧さで一席弁ずると、そこそこに帰つていつた。
私は又た何か軽い当味を喰つたやうな気がした。
(昭和8年6月「新潮」)
読み終えて気づいた。旧友K―は、泉鏡花であり、O―先生は尾崎紅葉のことである。そしてK―の弟、T―は?
徳田秋声が晩年、東京・本郷の自宅裏にアパート「フジハウス」なるものを建てた。二階建て で一部、三階建てとなっていて、紅葉門下であった鏡花の実弟、泉斜汀が秋声を頼って入居し、数日後に急逝した。この小説は、その時の様子を書いている。
秋声(1872~1943)と鏡花(1873~1939)は同じ金沢の出で、紅葉門下の旧友であったが、秋声が自然主義に加わり、師である紅葉の死を作品で暴露的に書いたとして、以来、鏡花が距離を置いていた。弟斜汀の死がきっかけとなって、二人は再会した。互いのわだかまりが氷解したことが『和解』に描かれている。
川端康成(1899~1972)は晩年にさらに言う「日本の小説は西鶴から鷗外、漱石に飛んだとするよりも、西鶴から秋声に飛んだとする方が、私にはいいやうに思ふ見方である。鷗外、漱石などは未熟の時代の未発達の作家ではなかつたか」とまで。
by kirakuossan
| 2015-04-20 07:09
| 文芸
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