2015年 03月 01日
信州の日本画家ふたり |
2015年3月1日(日)
菊池契月(1879~1955)は、長野県下高井郡中野町(いまの中野市)で素封家の細野家の次男として生まれた。13歳で渋温泉在住の文人画家児玉果亭に入門する。父親の反対を押し切って京都へ家出し、やがて18歳で、将来後を継ぐこととなる菊池芳文の門下となる。
契月は今まで名前を聞いたことがあるようなないような人であったが、今日、「なんでも鑑定団」を見ていて、氏の作品が登場、一目で好きになった。しかも信州生まれの画家とあってなおさら興味が湧いたのである。
左の画の紅い着物を着た女性のしっかりと見据えた目線がリアリティに富んでいて何ともいえなく好きである。
この画は1986年の切手趣味週間の図柄にもなって有名である。契月の画風が変遷して行くなか、大正11年のヨーロッパ留学を経たあと、ひとつの境地に到達したときの作品とされている。 「南波照間」1928年(昭和3)作。
左より:「少女」1932年(昭和7).「散策」1934年(昭和9).「姜詩妻」1907年(明治40)頃。
「姜詩妻」は28歳の作品、いくども新しい画風に挑み、後の画になるにつれ、背景を描かずに人物に注力した画となっている。ずいぶんと違うようだが、でもどちらも気品ある美しさには変りない。
契月を13歳のときに預かった師匠が児玉果亭(1841~1913)である。信州の渋温泉で生まれ育ち郷土愛の強い画家として知られる。幼名を丑松といい、佐久間象山は少年が習字するのをみて将来モノになると褒めたという。また果亭はなかなかの風流人でもあって、音楽を好み月琴を弾じ、一茶を慕い俳句も嗜んだ。俳号を花庭としたが、花違い、よく似た名で詩人児玉花外とだぶる。
右の画:「深山大沢」1902年作。
師弟関係にあったふたりは北信州に生まれた。中野は渋温泉へいたる表口にある、渋温泉は歴史ある温泉地で、象山、一茶、北斎などの文人が訪れたとされる。春になったら訪れてみよう。
注記:
2015年3月2日(月)
今ちょうど笠岡市立竹喬美術館で没後60年「菊池契月展」を開催中だ。笠岡は倉敷のまだもっと西、行ってみたいがちょっと遠い。それに今年が没60年にあたる年だからまだほかでもやるかもしれない。ひょっとして信州などで・・・。
菊池契月(1879~1955)は、長野県下高井郡中野町(いまの中野市)で素封家の細野家の次男として生まれた。13歳で渋温泉在住の文人画家児玉果亭に入門する。父親の反対を押し切って京都へ家出し、やがて18歳で、将来後を継ぐこととなる菊池芳文の門下となる。
契月は今まで名前を聞いたことがあるようなないような人であったが、今日、「なんでも鑑定団」を見ていて、氏の作品が登場、一目で好きになった。しかも信州生まれの画家とあってなおさら興味が湧いたのである。
左の画の紅い着物を着た女性のしっかりと見据えた目線がリアリティに富んでいて何ともいえなく好きである。
この画は1986年の切手趣味週間の図柄にもなって有名である。契月の画風が変遷して行くなか、大正11年のヨーロッパ留学を経たあと、ひとつの境地に到達したときの作品とされている。 「南波照間」1928年(昭和3)作。
左より:「少女」1932年(昭和7).「散策」1934年(昭和9).「姜詩妻」1907年(明治40)頃。
「姜詩妻」は28歳の作品、いくども新しい画風に挑み、後の画になるにつれ、背景を描かずに人物に注力した画となっている。ずいぶんと違うようだが、でもどちらも気品ある美しさには変りない。
契月を13歳のときに預かった師匠が児玉果亭(1841~1913)である。信州の渋温泉で生まれ育ち郷土愛の強い画家として知られる。幼名を丑松といい、佐久間象山は少年が習字するのをみて将来モノになると褒めたという。また果亭はなかなかの風流人でもあって、音楽を好み月琴を弾じ、一茶を慕い俳句も嗜んだ。俳号を花庭としたが、花違い、よく似た名で詩人児玉花外とだぶる。
右の画:「深山大沢」1902年作。
師弟関係にあったふたりは北信州に生まれた。中野は渋温泉へいたる表口にある、渋温泉は歴史ある温泉地で、象山、一茶、北斎などの文人が訪れたとされる。春になったら訪れてみよう。
注記:
2015年3月2日(月)
今ちょうど笠岡市立竹喬美術館で没後60年「菊池契月展」を開催中だ。笠岡は倉敷のまだもっと西、行ってみたいがちょっと遠い。それに今年が没60年にあたる年だからまだほかでもやるかもしれない。ひょっとして信州などで・・・。
by kirakuossan
| 2015-03-01 14:41
| 美術
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