2015年 03月 28日
史伝『澁江抽齋』 -1 |
2015年3月28日(土)
石川淳は、1937年に『普賢』で芥川賞を受賞したが、その直後、『文学界』に発表した「マルスの歌」が反軍国調だとして発禁処分を受ける。編集責任者の河上徹太郎とともに謹慎状況になり、戦時中には小説が書けなかった。その時、石川は江戸文学の研究に没頭したり、いくつかの評論を書いたが、そのなかに森鴎外に関する評論がある。
石川に言わせると鴎外はこうだ・・・
「抽斎」と「霞亭」といずれを取るかといえば、どうでもよい質問のごとくであろう。だが、わたしは無意味なことはいわないつもりである。この二篇を措いて鴎外にはもっと傑作があると思っているようなひとびとを、わたしは信用しない。「雁」などは児戯に類する。「山椒大夫」に至っては俗臭芬芬たる駄作である。「百物語」の妙といえども、これを捨てて惜しまない。詩歌翻訳の評判ならば、別席の閑談にゆだねよう。
「抽斎」と「霞亭」と、双方とも結構だとか、選択は読者の趣味に依るとか、漫然とそう答えるかも知れぬひとびとを、わたしはまた信用しない。この二者撰一に於いて、撰ぶ人の文学上のプロフェッション・ド・ファオがあらわれるはずである。では、おまえはどうだときかれるであろう。ただちに答える、「抽斎」第一だと。そして附け加える、それはかならずしも「霞亭」を次位に貶すことではないと。
「抽斎」第一とは、わたしが目下立てておかねばならぬ仮定である。そのうえでなければ、わたしは鴎外について一行も書き出すことができない。だが、もしわたしが鴎外論を書き出したとすれば、この仮定は途中で、もしくは最後に破れるに至るかも知れない。それはわたしが書きながら発明するであろうことに属するので、さしあたり別のはなしである。
森鷗外の史伝『澁江抽齋』は、維新前後の歴史を背景に豊富な資料と客観的方法をもって描かれている。「高瀬舟」や「寒山拾得」が発表された同じ年、1916年1月から5月にかけて新聞に連載された、鴎外晩年の作である。この史伝を読んでまず驚かされるのは、詳細な調査に裏打ちされた史実であり、その登場人物の多さや、生年没年に始まり人物の生い立ちや性格、
仕事ぶりまで仔細に書き綴ったことである。
百十九節までに分れて書かれており、最初は抽齋の存在を知った動機からはじまり、その調査の経緯を詳しく説明する。
次に抽齋の師を中心に彼と交わった人物を次から次へと克明に挙げていく。主人公そのものより取り巻きの人物像に関わりすぎるきらいもあって少しダレなくもないが、<その二十七>節あたりからようやく抽齋に関して綿密に触れ出し、四人目の妻五百(いお)の生きざまを詳細に語り始めるころからいよいよ面白くなってくる。
五百が鍛冶橋内の上屋敷へ連れられて行くと、外の家と同じような考試に逢った。それは手跡、和歌、音曲の嗜みを験されるのである。試管は老女である。先ず硯箱と色紙とを持ち出して、老女が「これに一つお染めを」という。五百は自作の歌を書いたので、同時に和歌の吟味も済んだ。それから常磐津を一曲語らせた。これらの事は他家と何の殊なることもなかったが、女中が悉く綿服であったのが、五百の目に留まった。二十四万二千石の大名の奥の質素なのを、五百は喜んだ。そしてすぐにこの家に奉公したいと決心した。奥方は松平上総介斎政の女である。
この時老女がふと五百の衣類に三葉柏の紋の附いているのを見附けた。
渋江抽斎(1805~1858)は、江戸時代末期の医師で、考証家・書誌学者。 通称を道純といい、抽斎は号。儒者や医師達との交流を持ち、医学・哲学・芸術分野の作品を著した。なかでも考証家として当代並ぶ者なしと謳われ、『経籍訪古志』なる著作を遺した。
つづく・・・
石川淳は、1937年に『普賢』で芥川賞を受賞したが、その直後、『文学界』に発表した「マルスの歌」が反軍国調だとして発禁処分を受ける。編集責任者の河上徹太郎とともに謹慎状況になり、戦時中には小説が書けなかった。その時、石川は江戸文学の研究に没頭したり、いくつかの評論を書いたが、そのなかに森鴎外に関する評論がある。
石川に言わせると鴎外はこうだ・・・
「抽斎」と「霞亭」といずれを取るかといえば、どうでもよい質問のごとくであろう。だが、わたしは無意味なことはいわないつもりである。この二篇を措いて鴎外にはもっと傑作があると思っているようなひとびとを、わたしは信用しない。「雁」などは児戯に類する。「山椒大夫」に至っては俗臭芬芬たる駄作である。「百物語」の妙といえども、これを捨てて惜しまない。詩歌翻訳の評判ならば、別席の閑談にゆだねよう。
「抽斎」と「霞亭」と、双方とも結構だとか、選択は読者の趣味に依るとか、漫然とそう答えるかも知れぬひとびとを、わたしはまた信用しない。この二者撰一に於いて、撰ぶ人の文学上のプロフェッション・ド・ファオがあらわれるはずである。では、おまえはどうだときかれるであろう。ただちに答える、「抽斎」第一だと。そして附け加える、それはかならずしも「霞亭」を次位に貶すことではないと。
「抽斎」第一とは、わたしが目下立てておかねばならぬ仮定である。そのうえでなければ、わたしは鴎外について一行も書き出すことができない。だが、もしわたしが鴎外論を書き出したとすれば、この仮定は途中で、もしくは最後に破れるに至るかも知れない。それはわたしが書きながら発明するであろうことに属するので、さしあたり別のはなしである。
森鷗外の史伝『澁江抽齋』は、維新前後の歴史を背景に豊富な資料と客観的方法をもって描かれている。「高瀬舟」や「寒山拾得」が発表された同じ年、1916年1月から5月にかけて新聞に連載された、鴎外晩年の作である。この史伝を読んでまず驚かされるのは、詳細な調査に裏打ちされた史実であり、その登場人物の多さや、生年没年に始まり人物の生い立ちや性格、
仕事ぶりまで仔細に書き綴ったことである。
百十九節までに分れて書かれており、最初は抽齋の存在を知った動機からはじまり、その調査の経緯を詳しく説明する。
次に抽齋の師を中心に彼と交わった人物を次から次へと克明に挙げていく。主人公そのものより取り巻きの人物像に関わりすぎるきらいもあって少しダレなくもないが、<その二十七>節あたりからようやく抽齋に関して綿密に触れ出し、四人目の妻五百(いお)の生きざまを詳細に語り始めるころからいよいよ面白くなってくる。
五百が鍛冶橋内の上屋敷へ連れられて行くと、外の家と同じような考試に逢った。それは手跡、和歌、音曲の嗜みを験されるのである。試管は老女である。先ず硯箱と色紙とを持ち出して、老女が「これに一つお染めを」という。五百は自作の歌を書いたので、同時に和歌の吟味も済んだ。それから常磐津を一曲語らせた。これらの事は他家と何の殊なることもなかったが、女中が悉く綿服であったのが、五百の目に留まった。二十四万二千石の大名の奥の質素なのを、五百は喜んだ。そしてすぐにこの家に奉公したいと決心した。奥方は松平上総介斎政の女である。
この時老女がふと五百の衣類に三葉柏の紋の附いているのを見附けた。
渋江抽斎(1805~1858)は、江戸時代末期の医師で、考証家・書誌学者。 通称を道純といい、抽斎は号。儒者や医師達との交流を持ち、医学・哲学・芸術分野の作品を著した。なかでも考証家として当代並ぶ者なしと謳われ、『経籍訪古志』なる著作を遺した。
つづく・・・
by kirakuossan
| 2015-03-28 06:27
| 文芸
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